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ショートショート「沈む石」

今日もツイテナイ。

その女は、足元にあった小さな石を蹴った。もちろん周囲にはだれも人がいないことを確認しての行為だったが、その行為が女にとって、ちょっとしたストレス解消になる。だがまたすぐ、イライラした。

イライラの原因は、別にこれといって特定するものもないのだが、つかみどころのない自身の感情が、女のイライラをさらに加速させるのだった。

「なにかいいことないかなぁ」

何の気なしにつぶやいてみるが、自分の人生にいいことなどちっとも起こりそうにない、と思った。友人たちは仕事や家庭で忙しい。友人たちに声をかけて気晴らしにヒマそうに見える自分に時間を使ってもらうのも申し訳なく、人生を持て余している様子にみられるのは、なおのこと面白くない。

ふと、女の背後に、人の気配がした。

「お悩みのようですな……」

振り返るとそこには、黒い服の老婆がいた。黒い毛糸の帽子を目深にかぶっているので表情はよく見えない。だが、まわりをみても誰もいないので、自分に向かって話しをしているのだと女はすぐ理解した。

「あら、そう見える?わたし、これでも人生けっこう楽しんでいるほうだと思うけれど」

女は老婆の顔をうかがおうと試みたが、やはり、よく見えない。老婆は、やせ細った枯れ木のような腕を女のほうへ伸ばして言った。

「あたしには、ようくわかります。あんたさん、顔が怒りに満ちているのでね。怒りっていうのは、人間の感情のなかで一番わかりやすい。そして怒りは、稲妻のようにまわりの人間を感電させるのさ。わずかな怒りでも、そばにいる人間にはすぐわかるものさ」

老婆は低い声で、ケケケと笑った。

「怒り?わたし、別に怒ってなんか、いないわよ」

女は老婆に応答しつつ、さきほどのイライラがまた波のように押し寄せてくるのを感じた。小石を蹴るだけでは到底おさまりそうにない、熱くてどろどろしたものが体中を駆け巡る感覚。女は老婆に気付かれぬよう、静かに深呼吸した。

老婆はそんな女のすべてを見透かすかのように言った。

「あたしが言いたいのは、今のままじゃあんたさんが苦しいだけだということさ。あぁ、あたしはべつに占い師とかそういう類のものじゃないよ。ただ、ちょっとした力を持っていてね。あんたさんに、これをやるよ」

老婆はポケットから小石をひとつ、取り出した。これといった特徴もない、どこにでもある石のように、女には見えた。

「この石は、怒りを鎮める石さ。あんたさん、家で魚を飼っているね。その水槽にこの石を沈めてごらん。怒りがすっかり消えてしまうから」

女は確かに、自分のアパート部屋に小さな水槽を置いていた。犬や猫が飼えない借家なので、せめてもの癒しにと金魚を2匹飼っていた。どうして水槽のことを……。まぁいい。きっと、あてずっぽうに言っただけだ。

「この石で悩みが消えるとかそんなこと言っても、わたしにとってどうでもいいことだわ。売りつけるつもりじゃないの?」

老婆はまた笑った。

「まさか。あたしの趣味は、人助けさ。試してみるといい」

次の瞬間、女の一瞬のまばたきのうちに老婆の姿は跡形もなく消えていた。

女は水槽のそばに、老婆からもらった小石を置いた。老婆の言ったことがほんとうであるならば、試してみるのも悪くない。イライラしたときに石を水槽に沈めてみようと女は思った。


・・・

その室内にはグレーのソファと古びた茶色のテーブル、イスがある。ベランダに続く窓際に小さな飾り棚があり、その棚の上にはこじんまりした水槽が置いてあった。

赤い金魚が二匹、寄り添うように泳いでいて、女は金魚たちをなんとなく眺めていた。魚はいい。散歩に連れていけと吼えることもなく、何かの作業を邪魔するようにすり寄られることもなく、フンの後始末に苦労することはない。

水槽の環境を適切に保つ、ろ過装置の、水流を起こす水音がなんと心地よいことか。女が魚の影を目で追いつつウトウトしていると、スマホの着信音が鳴った。鳴らした相手は上司だった。女は舌打ちして、着信に出た。

「はい、お疲れさまです」

{お疲れさま。休み中悪いんだけど、例の案件、ちょっと面倒なことになっちゃってね。今すぐ会社に来て欲しいのよ}

「今から、ですか?」

{そう。今すぐ。あなたがいないと回らないわ。じゃあ、待ってるからね。着いたら連絡して}

着信相手はひとしきり言いたいことを言い終えてすぐ通信を切った。

またこのパターンだ、と女は思った。女にとって上司は、相手の都合に配慮するとか、気遣いをするといったものがまったく感じられない人間であるように思えた。どうして私はあの人のために、いつもコマネズミのように動かなくちゃならないの?女はだんだん怒りがこみあげ、こぶしを机にたたきつけた。

その瞬間、女は老婆からもらった小石を思い出し、水槽横に置いた小石をつかんでそのまま水槽にぽちゃんと入れてみた。小石は小さな泡をたてながら、ゆっくり沈んでいく。水槽の底に石が着地したのを見届けたそのとき、女は、さっきまで怒りに震えていた衝動がきれいさっぱり消えてしまったことに驚いた。


沈む石


「うそでしょ……イライラが消えちゃった!」

怒りがなくなったどころの話ではない。逆に爽快感というか、とてもスッキリしたさわやかな気分が女を包む。たった今まで浜辺をゆっくり散歩して帰ってきたかのような心地だった。

十分リラックスできているのだから、今から仕事だとしても、ちっともいやな気分じゃない。女は急いで着替え、職場に向かった。道ですれ違う人々に笑顔を向ける余裕さえある。これはすごい。

夕方、職場からの帰り道、あの老婆に再会した。

「すみません、おばあさん。わたし、あなたを探してたの。石をいただいた者です」

老婆は女の顔をみるとにやりと笑い、

「ああ……そうじゃったね。ようく覚えているよ。あんたさん、かなり怒っていたものね」

老婆は何かを確かめるようにうなづき、女の顔をじっと見た。

「うまくいったようじゃの」

「はい。イライラがすっかり消えて、本当におかげさまで……!ありがとうございます。あなたに出会えてわたしは運がいいわ。それで、石をもう少しわけてほしいのです。もちろん代金はお支払いしますから」

「石がもっとほしいのかい?この石の効力が、わかったようじゃの」

「それは、もう!」

女はすがるような目で老婆に頼みこんだ。老婆はしばらくじっと黙った後、片手を服のポケットにつっこみ、片手のひら程の大きさの、銀色の巾着袋を取り出して女に言った。

「この袋の中に、あの小石がじゃらじゃら入っておる。好きに使ったらいい。ただし、使うのは一日一個じゃ。それ以上の数を、水に入れてはいかん。これは約束ごとなのでな。それから、わたしは人助けが趣味じゃから、代金なんぞいらんよ。そうじゃ……、こんどまた、あんたさんに会える日を楽しみにしておくよ」

老婆はそういい残して、煙のように消えていった。女の手には、銀色の巾着袋がずっしりと残されていた。

それから女は、自分ではどうにも解消しようがない極度のイライラ状態になったときに、小石を水槽に沈めた。それでいっぺんにイラだちが消え、爽快な気分になる。

巾着袋の小石は1個使えば1個増える仕組みのようだ。そして沈めた石は、いつのまにか跡形もなく消えていた。老婆のいうとおりに使っていれば、減ることはなく永久に使い続けることができる。

小石を使うのは毎日続くときもあれば、3日に1回くらいで済むときもあるが、やはりどうにも気分が収まらないことが一日の中で何回も起きるときは小石を連続して使いたい衝動に駆られた。

2個以上入れたらどうなるのだろう。女は試してみたくなった。今日という日は女にとって特に、ひどい扱いを受け続けたような一日だと思えた。水に沈める石が一個では、割に合わない。わたしはもっと大切に扱われてよい人間のはずだ。

女は小石を2個、水槽内へゆっくりと沈めた。とたんに、いいようのない歓喜の波が胸いっぱいに押し寄せる。女はもっと石を入れたくなって、次から次に小石を水に沈めた。

すると沈めた石がみるみるうちに膨らんで、どんどん膨らんで、水槽内を圧迫していく。金魚が口をあけ、ぱくぱくと苦しそうに水面に顔を出した。それでも石は膨張し続け、金魚はとうとう息ができなくなって、やがてそのからだはゆらりと力なく水面に浮かんだ。

膨張した小石はもはや小石ではなく、黒い大きな塊となって水槽を突き壊し、女の部屋中にごろごろと転がり続け、やがては塊どうしがぶつかり合い粉々に砕け散った。散らばった小石はさらにぶつかり合い、最終的には砂粒ほどの大きさになった。サラサラと流れる砂を見て、女は呆然と壊れた水槽を見つめた。


・・・

「おや、この間のお嬢さんかね」

老婆が女の背に向かって声をかけた。女は振り向き、首を横にふった。

「どなたでしょう。わたし、近頃忘れっぽくて。なにもかも、忘れてしまうの。最近のことだって……楽しかったこと、悲しかったこと……まったく覚えていられないのよ。……でも、それもいいかもしれないわ。おばあさんはお歳を召しているのでおわかりでしょうけれど、年をとって良いことって、きっとこういうことよね。いろいろ忘れちゃうと、すべてのことが、まぁいいかって思えるもの」

女は微かに笑うと、老婆にくるりと背を向け去っていった。そのあとに、幾らかの砂粒が女の後を追うように点々と続いていた。





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