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なぜ、学校の「いじめ」が解決しなかったのか

これまでわれわれは、実際に起きている人権侵害や差別をなくすことばかりに力を注いできました。その反面、「加害者」と「被害者」の間に具体的にどういう関係をつくることが、人権侵害等の「解決」になるのかを、ほとんど考えてこなかった気がします。その結果、いくらなくす努力をしても、人権侵害や差別が一向になくならないというおかしなことが起きてきたのです。

「仲直り」をさせても、「いじめ」はなくならない

学校での「いじめ」で言えば、「いじめ」をした子どもや見て見ぬふりをしていた子どもたちに、担任の先生が、「いじめがどんなに人の心を傷つける、いけない行為か」をホームルームでよく話した後、放課後、応接室に加害者と被害者の両方の親を呼んで、親の前で加害者から被害者に「ごめんなさい」を言わせ、仲直りの握手をさせるようなようなことが、今まで「いじめ」の解決だと思われてきました。それでいじめはなくなるでしょうか。なくなりません。一層、見えづらい形で続くのです。つまり、このような「解決」の努力は、残念ながら実際の解決にはつながらないのです。

「いじめ」は、なぜ、どのようにして起きるのか

「いじめ」を本当に解決したければ、「いじめ」がなぜ、どのようにして起こってくるのかを、まず理解しなければなりません。そのことをろくに考えずに、「いじめ」は「間違ったこと(正しくないこと)」なのに、そのことを子どもたちはわかっていないから「いじめ」が起きるんだ。だから、とにかく子どもたちに「いじめはダメだ」と、きちんと理解させれば「いじめ」はなくなるはずだ、つまり、単に「いじめ」を「なくせばいいのだ」と考えてしまうと、実際には「いじめ」をなくすことが、きわめてむずかしくなっていくのです。

学校の「いじめ」を生んでいるのは「力の関係」

学校の「いじめ」を生んでいる直接の原因は、「強い立場」の子どもと、「弱い立場」の子どもの「力の関係(たとえば、スクールカースト)」にあります。(くわしくは、「高校生のための人権入門(13) 学校でのいじめについて(子どもの人権(2))」などをご覧ください。)どの子(のグループ)が、その時期にもっとも教室の中で力を持つか、また数人の子どもたちでつくる友だちグループの中で、だれが「しきる」かは時間とともに変わります。しかし、教室の中で子どもの力関係(力のピラミッド)が生まれることや、友だちグループの中で力関係(「強い立場」と「弱い立場」)が生まれることを防ぐことは、実際には不可能です。

子どもは、自分たちの「まとまり」のために「いじめ」をしている

子どもたちが「いじめ」をするのは、また目の前の「いじめ」を容認してしまうのは、自分たちの集団の「まとまり(教室内のつながりや、友だちグループのつながり等)」を守るためなのです。このことを理解しないと、「いじめ」の解決は永久に不可能です。つまり、「いじめ」の加害者や傍観者の子どもたちにとって「いじめ」は、実は自分たちの「まとまり」を守るためには「必要なこと」、「正しいこと」、「仕方のないこと」なのです。このことを踏まえないと、教員や親がどんなに必死に「正しい」言葉を子どもたちに投げても、子どもたちの心には届きません。(この点もくわしいことは、「高校生のための人権入門(13) 学校でのいじめについて(子どもの人権(2))」などをご覧ください。)

おとなと子どもの、「正しい」がズレている

教員や親などが言う「いじめは卑劣な行為だ」とか、「同じクラスの仲間なんだから仲良くしなさい」という言葉は、おとなにとっては、きわめて「あたり前」の「正しい」ことですが、子どもたちにとっては、そうではありません。子どもたちにとっては、今、自分が所属している集団のまとまりを守ることが、何よりもまして「あたり前」の「正しい」ことなのです。そのため、集団のまとまりを壊す者は、排除するのが「正しい」ことになるのです。

こういうことを書くと、わたしが加害者を弁護し、まるで被害者がわるいと言っているように感じる方もいらっしゃるかもしれませんが、それは誤解です。「いじめ」に限らず、あらゆる人権侵害や差別において、加害者側にも被害者側にもそうする(される)理由(原因、要因)があるということ、そして、相手がそうすること(その原因、要因)への互いの無理解が、「いじめ」や人権侵害や人権トラブルを生んでいるというのが、わたしの立場です。ここでいう「原因、要因」という言葉には、非難や批判の意味はまったくありません。単に事実関係を述べているだけです。(くわしくは、「『本来の責任』が人権トラブルを解決する(その2)」などをご覧ください。)

「あなたたちは、なにもわかっていない」

「いじめ」の加害者や傍観者の子どもたちに、加害や傍観をやめるように話した経験がある方は、一生懸命、自分が話している言葉に対して、一部の子どもから「あんたたちはなにもわかっていないよ」という軽蔑的な態度をとられた経験がきっとあるはずです。(おとなへの対応を心得ている子どもは、そういう対応をすれば自分に不利になることがわかっていますので、そういうことはしません。)だれが聞いても「正しい」ことを自分は言っているはずなのに、それで子どもから見下されるような態度をとられることは、おとなにとってはショックです。ある人はそんな子どもの態度に当惑して、「いじめ」がよくないことだとわからせようとさらに熱を込めて子どもに話をしますし、ある人はカッとなって子どもを怒鳴りつけたりしてしまいます。

加害者の子どもは、現実には、おとなは自分(たち)より「強い立場」にいるので、最後にはおとなたちの言うことを、形の上では聞き入れます。そうしなければ、学校や家庭で暮らしていけないからです。しかし、心の中では相変わらず自分(たち)が「正しい」と思っていますから、おとなの目につかないところで、さらに陰湿な「いじめ」を続けます

ふたつの「正しさ」のぶつかり合い

教員や親たちは、「いじめ」の解決とは、「いじめ」がなくなって、子どもたちみんながお互いを大切にして、「なかよくする」ことだと思っています。そして、そのためには自分たちの信じる「あたり前」の「正しい」ことを、子どもたちに理解させ、受け入れさせればよいと考えます。しかし、子どもたちは自分たちが「なかよくする」ために、自分たちのつながりを壊す子どもを、自分たちの集まりから排除しようとするのです。これが「いじめ」です。ここに生じていることは、人権トラブルに必ずつきまとう、相容れないふたつ(この場合は、おとなと子どもと)の「正しさ」のぶつかり合い(心の断絶)なのです。

「いじめ」は、最初から相手の「排除」を目指している

学校での「いじめ」は、職場でのパワーハラスメントと似た面をたくさん持っています。しかし、職場でのパワーハラスメントは、ふつうは職場のめざす「目的(事業の効率化や適正化、収益の増大等)」の実現のために、それに反しているように思われる人を「指導する(正す)」ところから始まり、それがうまくいかないことが重なると、やがてその人を自分たちの集団から排除することをめざすものに変わっていきます。これに対して、学校での「いじめ」は、ほとんど最初から、その子の「排除(のけ者化)」や「パシリ(召使い)化」を目指します。(「パシリ(召使い)化」も、相手と自分たちの間に超えられない境界線を引き、相手を自分たちとはあきらかに違う地位の「子ども」にしてしまう点で、「排除」の一種だといえます。)

ほとんど最初から相手の「排除」を目指して行われる点が、「いじめ」の大きな特徴です。これはおそらく学校での子どもの集団と、職場でのおとなの集団の違いからくるものです。(くわしくは、「高校生のための人権入門(20) パワーハラスメントを生む『集団』とは」などをご覧ください。)そのため、「いじめ」は初期の段階から、「排除」や「パシリ(召使い)化」を当然とする悪質な行為になることが多いのです

「いじめ」を解決するためには

最初に、「これまでわれわれは、実際に起きている人権侵害や差別なくすことばかりに力を注いできました。その反面、『加害者』と『被害者』の間に具体的にどういう関係をつくることが、人権侵害等の『解決』になるのかを、ほとんど考えてこなかった気がします。」と書きました。教員がクラスの子どもたちに対して、「みんな、お互いを大切にして、なかよくしよう」といくら呼びかけても、「いじめ」はなくなりません。「みんながお互いを大切にして、なかよくする」ということは、「加害者」と「被害者」の間にどういう関係をつくれば、「いじめ」がなくなるのかという問いに対して、実はなんの現実的な答えにもなっていないからです。

「いじめ」を解決するためには、子どもの集団において「強い立場」の子どもが、「弱い立場」の子どもに、具体的にどのような関係を持つことが、「いじめ」の具体的な解決になるのかが、実際にイメージされ、それが実現されなければなりません。加害者(「強い立場」の子)が、「いじめは絶対に許されない」と自覚し、被害者(「弱い立場」の子)の立場や特性を理解して、「思いやり」の心を持ってなかよくする。そのようなおとなが抱く「絵に描いた餅」のようなイメージでは、実際の子どもたちの関係は変わりません。結果として、いじめは一層巧妙化して、おとなの目に見えないような形でさらに続くのです。

どのような関係を実現すればいいのか

では、「強い立場」の子どもが、「弱い立場」の子どもに、どのような関係を持つことが、「いじめ」の解決になるのでしょうか。実はこのことは原理的には、実にシンプルなことです。加害者(「強い立場」の子ども)が、被害者(「弱い立場」の子ども)の「つらさ」に対して、「責任」を感じるような関係をつくることができれば、「いじめ」は解決します。ここでいう「責任」とは、自分より「弱い立場」の人が本当に苦しんでいる時に、それを助けないではいられない思いを言います。(この「責任」という言葉の意味などについては、「『義務』の強調は『責任』を忘れさせる ~人権尊重は自らの『責任』を認めること~」などをご覧ください。)

「強い立場」の子どもたちの心に「責任」を生むこと

「いじめ」で起きていることは、「強い立場」の子どもが、自分の集団のまとまりを守るために、「弱い立場」の子どもに嫌がらせをし、自分たちの集団から追い出すということ(排除)です。ですから、その解決のためには、「強い立場」の子どもが、その子が排除されずに、自分たちの集団の中にいられるようにする「責任」が自分にあることを感じ、その子に対して今の自分にできることを自らすることが、ぜひとも必要なことなのです。

原理的にはそういうことですが、これを現実に実現することはきわめてむずかしいことです。(これは、子どもたちがまだ幼いからではありません。おとなのわれわれが、今、人権侵害や差別をなくせないでいる理由も、これとまったく同じことだからです。)ただ、これをある程度実現することは、不可能なことではありません。たとえば、男子の集団の中で、ASD(自閉スペクトラム症)の傾向がある男子に暴力や嫌がらせが起きていた時、そのリーダー的な男子と、担任が話を続ける中で、その男子が、今までとはうって変わってASDの傾向がある子のめんどうを見るように変わることも、まれですが実際にあるからです。

「教師はだまされていいんだ。それが教師の仕事なんだ」

ただ、そのようなことが実際に起きるためには、教員が暴力や嫌がらせをした加害者の子を、頭から一方的に叱ったり非難したりせず、まずなぜ暴力や嫌がらせをしたのかを、「批判的な態度なし」にその子からよく聴くことが必須です。次に、被害者の子が感じている暴力や嫌がらせを受ける「つらさ」を、「批判的な態度なしに」その子に率直に伝えることです。以上の2点が実現ができれば、原理的にはその子の中にある程度の「責任」が発動します。

ただ、ここで一番大事なことは、問題行動を起こした子が、目の前で話をしている教員を「信頼できるか」どうかです。それまでに嫌というほど教員に「だまされ、裏切られてきた」子は、どんな教員も「信頼しません」。「信頼」がなければ、教員がする話はすべて自分をだまそうとしているように聞こえ、「責任」は発動しません。子どもは、おとなのウソや「ふり」を見抜くのが、おとなの想像する何十倍もうまいものです。子どもをだましたつもりで、教員が子どもにだまされていることは、きわめてよくあることです。しかし、そんな事態に対してある教員は、「教師はだまされていいんだ。それが教師の仕事なんだ」と言っていました。けだし、名言だと思います。

そして、この「教師はだまされていいんだ。それが教師の仕事なんだ」という言葉の中の「教師」は、本当は「親」や「おとな」、そして「強い立場の人」に入れ替えてもいいのです。「弱い立場」の人とっては、「強い立場」の人をだますことが、ほとんど唯一の身を守るすべなのですから。そして、うすうすわかっていながら、あえて「だまされる」ことは、「強い立場」の人の「責任」のあらわれだとわたしは思います。

ただ、今の世の中で起きていることは、これとはまったく逆で、世の中の「強い立場」の人たちは「だまされない」ことだけを誇りとし、「弱い立場」の人たちを(自分の立場や力を使って)うまく「だます」ことだけを考えているように見えます。

おとなが「いじめ」の解決をあきらめるやり方

学校での「いじめ」の解決は、原理的には先ほど述べたとおりです。そして、それを現実に実現することはきわめて困難です。しかし、困難だからあきらめていいことにはなりません。ある程度の達成でも、現実的な効果はあるからです。逆に、おとなが解決をあきらめてしまえば、「いじめ」はその子が子どもたちの目の前からいなくなるまで、どんどんひどいものになってひたすら続くからです。

おとなが「いじめ」の解決をあきらめるやり方は、大きくふたつです。ひとつは、「あれは、いじめではない」と考えることです。こういう考え方がどうして生まれるかは、「『見えているのに、見えないもの』 無意識と自己欺瞞」などをご覧ください。そして、こういう考えがどういう結果をもたらすかは、すでにわれわれはよく知っています。

もうひとつは、「いじめは、子どもの(または、人間の)本能(本性)なのだから、なくせない」と考えることです。このような考え方は間違っています。子ども(または、人間)の中にあるのは、人をいじめて喜ぶ「生まれながら性質(本能、本性)」ではありません。子どもたちの中にあるのは、自分の所属する集団のまとまりを維持しよう、強めようとする思いです。人が集団のまとまりを維持しよう、強めようと思うこと自体は、たぶん「よいこと」でも「わるいこと」でもありません。ただ、人がひとりでは生きられないということを前提とすれば、それはどちらかといえば「よいこと」かもしれません。しかし、そのような人の持つどちらかといえば「よいこと」が、「弱い立場」の子どもへの「排除」を生み、その子に耐えがたい「苦しみ」をもたらすことが、問題なのです。同じようなことは、おとなたちが行っているナショナリズムにもとづく争い(テロ、戦争、弾圧等)などについても言えます。

「自己愛」が差別や人権侵害の解決を妨げている

「いじめは子どもの本能(本性)だから、どうしようもない」という考え方は、「差別や人権侵害は、人間の本能(本性)だから、どうしようもない。なくしようがない」という考え方と直結します。このような考え方は、「強い立場」の人たちか、(「強い立場」でもないのに)自分を「強い立場」の人たちと同一視したい人たちが、「自分はなにもしなくてもいい」と思い込むために使う口実(言い訳)にすぎません。「強い立場」でもない人たちが、自分を「強い立場」の人たちと同一視する背景にあるのは、「虚像の自分」を自分だと思い込んで、それを愛し、手放したくないと考える「自己愛(自分への満足欲求)」です。(このような「自己愛」がもたらす罠については、「『自己愛の罠(わな)』について」などをご覧ください。)

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