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皆に嫌われることがプロジェクトマネージャーの仕事な気がする

最近こんなことを思う。関係者たちから等しく嫌われるってことはものすごく重要なんじゃないかと。

PjMの仕事は決断することだ。

プロジェクトの規模や複雑性が大きくなるほど関係者は増え、ひとつ決断する度に誰かしらは嫌な顔をするもんだ。

誰も嫌な思いをしないプロジェクトがあるとしたら、それはそもそもやる価値のない仕事だろう。一見社会に与える影響がとても素晴らしいような仕事でも、受注した側の経営者だったり実際の作業に関わる人だったり、誰かしら影で泣いている。

皆に等しく嫌われるような決断をしないといけないなと、最近しみじみと思う。特定の誰かの方向ばかりを見て、立場の弱い人を泣かせるって構造は世の常だ。システム開発のプロジェクトでも往々にして発生する。

現場の声をよく聞かずに経営者の顔を立てるためのDXプロジェクトを推進した結果、誰も使わないシステム群がめでたく完成したり。エンジニアの機嫌を損ねないように、無理なく働いてもらい納期なんかも簡単に伸ばせるようにしたら、ユーザーや経営者は悶々として過ごさないといけなかったり。

PjMの決断が誰かしらサイドによってしまったら碌なことがない。
だから、等しく痛みを分かち合うような決断をする必要がある。嫌われることを恐れて(あるいは強い立場の人の顔色をうかがって)痛みを伴う決断が出来ないと、後々皆が苦しむ場合が多いはずだ。

これは、嫌なやつになれとか積極的に嫌われろと言っているわけではなく、それが仕事なんだから嫌われる覚悟をしとけよって話である。もうどうしようもないことなんだ。

むしろ逆のことを言いたい。嫌われるの決断をいつかはするのだから、せめて近くにいる人のことをよく知り、好かれる努力はした方がよい。
前の記事にも書いたが、僕はチームメンバーの仕事への哲学を知り、決断の際には尊厳を踏み躙らないように配慮しようとしている。


何を持って決断するのか。
それは納品物一覧表でも、ガントチャートでも、決済者の声でもない。
このプロジェクトが誰のために存在し、何を目的とし、何を成し遂げるかである。アジャイル開発でいうところのインセプションデッキだが、ステークホルダーが皆で集まって作ったものならなんでもいい。

重要なのは、皆でこれを作るということだ。
皆で作り上げたものであれば、痛みを伴う決断であれ渋々納得はされるはずだ。これがお偉い方やPjMだけで決められた何かによって決断がなされているから、現場は反発しPjMは無茶苦茶嫌われるんだ。アジャイルサムライもそう言っている。

チームメンバーが誰もいないところで合意したことを前提にしているから、プロジェクトがだめになるんだ。

アジャイルサムライより

SIerにいた頃はわがままを言う顧客や無茶な約束をするお偉いさんに憎しみを覚えることが多々あった。システム開発を舐めているのかと激怒したことも少なくない。今僕は自社サービスの会社にいるのだが、今度はもっと理不尽さに振り回され死ぬほど働いた方がいいのではないか?という疑問が頭をよぎっている。

労働周りの法律が厳しくなり、随分とこの業界も働きやすくなったと聞く。エンジニアの働きやすさは転職市場の一大注目ポイントだ。でもそれが本当にお客さんのためなのか、だんだんわからなくなってきた。


PjMになりたい人間は少ないと聞く。
僕も別になりたかったわけではなく、むしろバリバリのプログラマーとして生きていきたかった。適性があったのか、誰もやりたがらないから重宝されたのか、何故かこの仕事を続けている。

子育てをしていて強く感じるのだけど、親の役割って子どもに好かれることでも楽しませることでもなく、子どもがひとりで生きていける能力を身につけさせることだと思う。我が子が泣く姿は辛いけど、嫌がろうが正しい躾ってのはやらなくちゃいけない。プロジェクトマネジメントも似たようなところがあるなーとか思ったりする。

常に少しずつ嫌われる決断ができるような人間でありたい。


この記事は「プロジェクトマネジメントとか組織作りとか Advent Calendar 2022」の12月4日分として書きました。僕が普段考えていることを言語化しています。


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