竹崎忠

竹崎 忠(元セガ広報)

1964年生まれ。1993年セガに入社し、商品広報部門を立ち上げる。往年のセガファンの間では「竹ちゃんマン」として知られている。カスタマーゲートウェイ部部長として商品広報を担当する傍ら、セガのホームページ、インターネットショッピングサイトを統括して担当し、ファンとメーカーとの橋渡し役として活躍していた。現在、トムス・エンタテインメント代表取締役社長。

- Interviewz.tv - 収録日 2001/06/12

――まさにドリキャス生産中止の発表をしている時、竹崎さんは何をやってました?

竹崎 記者会見の場にいました。当然そのときは既に知っていましたから……。

――落ち込んで帰るとか、なかったんですか?

竹崎 発表したのが1月31日の夕方ですよね。その場にちょっと遅れて入ってるんですよ。その直前までファンに向けたセガからのメッセージ文を作ってました。「今から記者会見の場に行くから、会見が終わった直後にアップしてください」と指示して記者会見の場に向かいました。

――それはセガのHPに?

竹崎 はい。

――そのメッセージは竹崎さんが個人的に作ったんですか?

竹崎 僕が提案しまして、経営陣に認めてもらったカタチです。メッセージはファンのためでしたが、僕自身の気持ちの整理の意味もありました。

――最初の質問に戻りますが、ドリキャス生産中止の場面を詳しく教えてください。

竹崎 まず去年、僕がまだ知らなかった時点で、香山さんと開発主要メンバーが話し合っているんです。ハードにこだわってやっていくと、毎年何百億と赤字がでていくと。つまりキャッシュフローがあるうちはいいけど、お金がなくなったら会社はもたなくなるぞって。それで昨年秋に他機種のゲームも作るって発表したんですね。それ(他機種参入)はすでに役員構成が変わった9月以前に準備を始めてたんです。去年の秋の時点では、ハードの拡販をしつつ、他機種でもソフトを出して小銭を稼ぐというやり方で赤字をカバーしようとしていました。それと特にアメリカの年末商戦には期待をかけていました。プレステ2とも値段が違うし、いけるんじゃないかと。逆に言えばこれでダメだったら、どうしようもない。社長たちのミーティングでは、もしアメリカの年末商戦でこけたら、セガはハードとともに心中するのか、それともハードをあきらめて復活を目指すのかというとこまできていたようです。

――そりゃ、こけると思って勝負はしませんよね、普通。

竹崎 でしょう。だから莫大な数のドリキャスを作りアメリカの年末商戦に投入したんです。結果は……アメリカの景気が急速に冷え込んだとかいろいろ言われていますが……実際プレステ2は売り切れになり、ドリキャスは在庫が死ぬほど残ってしまった。苦しい中からプロモーション費を捻出して、優先的にアメリカにプロモーションを打ったにもかかわらずですね。それで、もう終わりだということが12月末の時点で見えてきたわけです。

――いよいよせっぱつまったわけだ。

竹崎 ドリキャスはナンバーワンフォーマット、つまりプレステに勝つことを念頭においていたんです。つまり国内で早急に1000万台売るという体制ですね。流通システムも1000万台体制ですからそれが達成できないと非常に苦しくなる。結論として、アメリカの年末商戦勝負に失敗した今、もう一回勝負ができるのかと言ったらできない。在庫を抱えてこれ以上、ハードを作るとさらに首がしまるという状況になったわけです。僕がそういう状況をきちんと説明うけたのは、年末休みの直前です。セガの状況はやばい、と。子会社や分社では、当然他のハードに対応していましたが、本社で僕のような現場にまでそういう話が降りてきた。このままでは会社がやばいという。……だから、最初の質問で落ち込まなかったかと言うと、僕は年末年始の休み中落ち込んでいました。社員は次々やめていく。やめていった偉い人から、「(新しい)うちの会社で面倒みてやるから心配するな」とか一方的に言われて、もう散々な気持ちだったし。そうですね……理解できない、自分の中でどう消化していいか、わからなかったです。悔しかった。だってドリキャスは世界一を目指したんですから……。

――竹崎さんはセガマニアですが特にセガのハードのマニアだったんですか?

竹崎 ハードに愛着があったわけではないと思います。セガの作るプロダクツが好きだったんです。そういう意味ではハードも好きだった。セガマニアと言われている人たちっていろいろいますけど、僕みたいにメガドライブから入った人が多いんじゃないかな。そこそこ面白くてアメリカでは売れているのに、なぜ日本じゃ売れないんだろうって。だったら、応援してあげて勝たせてあげたいって思ってファンになるというパターンですね。

――サターンはプレステに継いで2番テですよね。シロート考えですけど、500万台売ったら、あとは細々と作りつづけていけばよかったんじゃありませんか?

竹崎 いや、だめです。セガサターン末期の頃は商売になっていませんでした。ナンバー2でソフトが売れるということはないし、ナンバー2にライセンシーの著名なソフトが供給されるということもないんです。

――でも、サターンのときも今回も、セガファンは最後まで負けたと思ってませんよ。

竹崎 はい。……でも負けたと思っていなくても2番テになったのは事実なんですから……。セガサターンでいいとこまでいったんだからもう一度セガサターンでできなかったことを追求して、新ハードに賭けてみるか。それともここでやめてしまってプレステにソフトを供給すればいいのか、という議論はドリキャス誕生前に当然あったんです。

――でも、だからと言って最初からプレステと同じ(流通の)対応をしたというのはムチャだったと思います。

竹崎 まぁねぇ(苦笑)。それはそういう決定を当時の経営陣は下したわけですし、開発担当者の中には今でもドリキャス2を作るべきだという声もあるわけで、ムチャかどうかはやってみなければわからない。そのときはそういう「想い」が強かったんです。これは今だ忘れられないんですけど、当時の入交社長が「もう一勝負できる。それをするかしないか。すると決まったら全力でドリームキャストを立ち上げる」とおっしゃったんです。でも、結果、負けてしまった。最初からソニーと闘う力なんてなかったんだと言われればそうですが、それは結果論で、その時、できうる限りのことをしたけど、負けた。ハード買ったお客さんに言わせると、やはり自分が買ったハードは一位になってもらいたいわけです。そうすれば全てのソフトが自分のハードで動かせるんだから。「ドラクエ」「FF」がどっちに来るのかという話があったときに、プレステに行くと決まったら、なぁんだって……セガどうしたんだよって声があがりましたよね。

――それは(どちらにつくかは)お金ですむ問題だったんですか?

竹崎 ではなかったです。お金の問題も当然ありましたが、ハード性能やサポート等さまざまな問題がありました。

――サターンやドリキャスを選んだ人はセガが好きな人なんだから後悔するなって。

竹崎 セガのソフトはサターンでしかできない。「サクラ大戦」や「バーチャ」はサターンで、ドリキャスでしか出なかった。でも、だからといって「FF」が出ないことが許されるわけじゃないですよ……だからやる以上は一番を取りにいかなきゃだめだったんです。

――プライベートなことを伺います。竹崎さん、CSKの社員だったんですよね。CSKがセガの親会社と知って入社されたんですか?

竹崎 はい。もともとは大学時代、エンターティンメント系と言いますか、子供にでも誰にでも、遊びを提供して楽しんでもらえる職業につきたいと思っていました。神戸の出身ですからコナミが近いとか、「ドルアーガの塔」「ゼビウス」のナムコ、「スペースハリアー」や「アウトラン」のセガ、あるいはバンダイやタカラなどの玩具系を志望していたんです。それで最終的に絞っていったらセガになった。当時「スペースハリアー」というジェットコースターみたいに動く筐体が出まして。それを見て、セガは小さい空間を遊園地にできる会社だ、と思いました。でも、就職担当教授から全く相手にされなくて(苦笑)。

――学校は?

竹崎 理系の機械工学科にいたんです。エンジニアの卵ですね。造船やら自動車のエンジン設計、熱力学とか。旋盤使って工作もしました。でも、機械部品を作るのはなんか違うなぁと。院に残るかという話もあったんですけど、ずるずる学生続けるよりも早く社会に出たかったし。それで就職するとなったら、教授から造船やらなにやら、まぁ、当然よかれと思って薦めてくれるんですけど、僕の志望とは違ってた。教授的にはベストの選択だったんですけど。

――ヘルメットとか似合いそうなのにね。

竹崎 そうですか?(笑) でも、僕は教授が知らない部分で、ミニコミ誌作っていたり、マンガ描いてたりしたんです。勉強と遊びは完全に別けていた。

――二面性があったと?

竹崎 いや、もともと国語と算数が得意だったりして。勉強はするんですよ。やったほうがいいから。でも、人に楽しんでもらうことも好きだった。それで推薦と志望が全く噛み合わなかったですね。教授は僕のことを遊びの業界で成功する人間じゃないと言って、薦められないと。

――薦められないって言ったって……。

竹崎 いえ、就職システムがあるんです。就職担当教授と話し合いのうえ就職先を決めて、教授の推薦状を持って試験に臨むという。

――推薦状ってそんな威力があるんだ。

竹崎 かなりのものだったと思いますよ。受けるのは一社だけですから。でも、ぼくはそういったルールを破るつもりはなかったんです。だからずっと教授の考えとは平行線でした。それで教授に対しての妥協安としてセガの親会社であるCSKを見つけて提案したんです。

――妥協して提案(苦笑)。

竹崎 はい。そのときはいくら技術者でも、コンピュータを知らないとだめだと。これからの時代に取り残されてしまうと教授をひたすら説得して。まぁ、本命(セガ)に行けなくてもそのうちなんとかなるかもしれないし、グループ企業だから楽しいかも、と。

――そのころはセガの家庭用ハードって何だったんですか?

竹崎 マーク3ですね。でもその頃はこれといって思い入れないです。

――でもそうするとCSKには技術者として入社されたんですよね?

竹崎 はい。システムエンジニアとして大企業に出向するのと並行して、いろいろな資格を習得しつつ。CSKには資格手当てもありましたから(笑)。

――結局CSKには何年いたんですか?

竹崎 6年です。

――その間、セガを視野に入れて悶々としてたんだ。すごい執念!

竹崎 社会人になったから、もうゲーム機やソフト買い放題で、ある程度充たされてはいたんですよ。それにCSKでの仕事は充実してました。セガに転職と言えば、CSKにいてチャンスが何度かあったんです。例えばジェネシスが売れてるときにCSK社内にアミューズメント事業部を立ち上げると言う話もあって、そのときは真っ先に企画書持って応募したくらいですから。でも、結局上司に止められて、断念せざるをえませんでした。

――それで転機はいつ?

竹崎 92年末にセガのイベントが東京であったんです。「セガ遊星ワールド」。そのイベント、告知が遅れたために、全国にチケットが行き渡らなかったんですよ。それが東京のゲームセンターに寄ったら、どんと束になって置いてあったんですけど(笑)。ともかく関西だからそのチケットが手に入れられなくて、でもセガのイベントには行ってみたい。ミニコミを作ってたツテを使って、某編集部のかわりに取材するから行かせてくれ、と。それで取材と称して入場したんです。そこでセガの偉い人たちにインタビューして知り合いになった。後から聞いたところによると、ちょうど、セガに広報的な事ができる人間がいなかったらしいんですよ。で、たまたま、僕みたいなのが無難じゃないかなと思われたらしいです。原稿チェックや対応もしっかりしてるから、コイツでいいじゃないかと。

――CSKの社員だということは?

竹崎 どこに勤めていると聞かれたんで、CSKですと答えて。だったら関連企業だから都合いいじゃないか。セガの取締役が笑顔でそう言ってくれたんですよ。でも、そういった話をCSK側に伝えた途端に話がこじれるわけです。僕的にはタイミングが良かったんですよ。自分の勝手な都合だけで言うと、終らないはずだったプロジェクトが、93年の夏にちゃんと引継ぎを果たしてきれいに終り、バブル崩壊で会社には仕事が少ない。大川さんがおっしゃっていたんだけど、「SEはお客様と話をして、自分で新しいニーズを見つけだす」のが仕事なんだ、と。僕はそれを実践してきて、最初の仕事の後はずっとそうやって繋いできたんですけど、一斉に外注のSEを切るという事態になり、新たに仕事を探さなければならなくなったんです。それで、セガの誘いは天の巡り合わせだ、と思いました(笑)。

――でも、個人の勝手が通る世界じゃないでしょう?

竹崎 はい。CSKとしても、やはり親会社の社員をすんなり連れていかれるわけにはいかなくて。それでこじれたんですが、そこで(CSKを)辞めちゃうと今度はセガに再就職できないでしょう……最終的になんとか上司の方々にも納得していただき、出向というカタチでセガにきました。

――SEの仕事はセガにはないですよね。

竹崎 はい。でも、個人的にもセガを応援するミニコミ誌を作っていたりしたんで、広報的な仕事は全然苦になりませんでしたね。

――そのミニコミは学生時代に?

竹崎 いいえ、社会人になっても続けていましたよ。中学の3年からずっと、マンガや小説、ゲームなどのミニコミを作りつづけていました。

――同人誌ブームに影響されましたか?

竹崎 いいえ。僕はアニパロとか嫌いでしたから。

――それでセガを応援していたとは。

竹崎 例えば2万円持っているとしますよね。

――子供が2万円持ってないよ(笑)。

竹崎 例えばですよ。その2万円でスーパーファミコンを買ってソフトを買うよりも、メガドライブを買って「ぷよぷよ」と「ソニック」を買うほうがよかったりする。でも、誰もそれを知らないんですよ。なぜ知らないか? 正確に告知されてないからだったんです。イベント取材でセガのソフトの商品広報がまずかったんだって聞いて、しかもその担当にと誘われた。そのときは自分の疑問を自分で解決できるんだからいい仕事だなぁと思いましたよ。

――それ、同人誌経験者の黄金パターンですね。

竹崎 はい。

――シュミに生きてますよね。

竹崎 でも、仕事もすごくやってますよ。

――それでCSKからの出向社員としてセガにきたんですよね。いつからセガの社員になったんですか?

竹崎 それはつい最近です。セガに来たいきさつがいきさつだったので。だけど、「セガの竹崎です」と言っていて実はCSKの社員だったというのは……なんかいやなものじゃないですか。よく言われてた、出向なのは逃げ場を確保したいからじゃないかっていう話、それは全く違うんです。僕はセガのことしか考えていませんから。

――あの、メガドライブのソフト全て持っているという伝説の真偽は。

竹崎 事実です。ただ、メガドライブだから日本のソフトで、ジェネシス(北米版メガドライブ)はコンプリートじゃありません。純粋になぜ買ったのかと言われると、僕はプログラマーでしたからわかるんですが、ファミ通評価3点とかの、980円で売られているソフトにも、プログラムを組んだ人がいる。その人の想いを大切にしてあげたいと思ったんです。

――それはメガドライブのソフト以外にも言える。

竹崎 メガドライブが、一番好きだったから(笑)。

――メガドライブのハードはまだ生きてるんですか?

竹崎 全然大丈夫です。

――竹崎さんのベスト・オブ・セガソフトはなんですか?

竹崎 ……なんだろう。好き嫌いでソフトを考えたことないですから、わからない。内部に入って広報を担当すると、一生懸命作ってる人の顔も見えるわけですから、自分の趣味では見れなくなります。

――多機種に供給されるソフトでも同じ愛着がわきますか?

竹崎 はい。ただ、時代が変わったという意識が強いですね。ソニックが任天堂(のハード)で動くのか……って。

――他社に竹崎さんが移る可能性はもうない?

竹崎 例えば、他社に移ってお金が裕福になるのと、セガの中で立場が確立して、ユーザーとしての自分の渇望を充たしていくのと、どちらが大事かと考えたら、僕は後者を取ります。そりゃ、明日のご飯も食べられないとなったら考えますか、幸いそんな状況でもないので。

――でも、セガ本体がこけたら、そうも言ってられないでしょう?

竹崎 ですから、次々と社員が見きりつけて去っていく中、僕は最後までセガにいて、立ち直ればっていうか、もう立ち直っていると思うんですが、セガがもっとよくなるなら、それにつくしたい。みんなやめるんだったら、オレが最後まで残ってなんとかしてやるぞと思いましたから(笑)。会社がつぶれようが、なんだろうが、関係ないですよ僕には。セガをさらに良い会社にするべく、努力を続けていく。セガがある限り。もしなくなっちゃったら、それはそのときのことで、(家族が)路頭に迷わないくらいの生きていく自信はありますから。それから、僕はこうして表に出ていく仕事ですから目立つだけで、今セガに残っている人は皆、僕と同じですごくセガが好きなんだと思います。そういう意味で社内の事情や士気はTOMMYさんが思っているほど低くないし、会社自体も立ち直っていると思います。

――最後にこれからのセガについて竹崎さんの期待を教えてください。

竹崎 先ほども言いましたが、今年の一月はかなり落ち込んでいたんです。自分を納得させるための理由を見つけようとあがいていたんですね。その答えが、時代が変わったということ。もうハードがあって、ソフトがある時代は終わりつつあるということです。次のXboxとゲームキューブ、プレステ2の3機種の闘いだって、みんながよかったね、という結果にはならないわけです。それでもう一世代たったら、また同じ闘いをするのかっていったら……しないですよ。10年後にも各メーカーがハード争いをしているとは思えない。家庭用ゲーム機のハードって消えていくわけです。でも、ゲーム自体は残るでしょう。つまり同じソフトが端末を問わずに使える状況になる。ですからセガは、そういう時代に向かって、コンテンツで勝負できるメーカーとしてがんばっていってほしい。セガの開発者が作っていくものがセガの商品であり、それを動かすハードは関係ない。僕はメガドライブが好きだったけど、メガドライブという箱が好きだったわけじゃなく、その上で動くソフト、それが与えてくれる感動と、それを作っている人達が好きだったわけですから。

――パッケージが滅ぶのはわかりますが、コレクターとしてはちょっとつまらないですね。

竹崎 はい(笑)。僕の部屋には(パッケージメディアは)ゲームだけでなくDVDや本がずらりと並んでいますから……でも、パッケージは形を変えて必ず残っていくと思いますよ。

――今回はどうもありがとうございました。あ、これが本当に最後。ファンの方々になにかひとつ。

竹崎 セガの竹崎ですといって、実はCSKの社員だったってこと黙っていてすみませんでした。これからもよろしくお願いします……あの僕、ちょっと今、後悔してます。この取材、受けなきゃよかった。

――まぁまぁ。今日は本当にありがとうございました!

-Tommy鈴木的後記-
セガといえば、竹ちゃんマンこと竹崎氏。僕の中でセガに特別の感傷があるのは、彼のおかげです。だからこそ、ドリキャスの最後に際して、彼の本音を聞いておきたかった。「会社がどうなろうと僕はセガを背負っていく!」という言葉を言ってくれた竹崎さんに感謝! それでなくちゃ! インタビューのあと、「こんな取材うけなきゃよかった……」としきりに繰り返していた竹崎さん、もういぢめませんから。これからも、セガのためにがんばってください。

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