安珠(写真家)
写真家。東京出身。80年、モデルデビュー。82年、ジバンシーにスカウトされ渡仏。ボーグ、エル等の雑誌・コレクションで活躍し、88年帰国後、写真家に転身。以後、文章を織り交ぜた独自の写真世界を作っている。作品集多数。
- Interviewz.tv - 収録日 2001/04/28
――安珠さん、昔、大病したんでしたよね?
安珠 ええ、10歳の頃です。
――臨死体験しました?
安珠 しました。作品の「少女の行方」(91年)はそのときの体験が元になっています。
――気持ちよかったですか?
安珠 気持ちいいというよりも、不思議な感じでしたね。
――僕のときは気持ち良かった。覚えてるもの。このまま死ねたらいいなって思った。
安珠 臨死体験した人が見る映像は、死の縁にいるからこそ見れるもので、一説によると、脳に組み込まれているらしいですね。立花隆さんによると、世界中どこでも、まずお花畑があって河が出てくる。わたしの体験もそうでした。
――そのまま死んじゃえばいいとか思わなかった?
安珠 思ったら……たぶん終わっちゃうんじゃないですか。あっ、トミーさん終わってないか(笑)。私の場合、幼かったので明確に「死」という感覚はなかったから。
――臨死体験を経て復活したとき、以前と以後で何か変化ありました?
安珠 入院生活では、窓の外をよく眺めていました。そのうち、私が死んでも窓の外側の世界は変わらないんだ、と気づき、切なさを感じました(笑)。わたしはこの「一瞬を永遠」にも感じるのに、跡形もなく消えてしまうんだって。そうやって幼いながらに死を受けとめていたのに、奇跡的に助かり、生かされた。そうなると今度は生きる意味がわからなくなったんです。なぜ、生かされてるんだろう?なんのために生きていくのか。生きるっていうことが重荷になりました。少女性をもって大人に成長するというよりも、少女のままで死ぬはずだったのに、大人になる自分を否定する子供になりました。
――闘病生活は?
安珠 2ヶ月くらい。
――あの、今更ながら病名は?
安珠 診断ミスでの腹膜炎です。
――後遺症とか残らなかった?
安珠 はい。でも、やはり虚弱体質で、大人になって……20歳越えてから7回入院しました。廣島の牡蠣を食べ過ぎて食中毒になったり、嵐の中で撮影をして、肺炎になったり、不眠不休でダウンしたり、無謀な性格からですが(笑)。自重して、この六年間は健康です。
――モデルになったきっかけは?
安珠 スカウトです。中学のときから誘われていましたが、真面目に絵を描いていたんです。でも、大学に入ったとき、丸井のコマーシャルに熱心にスカウトされ、こんなに期待してくれるのなら……期待に応えてもいいんじゃないかって。撮影もハワイだったし(笑)
――なりたくてなったわけじゃない?
安珠 ええ。目的ではなく過程として。でも、絵を描いていたので、創作現場には興味がありました。
――撮影された実感はいかがでした?
油絵は、一枚描き上げるのに何時間も何日もかかります。でも、写真は一瞬を切り取ってしまう。あたりまえだけどその事実に愕然としてしまいました。写真は一瞬を切り取れる。絵を描いていると、その時間の中で、私の気持ちが変化していくんです。極端に言えば、恋のようにさっき好きだったものがイヤになったり……その感情に筆が追いつかない。もどかしく、はがゆかったです。でも、モデルを通して知った、写真は一瞬を切り取り、この「一瞬が永遠」になるんだと感動しました。描ききれなかったものが写真に表現できる……かも知れない。もう写真に一目ぼれでした。モデルは私にとって、まさに学校でした。
――女子大生くらいだったら、永遠とか持続性という言葉から連想するのは、愛する人と一緒とか、子供生もうとかじゃないですか?
安珠 そればかりじゃないと思うけれど(笑)。生きる答えや時間にこだわっていた私は……不健全な少女だったからかな?
――安珠さんの「時間」っていうのは安珠さんの中でだけで流れていく時間ですね。外に開いてない。そんなイメージがある。他人に伝えない、というかリレーのような永続性がない。
安珠 そうかな?トミーさんはそう思うんだね。とても自分を開いた気持ちで表現しているけれど。「生」と「死」の「時間」。わたしの大切なのは、「一瞬」と「永遠」を生きるってことだから。
――話をモデル時代に戻しまして……。
安珠 ジバンシーが来日し、そのときスカウトされ、すぐパリに行っちゃうんです。
――ふっとカメラマンになってしまった、という印象がありますね。
安珠 いいえ。モデル時代、長かったですよ。7年やってました。パリに5年はいたし。
――そうなるとモデルの舞台はパリ。当時の活躍はわかりませんが、僕にとってはYMOの映画「プロパガンダ」に出てきた「謎の女」の印象が今も強いですね。
安珠 あれもパリに住んでる頃でした。パリから日本に帰ってきたときに収録して、すぐまたパリに戻った。
――あの頃もモデル?
安珠 はい。
――モデルからカメラマンになる転機、これでやっていけると思ったきっかけを教えてください。
安珠 モデルをしてすぐ、一眼レフ買いました。日記みたいに撮っていたんです。最初は職業にしようなんて思わなかったんです。
――でも、モデルだったら有名カメラマンと知り合って、技術を見て盗めるわけですよね?
安珠 あ、それはもう、役得ですね。ただ、誰かの真似じゃだめなんです。だからテクニカルな部分だけ、質問するくらいで後は、実践あるのみでした。その人しか撮れない写真ってあると思うんです。そういう写真に興味があるし。つまりは、その人が育ってきた環境だったりするんでしょうけど。例えばH.ニュートンがスノッブでSMチックな写真を撮っているけれど、日本の畳で過ごしてきた人にはあぁは撮れないと思う。それはやはり、ニュートンを取り巻いていた環境がそういう写真を撮らせたんだと思うんです。かっこ悪く言うと「オリジナリティ」ですね。「他の誰もが撮れない自分だけの写真」にすごく惹かれます。
――モデルならスカウトされるけど、カメラマンは自分でなるしかない職業ですよね?
安珠 夢中で撮っていました。それを見ていてくださったデザイナーの中野裕道さんが「うちのコレクション撮ってみないか」と、声かけてくださったんです。それでポスターとポストカードを撮りました。それがお金をもらった最初の仕事です。
――初仕事がヒロミチ・ナカノのコレクションって、すごいデビュー。
安珠 それが面白いんですけど「好きに撮っていいよ」って言ってくださって。そのコレクションのテーマが「不思議の国のアリス」だったんですよ。それで当時10歳だった高橋かおりさんを自分で連絡とって連れてきたんです。そう、ファッションショーのポスターなのに自分で衣装まで作った(笑)。85年だったかな。
――自分が写真家になるにあたって、撮るべきテーマは決まっていたんですか?
安珠 自分が写真家でいく、と思ったときにはもうなっちゃってました。テーマというか撮りたい物語りがあって、それが「少女の行方」という作品です。
――そのときは元・モデルの安珠ですって連絡したの?
安珠 いえ、まだモデル。帰国したのが88年でしたから。
――それでよく(高橋さんの)事務所がオッケーしたもんですね?
安珠 はい。ここで私がすごく言いたいのはですね、自分が作る物がすごく良いモノだと思わないと人も説得できないし、作れないということです。不安なんて何もなかったですね。それに全身全霊で関わる。無知というか、ステキな作品を作ろうとして難関を突破してきたんです(笑)。
――でも、スポンサーいなければ出版も出来ないわけだし……どうクリアしてきたんですか?
安珠 ちょっと、話戻しますね。高橋かおりさんを空き地でアリスのように撮っている。そのうち、10歳ということもあって、大病したときの自分と重なって見えてきて。写真機は鏡だというけれど、まさにそう。幼い頃の自分との対話になってきたんですよ。そこでハっと気がつく。目の前にいる少女は、今を精一杯生きている少女だと。それを確認できたときに、自分も今を充分に生きていると実感したんです。生きる意味なんて、これから知るものだと。写真ってすごいなぁって思える瞬間でした。これしかできないって思いましたね。それで出来たのが「少女の行方」で、私の臨死体験から始まる、私にしか作れない本になりました。そこからカメラマンとしてスタートしたと思います。つまりカメラマンを職業に、というより「これを撮りたい」と撮り続けていたらなってしまった、というのが正しいですね。
――カメラマン宣言とかしたんですか?
安珠 パリに帰ってすぐ「カメラマンになる!」と(笑)。でも大きい仕事の契約とかあって……。モデルやりながらカメラマンもできるって言われたんですけど、性格的に切り替えがちゃんと着かないと先に進めないんですね。それで如除にモデルをフェードアウトしていって、88年にやっと解放された。
――本になったのは「少女の行方」が最初?
安珠 いえ、「サーカスの少年」が先。そのすぐ後本になったんですが、やはり「少女の行方」は時間がかかりましたね。
――なんかイメージ違う。
安珠 え? どこがですか?
――一流モデルからカメラマンに華麗なる転身、みたいな感じがしてました。
安珠 ありがちな(笑)。でも、私の作品はファッション的なものじゃないし、テイストからうける印象は、モデルの要素はあまりないかもしれませんけど。
――日本に帰ってきたときはカメラマンとしてやっていく具体的なプランがたっていたんですか?
安珠 いいえ。父の危篤が帰るきっかけでしたから、プランも何もなかったです。
――パリで活動してたほうがよかったんじゃないかと思いますが。
安珠 そうですね。日本に帰ってきた頃の仕事はやはりきつかったです。物事をストレートに言うフランスに慣れていましたから。
――ストレートっていうか、体育会系っぽいですよね、安珠さんは。
安珠 やはりペースを作る立場ですし、大勢で仕事してると先に進めないといけないので、そういう面はあるでしょうね。でも基本は虚弱体質の文学少女ですから。……少女じゃないか(笑)。
――仕切りますよね。
安珠 トミーさんが仕切ってくれればいいんですよ(笑)。でも、撮影のコンテも自分のアイデアだし、それは仕方ないでしょう。 誰かのイメージで撮るわけじゃないから、当然仕切りますよ。
――作品作るときはそうでしょうけど、例えば雑誌の編集者の意見はどうなるんですか?
安珠 編集者の方は、よく出来た奥さん、器の大きい旦那さんみたいなもので(笑)、私に発注してくれた時点で、嬉しいことに「誌面の折り合いよりもいいページを」と言ってくれます。逆に何回か付き合ううちにこなれてきて、相手の要求に変に応えようとするより、常にいい意味で裏切らないといけないと思ってます。想像する写真より、いいものを、とね。
――ここに登場された方々のほとんどは極貧生活した経験があるんですけど、安珠さんにはそういう経験ありますか?
安珠 やはり日本に帰ってきた直後ですね。食べていくために撮れないんです。撮りたい時に撮りたい物しか撮れない。それで撮りたくなくてずっと悶々としていたときがありました。今から7年くらい前。
――バブル期?
安珠 いいえ、終わってた。ただ世の中が不景気なのと私の仕事の流れには、あまり接点ないような気がします。
――あの、日本の芸能界って「お金とSEX」じゃないですか? そんな中で自分の主義主張を通すのは大変じゃありませんか?
安珠 ストレートな意見ですね、そんなことないと思うけど(笑)。そういう汚れた部分があるなら、接点ないですね。芸能界の友人は多いけれど、そんな関わり方はしていません。よこしまな部分がないから、そういう誘いもないんだろうと思う。例えばヘアヌードとか、タレント事務所、カメラマンを巻き込んで大きなお金が流れる部分はあるだろうけれど、そこに興味はないんです。お金じゃなく、純粋に撮りたいものが作れればいいと本気で思っていますから。
――じゃ、今までにフラストレーションとか感じませんでした?
安珠 私が一番仕事ができなくなったときは、広告のプロデューサーと作品を作ろうということになったときです。それは私も青かったんですけど、商売として時間を切り捨てていくことに耐えられなくて、意固地になってすごく傷ついたということはありました。……10年くらい前です。もうひとつは、仕事でどんどん女性の部分が削ぎ落とされて、それとともに作品も固くなっていって。私の心に見えない壁ができてしまった。その壁を取り除いて、自分の中にある女性性を取り戻さなければ作品がだめになってきたんです。……私には元モデルというハンディがあると思っていましたから。
――ハンディじゃなくてメリットなのでは?
安珠 その頃の私にとってはデメリットでした。それでなくても若い女性で信頼され難い。必ず女流と見出しに付けられたり、もうそれがイヤで、カメラマンに男も女もないだろうとすごく苦しんだ時期がありました。
――まぁ、必要じゃないコンプレックス植え付けられているようなものですから。
安珠 (笑)。ところが、サラ・ムーンが来日したときに励まされたんです。「何言ってるのよ、不細工な男がどんなにいい写真撮ってもなかなか評価されないでしょ。アナタは元モデルっていうだけで作品を見てもらえるチャンスがあるんだから、そのチャンスを生かせばいいじゃないの」って。もう目からウロコ。ちょうど写真集を出すときだったので、ああ、作品を見てもらえるためになら、利用できるチャンスは利用しようって。
――サラ・ムーンとの出会いはいつ?
安珠 励ましてくれたのは90年。彼女も50年代、モデルをやってたので、私の気持ちがよくわかるって言ってました。他人から見られる、ということをどうやって自分の作品に活かすかは、自分次第ということだと教わりました。
――必要以上に私生活を見せないのも(サラ・ムーンの)影響?
安珠 ?
――年齢や本名とかは……。
安珠 (笑)。
――年齢にはすごく興味あるんだけど。
安珠 鈴木さんだけには言いたくない(笑)。雑誌とかに書いたりしてるけど、ここでは言わない!(笑)。だって、逢う度に、じとっと聞かれるからそういう気持ちなってしまったんだもん。
――いいです……大宅文庫で調べますから。少し私生活の話、してくださいよ。
安珠 私生活、日常……写真、原稿、パソコン、映画、猫、家族、友だち、散歩、読書、旅行、オペラ、バレエ、歌舞伎、演劇、コンサート、ニュース、手芸お裁縫、料理、美味しい食事、アロマお風呂、ちょっとの睡眠。24時間安珠やってるのであまり私生活ぽいのないです。
――ん~~。本名は?
安珠 安が苗字で珠が名前です(笑)。
――「プロパガンダ」の奥付に安珠玲奈って書いてありましたが?
安珠 あれは日本に居るときのモデルの名前です。当時の東大大学院生、荒井純さんが星と画数を調べて作ってくれたの。アンジェリーナという横文字が出てきて、それを漢字にして。「年が経ったら玲奈はずすといいよ」といわれたので今の名前にしました。
――なぜ結婚しないんですか?
安珠 タイミングかな?
――子供とかいらないんですか? マルコーになったらどうする?
安珠 人が言うには、安珠は結婚とか必要としていないって。幸せみたい。たとえ、結婚しようが、寂しいのは本質的に変わらないし、いつもまわりに友だちがいすぎるのも問題かな。本当に時間が足りないし。マルコー万歳ですよ!姉が今年、初産でした。超可愛い甥っ子です。 でも、それもタイミングでしょ?
――うまくはぐらかされているような……。
安珠 今日はどうもありがとうございました(笑)。ちょっと内容と順番が狂ったけど。
――何の順番?
安珠 話す順番。今日話すことは決めてたから、質問されなくても語れた(笑)。
――……今日は本当にありがとうございました……。
ANJU★HAPPY
Tommy鈴木的後記
僕は美人に弱い。ので、安珠にも頭があがりません。インタビューではか弱い文学少女を演じていますが、体育系ばりばりの性格で、撮影現場では怖くて近寄れません。安珠はインタビューにあるように、YMOの映画を見て、「なんか、かっこいい女性だな」と思っていました。当時パリコレのモデルだったそうで、かっこいいどころじゃなかったわけですけど……。それから約10年後にカメラマンとして再会(とは言わないだろうけど)するとは思いませんでしたね。姐御、お寿司、また食べに行きましょう!
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