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「行動」と「存在」

「存在」とは、其処に在ることです。人間は、今ここに存在するだけで尊いし有り難い。

詰まり、存在そのものが存在意義なのです。

ただ人間は、鉱物でも無いし、植物でも無くて、動物つまり「動く物」なんです。

即ち自分の身体を動かして何かをする存在なのです。

確かに「物思いに耽ける」のも「空想を逞しくするのも」行為で無いとは言えないが、行動と呼ぶには身体が伴ってはいない。

詰まり、人間は想いや感情に留まらず、行動によって現実世界にエネルギーを流す「身体的動物存在」なのです。

何が言いたいかと言うと、行動に踏み切る勇気の欠如が、行動を思い留まらせ、頭の中だけでエネルギーを循環させ、身体的エネルギー展開を躊躇わせるようではいけないと言っているのです。

詰まり、人間は単に「空想に耽けったり、感情に身を任せたりするに留まらず」「身体的表現によって三次元展開をしたい存在」だったのです。

詰まり、自分と言うエネルギーの発露が、想いと感情と身体の三つを使いたい生き物、それが人間存在なのです。

行動とか行為と言う身体的表現を伴う事の「恐れや不安」は、成功や喜びの獲得の裏返しなのです。

詰まり、身体的行動に伴う不確実性こそが三次元的スリルなのです。

だってスタントマンはスタントに失敗したら、死ぬかもしれないのに、果敢にチャレンジする冒険家なのです。もしも万一パラシュートが開かなかったらどうすんの?

開かなかったら、死ぬだけの話です。

そう考えると人間は無謀でリスキー過ぎる生き物と言えるのかもしれません。

行動の結果に関する「不確実性」こそが、無数の並行現実を生み出す原因とも考えられます。

人間とは、身体的行為者たる事で、単に霊的存在であるより、無謀なる勇者足り得たのです。

行動に伴うリスクと勇気、安全性の確保との兼ね合い、そう言う意味で、人間存在は一か八かの出たとこ勝負の命知らずの博徒に等しい存在なのかもしれません。

だって海の物とも山の物とも分からない結婚相手と結婚に踏み切る無謀さを持ち合わせているのですから。

三次元の不確実性は、シュミレーションを重ねた処で、完全には担保されません。

三次元的冒険心は、人間に行動を促し、行為者の表現力を問う。

貴方はチャレンジャーなのか、それともビビリ屋の臆病者なのかと。

人間と言うエネルギーの発露、エネルギーの通路、生命の通り道で、人間は躊躇い戸惑いたじろぎ後退りしたくも成る。

情熱のままに生きたら、それが正解なのだ。そんな気楽な勇者でいられたら、どんなに人生は嬉しい事だろうか?

不確実性をより確実性へと持って行きながら、人は冒険心と公務員的安心感の両方を手にしたい。

行動へと突き動かすのは、勇気なのか蛮勇なのか、それとも情熱とか狂気なのか?

物思いに耽ける、空想を逞しくする、身体的暴挙に出てみる、身体的表現により三次元存在は通電して初めて、完成を見る。

三次元的表現者は、身体的表現を持って、自己表現を完結させたい。

それが身体的行動即ち行為者の三次元的表現形式に違い無いのです。



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