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黒川 文雄(メディアコンテンツ研究家+黒川塾主宰)

日本初のメディアコンテンツ研究家として、日夜、様々なエンタメの情報と研究成果を発信している。
著書に「eスポーツのすべてがわかる本」(実業日本社・刊)。
オンラインのゲスト対談形式の黒川塾主催
https://twitter.com/ku6kawa230

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このインタビューは2月末に行いました。それがなぜ今、発表になったのか、最初の岡本さんはどうなったのか……。このインタビューを収録した直後、コロナに世界は蹂躙され、岡本さんからは悲痛なYouTubeメッセージが届きました。やつれ切った顔で、インタビューの時とは別人。そして僕の生活も破壊されました。
周りは大慌てしてるのに、こんなのんびりとしたインタビュー記事でいいのかという自問の中、作業は遅れに遅れ、今になってしまいました。夏が来ればコロナは一旦収束するだろうという予想は甘かったです。
黒川さんへのインタビューは時事に関することは少ないのですが、今ならコロナで、よりeスポーツは追い風を受けているでしょうし、オリンピックの話題は、「オリンピック自体、無事開催できるのか」となるでしょう。コロナ禍に見舞われる前、様々な意味で懐かしいインタビューになってしまいました。黒川さんとはどういう人なのか、このインタビューでハッキリさせたいと思いましたが、伝わったでしょうか?

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黒川「最初、岡本さんが出て、次が僕ですか? もう岡本さんの取材動画はもうアップされてるんですか?」

ーーいえ、不定期更新なのですみません(本当にすみません!)。

黒川「ああ、なるほど。今取材されているところを写真撮っていいですか。今日は、すごく楽しみだったんですよ。人に話を訊かれるのがずいぶん久しぶりなので。聴く方は結構仕事としてやっていますけどね」

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ーーでは、早速、伺います。まず黒川さんの職業なんでけど、何をなさってる人なのかってことを教えていただけますか。

黒川「まず会社経営です。会社は株式会社ジェミニエンタテインメントで、業務としては大きく分けると3つあります。
一つはゲーム開発に於けるサポート案件です。今は特に大きな案件をやっていませんが、ゲームに関する企画とか運営とかアドバイスする仕事ですね。二つ目は映像関係の仕事で、元々、僕がジェミニを起業した時に航空機のドキュメンタリー映像ソフトを出したんですよ。そういうジャンルの作品を4タイトルリリースしています。それと、4年前ですけど、「アタリゲームオーバー」という、アメリカのアタリ社のドキュメンタリーの日本語版を出しました。それらの映像ビジネスですね。三つ目は……ジャーナリスティックな仕事とコンサルティングな仕事がメインです。その内容はゲーム業界関係の取材をしたり、それを記事にすること、最近は「ヤフー個人」でもニュース記事を書いています。それらの取材知識を持って企業に対するアドバイスをしてます。コンサルティング先は主にエンタメ企業ですが、ゲーム会社様とか、CG制作会社様などに対してアドバイスして、その会社の発展のお手伝いさせていただいているのが、今の僕の会社の仕事ですね」

ーーWikiにはフリーって書いてありますし、僕もフリーランスだと……。

黒川「ああ、フリーランスという意味では個人の会社なので、間違っていないですけどね。Wikiにはフリーランスと書いてありますね。でも、Wikiはウソや適当な内容が多いですよね。まあ、中には本当のことが書いてあることもあるけど、ほとんどはその時々に思いついたように誰かが書いたことで、そこから更新が止まってる限りは何も真実は無いと思ってますよ」

ーー実はここに来る前にWikiで黒川さんのことざっと調べたんですよ。おさらいしとこうと。三年前から更新されてなかったです。

黒川「ああ、わざわざ見てくれたんですね。ありがとうございます。でも、代り映えしないってことは、それはまぁしょうが無いと思うんですよね。僕を常に見てる人がいないだけであって、見ていてしかもそこに書き込むっていうのは、結構な労力だと思うんです。ワザワザ他人の経歴を細々と更新してくれて書いてくれる人なんて普通そんなにいないでしょう(笑)」

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ーー僕は黒川さんにとって都合の悪いとこはカットされてるのかなって思いましたが?

黒川「いや、全然そんなことない。僕はカットしたことは無いですよ。
あそこに不名誉な事も書かれていますよ。例えば、ゲームにバグがあった日に「今日はいい日だ」って書かれていたけど、あれは確かに僕が言ったことだし、ブログにも書いてしまった事だけど、あの日はちょうど劇場映画の初日公開があって、そこそこお客さんも入ったから「ああ、今日は良い一日だ」って書いたんです。でも、僕の知らされてないところでオンラインゲームにバグが出ていて、朝からゲームがずっと止まってたんです。そしたら夕方過ぎくらいかなぁ……社員から電話が入って、「社長、すいません、ブログに書いたあのコメント、消していただけませんか」って。「何の話かわかんないよ」って言ったらゲームにバグが出て止まっていて、それについてユーザーさんたちからクレームが来ている、2chにスレッドが立っていっぱい書き込まれていると……。「オマエ、そんな事先に言えよ、いつからだよ」って聞いたら「朝からです」っていうから……もうホント……情けない。何がっていうと社長としてそういうことを知らされてないことが情けない……こんなもんなのか、会社って思いました。別にその人(電話してきた社員)を悪く言うわけじゃなくて、自分の至らなさがあるんだなと思って。そういう意味で言うとWikiに自分にとって不名誉なことも書かれていますが、事実であれば、僕は全く修正しようとは思わないですよ」

ーー肩書きのメディアコンテンツ研究家ってどうかと思いますよ。幅が広すぎる。

黒川「それはですね、たまたま……多分2011年くらいだと思うんですけど、僕が株式会社ブシロードやめるとき、友人たちが主催して「大黒川祭り」っていう慰労会というか生前葬みたいなものをやってくれたんですよ。
その時に来てくれた友人の一人がジャンクハンター吉田さん。彼に「黒川さん、これからどうするの?」って言われたので「ジャーナリスティックなことやってみたいな」とかもしくは「今、メディアとかゲームがどうなってるのかと言うことをテーマにした研究をしてみたい」って答えたら「じゃ、これからはメディアコンテンツ研究家って名乗るといいよ」「あ、それはいいね」ってことで、それから使っています。だから別に、なんとか総研とかなんとか研究所みたいな特別何か大きな研究じゃ無くてね、自分の中のフィールドワークとして常にエンタテインメントの研究をしているんです」

ーーこれ(eスポーツのすべてがわかる本)も研究の一つの成果だと。

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黒川「自分で言うのもおこがましいんですけど、3年おきぐらいに自分なりの成果物を出しているんですよ。先程言った航空機の映像ソフトもそうだし、4年前のDVD「アタリゲームオーバー」の 日本語版もそうです。去年「eスポーツのすべてがわかる本」を出したこともそう。そういうタイミングごとに自分の貯めてきたナレッジとか経験とかをカタチにしています」

ーー全てのエンタメ業界を渡り歩いたって(プロフィールに)ありますけど。

黒川「ええ、音楽、映画、ゲーム、カードゲーム、ネットワークゲームなどの仕事をしてきましたから、他にこんな経歴の人いないでしょ?エンタテインメントのグランドスラム達成者と自認しています」

ーーアポロン(黒川さんが新卒で入社された会社)入った時はこんなに転職繰り返すとは思いましたか。

黒川「いや、全然思わなかったですね。当時はまだ終身雇用が当たり前でしたからね。僕は基本的にはずっと音楽の仕事で一生終わりたいと思っていたんですよ。なぜかと言うと、僕が元々、音楽が好きで……中学時代にフォークギターから始まってエレキギターになってソロ活動からバンド活動に……大学でも就活しながらずっとバンド活動やっていたんですよ。目標はプロのミュージシャン、極論すると旅するバンドマンになりたかった。でも見れば見るほど、聞けば聞くほどわかるわけです。上にはもっとスゴイヤツらがいるって。
浦沢直樹さんが初期のストリートスライダーズのメンバーの演奏とかパフォーマンスを見て、「こりゃかなわん」って言って音楽の道をあきらめて漫画家を目指したように、僕もいろんな人の音楽を見ていると「こんなことはできんな」って思ったわけですよ。才能が違いすぎるって…。でも音楽に関わる仕事したいと思って……何ができるかといえば、当時は思い上がっていたからね(笑)。自分の感性とかそういうモノをスゴイと思っていたので、僕だったらもっとすごいアーティストや音楽をプロデュースできるという大きな勘違いをしていたんです。そういう言葉にできない変な自信があったから、音楽の世界に入ってみた。
安全策と言っては失礼ですけど、レコード販売店を受けることにしたんです。銀座に本店がある山野楽器受けて、内定をいただいたんですけど、株式会社アポロン音楽工業(※)というレコード会社も受けたんです。
(※のちにバンダイミュージックになり、ランティスの原型、現在はバンダイ傘下会社へ吸収されている)
それで、アポロンに受かったので山野楽器の人事部長に内定を断らなければならないってことになって…同じ業種で一方は制作の方でもう一方はリテール販売だから、どうせならば上流の音楽制作に関わりたいと思っていたから、山野楽器さんに内定辞退に行ったんです。でも、アポロン決まったので、お断りしますって言うわけにはいかなので、山野楽器さんには「プロのミュージシャン目指すので、すいませんが内定辞退させて下さい」って言ったら「キミ、大丈夫かね?」と。「人生よく考えた方がいいよ」って。当時の人事部長に窘められました(笑)」

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ーーそれは高校生が「漫画家になりたい」と同じレベルの発言だと。

黒川「そうそう。同じレベルですよね。でもその時はそう言わざるを得ない。山野楽器さんって言えば、当時(アポロン)のお得意様のひとつ。レコード販売で言えば日本最大級でしたから。そこを蹴ってレコード会社に入るっていうことはお互いの関係上よくないじゃないですか。だから申し訳ないけど、正直には言えず、ミュージシャン目指すと言って内定辞退しますと。それと音楽(業界)に行きたいと思ったのは、もう一つ理由があって、当時、雑誌の「ホットドッグ・プレス」(講談社刊)に「業界くん物語」って業界ネタを面白おかしくマンガ記事仕立てになっていて、原案が「いとうせいこう」さん、マンガは「なんきん」さんというコンビでの連載マンガでした。そこで当時アルファレコードにいた小泉晋さんっていう方が取り上げられていて、小泉さんは有名なレコード宣伝マンだったんです。もう業界くんの典型ですよね。今は大手芸能系事務所にいらっしゃるんですが。僕がこの方を取り上げた「業界くん物語」を読んで、音楽業界面白そうだなって思ったんですよ。こんなに面白おかしく仕事をしつつ音楽に関われるのだったら、これはやっぱり音楽を目指さないといけないなって。今で言えば肩にセーター巻いて、クラッチバッグを持って「〜ちゃん、元気?」みたいな世界に憧れたんですよ。音楽を作りたい、音楽で一生暮らして、自分の好きな音楽を聴いて作って、自分のプロデュースしたアーティストがオリコンのトップチャートを上るような夢を見て、音楽業界に入ったんですよね。
もちろんゲームは当時から好きで、当時はセガの「ハングオン」はやりましたね。ただ、エンタテインメント業界の初めは音楽業界からでしたね」

ーー3月にあるトークショーのトップコピーが「やっぱり俺は映画だ!」ってありましたが(苦笑)。

黒川「そんなこと書いたかなぁ……(笑)。でも、映画は自分にとって一つのライフワークだと思うんですよ。今も気になる新作は劇場で観てるし。過去の素晴らしい作品への思い入れもある。ゲームはプレイしなければ成立しない能動芸術だけど、映画や音楽は受動の芸術でしょう。観ている個々人が感じる。ゲームは能動芸術だから関わって初めて成立する。受動芸術の中では映画が最高峰だと思っていて……それに伴う音楽、文学、ビジュアル的な要素を含めて映画は今もって素晴らしいものだと思っています。ですから、僕の一つのライフワークですね。さすがに「俺のカラダの90%は映画だ!」とか言うつもりはないけど、40%くらいは映画じゃないかなって……いや40は切るかな、35%くらい(笑)」

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ーーそれで音楽業界を辞めてギャガ(映画配給、製作会社)にいくきっかけは?

黒川「それは至ってシンプルな話で。言ってしまえば、自分の力の無さです。新卒でアポロン音楽工業に入社して、名古屋に営業職で配属されたんですよ。当時、男子の新入社員が3人。一人は制作チームで、もう一人が大阪の営業所で、僕が名古屋。その時に思ったんですよ。「なんで俺が製作じゃないんだ!」って。俺の方が感性上じゃないかって。そういうもんじゃないですか、若さってね。まあ、自信過剰ですよ」

ーーそれ、高校時代がまだ続いてる。

黒川「永遠の中学一年生ってゲッターズ飯田さんに言われてますからね。その時には「なんで俺が営業で名古屋勤務なんだー」。まぁ、そうは思ったけど、会社だから辞令を受けて「黒川文雄 愛知県名古屋営業所勤務 4月◯日」とか。で、驚くんです。「俺、東京じゃないんだ、名古屋なんて行ったことないぜ」って。生まれてこの方、上野、浅草界隈から離れたことがない人間が23歳になって、いきなり名古屋へ転勤配置って言われるんですから衝撃的ですよね。でも営業やっている間は面白くて、お店回って返品抱えて、「カネ返せ!」とか言われて、それはそれで、お店の声ってもの凄い勉強にはなりました。でも、一方では早く東京に戻って制作をやりたくて仕方ないから、毎週レポート書いていたんですよ。他社はこういう事やっているって。当時エピックソニーは、CBSソニーは、ワーナーパイオニア(当時)はこんな新譜が出たって。こういう風に店頭での展開をやらないとダメ、こういう音楽が市場で求められているっていう、いわゆるマーケティングリサーチみたいな事を自分から進んでやっていたんですよ。
で毎週月曜日に、本社にファクスで市場レポート送っていたんです。それを3年間やって、これで東京戻れなかったら、会社辞めようと思っていたら、本社に戻れたんですよ。
おそらく、名古屋の営業にうるさいのがいて、毎週熱心にレポート送ってくるから、問題意識や危機感を持ってるようだし、東京に戻して制作やらせてみようって。それで東京本社に戻って担当した制作がカラオケ音源やBGMなんですよ。それはそれで面白かったんですが……自分でいろいろ企画出して……例えば当時だとまだ珍しかった「f分の1の音楽」とかドキュメンタリー的なモノとか……企画書出して、それが売れたかって言うと売れないけど。自分としては新しいモノをやりたかったので常に上司とぶつかったんです。当時の部長も40歳くらいかなぁ。僕が26、7歳くらいの時ですよね。
で、自分のやりたい事がなんでこうも否定されるのかと。「予算上の問題だ」とかイロイロ言われて、今だったらわかりますが「やってられるか」って思って、辞めようと思ったんですよ。
それで自分が何やりたいんだろうって考えた時、やっぱり音楽かなぁって。僕の憧れていたCBSソニー(現在のソニーミュージック)の丸山茂雄さんがオリコンの新年号とかで毎年抱負語ってるし、いいなぁ、カッコいいなぁって、俺もCBS入りたかったって思っていましたね。実際、新卒の時CBSソニーを受けたんですけど、1000人受験して3人しか合格しなかったというくらいのハイレベル。もちろん落ちました。音楽業界はいいな……っていろいろ探していたんですけど、当時は中途採用があまりなくて、難しいなと思っていました。そんなときに、たまたま、当時、日経新聞を読んでいて、ある日、15段打ち抜き(全面広告)でギャガの「求む、映像人間」というキャッチコピーの求人募集広告が出ていて、「あ、これは俺のこと呼んでいる」って思ったんです。それで今回は退路を絶たねばって思って会社には辞めますと言ってから、募集締め切りが迫っていたので履歴と職歴書とか書いて、締め切りの前日に投函、「届くかな?」って。それで運良く面接の予定日が来た。まだギャガのオフィスが創業地の浜松町にあった頃です。2〜3回面接に行ったのかな……最後は社長面接で、結果的には採用されるんですが、これも山野楽器さんとアポロンとの関係に似ていて、当時のギャガはアポロンが取引先だったんですよ。ずっと在庫になっていた中国の大河ドラマみたいな作品や未公開映画をアポロンにセールスしていたんです。アポロンはそれを一生懸命レンタルビデオとして営業していたんです。
そんな関係だったから、アポロンの社員だった僕が、退職してすぐにギャガへ入社はマズいってことになって、2〜3ヶ月後に入るってことにしましょうということになったんです。1988年12月でアポロンを辞めて、その年末年始、ニューヨークへ単身旅行に行ったんですよ。2週間くらいかなぁ。それで年が変わって1989年1月7日に昭和天皇崩御をニューヨークの路上のニュース(新聞)スタンドで知ったんです。日本も変わるなぁ、自分のキャリアも変わるなぁって思いながら日本に帰国しました」

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ーー僕と知り合った時、黒川さんはギャガでしたよね。

黒川「そうですね」

ーー僕のページ、映画のページじゃないのに。

黒川「そうでしたっけ? 何のページでしたっけ?」

ーー自分の好きなことを取り上げるページ(笑)。

黒川「なんだろうな……あの頃ギャガも創業して2年くらいの頃で、メディアに対して宣伝ルートも無かったし、そこを黒川くんやってくれって言われたワケですよ。メディアの窓口として、ギャガで買い付けた他社に売った作品、配給しようとしている作品をメディアに載せること、記事を作ることをやってくれって言われたていたので、それをずっと担当していました。
入社した頃は宣伝用のメディアリストもないので、当時のギャガのオフィスの近くにダイエー本社ビルがあって、そこの一階に大きな本屋さんが入っていたんです。そこにクリップボードに紙挟んでいって、映画雑誌から一般誌までの出版社の住所と電話番号控えるところから始めました。多分半日くらいそこにいました。すこし不審な目で見られましたね」

ーー努力の人ですよね。

黒川「そう。お店の人も店頭書籍の在庫チェックしているヤツがいるって思ったんじゃないかな? 店員さんからは「どこの人だろう?」ってジーっと見られたんですけど、臆せず、当時だったら「キネマ旬報」編集部が港区どこどこにあって電話番号は何番であるとか「スクリーン」「ブルータス」「平凡パンチ」「週刊SPA !」とか全部記録して帰ったの。ギャガのメディアリストの原型でありルーツは僕が作ったんです」

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ーー雨宮監督が「ゼイラム」作った時に誰も取材に来ないのにSPA!だけが来たって言ってました。その後、監督と銀座で会うんですが最初のセッティングは黒川さんでしたよね。雨宮監督も感謝してました。

黒川「ありがとうございます。僕も感謝してます。そうですよね。あれはギャガが変革しつつあるときで、買ってきたビデオをスルーで権利売りするだけじゃなくて、自分たちでも作ろうって言う気運が出てきて。そこには千葉善紀さんって言う優秀なプロデューサーがいるんですけど」

ーー千葉(善紀)さん、今も時々作品見かけますね。

黒川「千葉さんは日活で素晴らしい映画を製作して、今はまた違う映像製作会社にいるんですが、彼はずっと自分で作品を作りたかったんだと思います。それで当時のギャガで映像企画して、ナムコで「未来忍者」撮った雨宮慶太さんを探し当てて、その雨宮さんのコンセプトの元で近未来を舞台としたアクション・エンターテインメントを撮りたいという企画を立てたんです。多分、企画のベースには「遊星からの物体X」とか「ターミネーター」とかそう言ったサイエンスフィクション的なモノがあって、その日本版を作りたかったと思うんですよ。それをやる時に、千葉さんに「製作宣伝やってください」って言われたんです。「製作宣伝」って初めて聞く言葉だったので調べたら「現場にメディアを呼んで、作っている状況を見せること」らしいと…。だから僕がやったことは毎週ファクスでメディアに「こういう状態で作っている」とか「今、こういう場面を撮影している」って一方的にファクスで製作進行の案内を送りつけることでした。
そんな中で当時の「SPA!」はなんでもアリな雑誌だったと思ったんですよ。尖った企画が多かった中で映画とかビデオとか記事もまとめられている。こういう雑誌に載ったらと面白いだろうということでTommyさんにアクセスしたんじゃないかなと思います」

ーー雨宮さんも仰ってましたけど、当時劇場公開作品で最大手が「ゴジラ対キングギドラ」でした。そこに「ゴジラ」より面白いっていうヤツが編集部に来た。無茶な事言うなって。

黒川「そう言うしかないよね。あの頃は日本製アクション・エンターテインメントってそう無かったし、作っている方はそれくらいの気概を持ってやっているんだって事ですよね」

ーー黒川さんと離れた「ゼイラム2」で公開前にイリア(森山祐子さん)の撮影を寺川さんとあのメイクで、路地裏でやった時、通行人から「イリアだ!」って声が上がったんですよ。黒川さんの思いは確実に伝わっているんだと思いました。

黒川「そういうことがある作品に関わることができたというのは、ありがたいですよね。そう言う意味でアポロンにいても、ギャガにいても、それからゲームに行くんですが自分としてはいい経験を積ませて戴いたと思っています」

ーー当時は何でもアリでしたよね。僕のいた雑誌は。

黒川「昔は、当時は?、今と違って、当時はメディアというか出版社の編集部にアポイント無しで入れたんですよ。今のように受付で誰々さんを呼んでくださいということも無く。ビル行ったらばっと上がっていって「SPA!」の編集部へ行ったらついでに隣の「エッセ」にも顔出しておこうかということが普通にできた時代がありました。
集英社だったら「週刊プレイボーイ」行ったら「スクリーン」に行って、「月刊PLAYBOY」にも顔を出して、最後にジャンプ系漫画編集部にも寄って、みたいなことができたんですよね。今はもうそんなことはできないですよ。それができた、いい時代に恵まれた。もちろん今はメールがあるから、ピンポイントで案内が出来るけど、僕らの頃はそれがないから、一回行ったら全部回る。担当者がいなかったらいないで何か残していくーー名刺を置いていく、メモを置いていくことがやれた時代ですよね。いい時代だったと思います」

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ーーそれでセガに行かれるわけですが、いきなりで何なんですが、僕が印象に残っていることは一本の黒川さんからの電話。「僕、セガ辞めるんですよ」って非常にサバサバした電話でした。岡本さんもカプコン辞める時、悲壮感が全く無いんですよ。やりたいことはやった感がダブっています。

黒川「僕の場合は……やることなくなったって事じゃ無いんです。やることはあったんですけど。ギャガの時わかったことは、ゲームには映画の未来があったわけですよ。今はCGが普通に使われているでしょ。当時思ったことは、映画の未来はCG、ゲームにあるんじゃないかって思ってセガに行ったんですけど……入ってみてわかったことは、テクノロジーは確かに凄いんですが、プロモーションとかマーケティングは時代遅れだなぁって思いました。僕はセガにいた時期は短いですけど、いろんな事をやらせて頂いたと思ってるんです。いい時期だったと思います。
僕がなぜセガを辞めたかというと、あの頃、自分でやれる事は全てやったと思っています。更にやるためにはセガの組織を変えるしかないというとこまで来たんです。
セガには、AM(アミューズメント)とCS(コンシューマ)という二つの大きな開発部署があって、僕の担当はAMでした。CSはセガ・サターンを中心に宣伝関係をやらせて戴いたんですけど、これを組織として、まとめさせてくれませんかということを当時の中山隼雄社長に進言しにいったんです。それを実現するためには組織全体を変えなければならないし、自分が宣伝販促の責任者をやりたい。ついては取締役にしてくださいとね。その上で組織を全部変えさせてもらって、AMとCSを統合して一気通貫でプロモーションができるような会社組織にして欲しいと提言したんです。
中山さんの返事は「キミの言いたい事は良くわかるし、やったほうが効率的なのはわかるが、今、それをやることによって大量の血が流れるから、それはできない」でした。
ああ、できないんだったら、ここにいてもこれ以上、やる事は無いなって。トップが言うんだから。専務とかが言うんだったら、じゃあ社長に判断してもらおうとなるんですが、それ以上判断ができないとこで出た結論でしたからね。僕が望んでいる環境に変革ができないのなら辞めると。気持ちよく辞める。まぁ、あれ(辞める判断)も若いと言えば若いんですが……現に、セガは今もいろんな組織に変化しているじゃないですか。あの時にやっていたらと思うと、変わっていたかも知れない……あくまでももしもの世界だからわからないですけどね。それで、その時思ったのはセガで自分がやれる事はやったし、セガが僕の提案した事を拒否するのなら、それは辞めるしか無いよなぁでした。結構吹っ切れていましたね」

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ーーだから電話の感じが……非常にサバサバしてた。

黒川「うん。それは全てに於いてもそうで、自分のやってきた事に対して区切りをつけたときには、何の未練も無いですよ。もちろん(ある人にとっては)過去は素晴らしいモノかも知れないけど僕はほとんど興味ない。たまに昔一緒に仕事した人とかに会って、「あのとき黒川さん、こう言ってましたよねぇ」って言われても……あまり記憶がない。
今日、Tommyさんと会っていろいろと昔の話を言われても、はっきりと自分で覚えてないのね。このあいだ。25年ぶりに会った、当時セガの新卒の社員に「あのとき、黒川さんが僕らの作っているゲーム画面見て、こう言ってくれた」って言われて「そういえば、そういうこと、言ったかも」って、やっと記憶がよみがえって「ああ、言った、言った」って思い出してきて。でも、自分の中ではハッキリ覚えて無いんだよね。具体的な事を指摘されると、「そういえば言ったな」って思うことが多々ありますね(笑)」

ーーで、デジキューブに行ったと。その後は……。

「自分で起業したかったんですよ。株式会社デジキューブは一番サラリーマンとして長く働いた会社で7年残席していました。デジキューブに入社するのも面白いエピソードがあって、セガを辞めるにあたって、人生って面白いもので、巡り合わせがあるんですよ。いいタイミングというか。親しくさせて戴いた株式会社スクウェアの坂口(博信・当時スクウェア副社長)さんからウチ(スクウェア)へ来ないか?って声をかけて戴いたんです」

ーーそれに関して、僕は坂口さんに黒川さんが送ったとされる肉筆の絶縁状があったとか聞いてますが?

黒川「それは嘘ですよ。そんなのありませんよ。だいぶ脚色されていますね。おそらく、坂口さんも同じこと言うと思うけど、僕の言葉で言えば、坂口さんは僕のことを、高く評価してくれたと思うんですよ。「じゃ、黒川ちゃん、ハワイに開発スタジオ作る予定だから、ロサンゼルスのスクウェアUSAを見学して、その帰りにハワイに行こうって」って言われて、入社もしていないのに、僕をLAとハワイに連れて行ってくれたんです(注・これを書いている僕もカメラマン寺川さんも後に同じ接待を受けている)。
いやはや、豪華なツアーですよ、スクウェアの社員さんを何人かを連れて、素晴らしいホテルで毎晩ご飯食べてお酒飲んで……いやぁそれは素晴らしかったんですけど……お酒飲むからね。坂口さんのお酒がね……僕はついていけなかった」

ーーあれね(僕も吐血するまで飲まされた)……坂口さん自分はあんまり飲んでいないみたいですよ。人間観察していました。

黒川「そう。自分は飲んでないけど、ヒトにじゃんじゃん飲ませるとかさ、それが僕には耐えられなかった。僕、お酒飲めないから。アルコール・アレルギーだからお酒飲めないんです。LA行って日本人クラブで、ジャンケン大会みたいなのがあるわけですよ。山の手線ゲームとかやって、でも僕は飲めないからって、「もうホテル帰るよ」って言って怒って帰っちゃった。まぁ、さすがに大人げないなと思って、翌日、すいませんって謝りました。それでハワイの最終日、明日帰国っていうときに、坂口さんから『黒川ちゃん、どう、俺と一緒に働いてくれるの?』って言われたのを僕が「すいません、できません!」って言って断ったというのが真実です。
だから、絶縁状を書いたとかじゃなくて、坂口さんの期待に応えられなくて、オファーを断ったってことだよね。そこから坂口さんと疎遠になったのは事実で、(坂口さんが)僕に対してそこまでのことをしてやったのになんだよって気持ちはすごく強かったと思う。だけど、時間が経って、今は坂口さんとは普通に会える関係になったと思うし、それ(人間関係)は変わったと思うよ」
(僕の経験から補足、LAで日本人クラブへ連れて行ってもらって、「そこの席に座って」と言われ、座ると、テーブルを指差して「そこのキズ、黒川さんがグラスを叩きつけたんだよ」って言われました。坂口さんは坂口さんでいわゆる「接待」の失敗を心の中では認めていたんじゃないかなぁ?)。

ーーギャガの時代、そういえば映画の宣伝マンって大抵一緒に飲みたがるんですが、焼き肉行きましょうとか。黒川さんはそういうプライベートな付き合いは全然なかったですよね?

黒川「全然、なかったね」

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ーー僕も酒の席での打ち合わせってその場限りだと思ってるから……あまり酒が飲めないのもあるけど、それでウマがあったんじゃないかなぁ? 酒と女が苦手って言う珍しいタイプ。

黒川「女性は……どうかなぁ(笑)。キャバクラとか好きじゃないけど、女性は素晴らしいと思いますよ。ひとつだけ自分のことで言うと、僕の人的な繋がりって、毎晩、酒を飲んで作ってきたきた繋がりじゃないんです。誰かと飲みに行って作った人脈じゃない。そういうのはいずれどっかで消えていくでしょ。10年前に交流していた人で、今は交流してない人っていっぱいいるけど、僕は「今度飲みにいきましょう」みたいな空手形の約束をしたことないです」

ーーそれである日、デジキューブから忽然とやめてしまって。今度は電話もなかった。

黒川「いや、忽然じゃないよ。あの頃はTommyさんとはあまり付き合いがなかったから(電話もしなかった)…。デジキューブは単純に辞めたというのはちょっと違う。
デジキューブは当時スクウェアの「ファイナルファンタジー」に会社の収益というか命運がかかってたんですよ。出たら黒字、出なかったら赤字っていう典型的なファイナルファンタジー依存型ビジネス……。これは続かないなって思ったけど、当時、役員としては営業黒字を出して辞めるのが自分の事業部としてスジを通すことだと思ってそれを目指したんです。と、同時に部署ごと買い取りたいってデジキューブの経営陣にオファーしてたんです。だけどデジキューブの経営陣の判断で、それはできないということになったので、それじゃあ辞めさせてもらおうとなったんです。辞めさせてもらって、あの時41歳だったけど、41歳で遅いか早いかわかんないけど、起業してみようと思ったんですよ。その1年後にデジキューブは解散したわけです。そういった経緯があるんです」

ーーその後、LINEってまだ名乗ってなかった頃の会社で一瞬すれ違ったことがある。

黒川「NHNジャパンだった頃ね。ああ、すれ違ったね」

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ーー今はeスポーツの布教に努めてるようなとこがあります。

黒川「やっていることは、eスポーツに限ったことじゃなくて、エンタテインメント全般ですよね。だってエンタテインメントのグラドスラム達成者は僕意外にいないですからね。冒頭に言ったように映画も音楽も好きだし、もちろんメイン業務はゲームになってるけど、その中で自分ができることは何かって常に考えているだけです。eスポーツの書籍を出したのは巡り合いとタイミング。それが全てですよ」

ーーeスポーツに対する見解が僕とは真逆だと思うんです。例えば、オリンピックの種目になるって聞いた時、気違い沙汰だと思ったんですよ。私企業が作った、レギュレーションも企業の都合で変わる、その企業だっていつ倒産するかわからないモノを種目に入れるのかって。子供が憧れて練習して大人になったら無くなってる、みたいなことが実際に起こる可能性がある。それがオリンピックって仰け反った。

黒川「それはまっとうな反応だと思いますよ。僕もそう思ったから(笑)」

ーーそれはどういう風に黒川さんの中で折り合いつけてるんですか?

黒川「僕は4年後のことなんかわからない。オリンピックに限らなくて、エンタテインメント全ては1年先、2年先……4年先の事をコミットしているわけじゃないですよね。仮にeスポーツで、特定のゲームをプレイしていたとしても、4年先のパリのオリンピックで種目になるかって?そんなこと誰もわからないじゃないですか。ゲーム自体にあり方が変わってるかも知れないですよね。でも、今ある現象としてeスポーツ、もしくは今、日本のビデオゲーム産業がどのようにすべきかと考えたら、eスポーツのライブエンタテインメント化しか道はないと思います。
なぜかと言うと、大型作品のパッケージはワールドワイドで例えば300万本以上売らないと収益化ができない時代になってしまったし、国内だけで売れるソフトでは収益の上限は知れてるわけです。同時にパッケージゲームも限界が来ていて、どれだけダウンロードコンテンツ売らせるかとか、追加のアイテムを買ってもらうかみたいなフェイズになってますよね。結局、どこもかしこも、ライブラリーがあってそれにプラスしていくしか道がない。ソシャゲってみんなバカにしたけど、その課金モデルに類似したものぐらいしか、家庭用のゲームだって稼げる余地がないわけですよ。そう考えると、今あるモノで競技化するかライブショーみたいにするかしかない。ビデオゲームの未来としてeスポーツという風に呼び名が変わるのは、僕は必然だと思います」

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ーーメディアの宿命として飽きられるというのがあるんですが、黒川さんがPRしていた「バーチャファイター」や「ファイティングバイパーズ」は今も面白いと思いますよね?

黒川「もちろん、今でも面白いと思いますよ」

ーーそれがなんで衰退していくのか、衰退してきちゃったのか。

黒川「それは難しいよね……」

ーー世代が変わっていくとして、その世代に面白さが引き継がれていくはずなのに。

黒川「そういう考え方はあると思いますが……例えばファッションもそうだと思うんですよ。ベーシックなスーツとかシャツのスタイルが大きく変わったかというと変わっていない。袖が7分になるとか、半袖になるとか襟が変わるのはあるけど……それと同じように時代と共に人の感性とか、それぞれのバックグラウンドが違う中で変わっていくはずだから、過去のゲームが面白いと思うのは、その時に体験した僕らは面白いと思うけど、今の人がやったらそれはどうかなって点がありますよね。感性が、流行りが変わっていく…。かつて面白いモノが今はどうだろうって疑問が湧くのはそういう背景があるからじゃないですかね」

ーーでもeスポーツで「ぷよぷよ」とか生き残ってますよね。

黒川「生き残ってるとは言っても、今の要素を入れたり……当時とは大きく異なるのはネットワーク対戦で全国の見ず知らずのプレイヤーとマッチングできるとか…そういう時代にあったアレンジとか変化はあるんじゃないでしょうか」

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ーー僕はeスポーツには否定的であんまり流行ってもらいたくないんです。

黒川「なんでですか?」

ーー勘違いする子供が絶対出る。頑張ってチャンピオンになって、大会に出る夢見るけど、その大会自体存在しないかも知れない。同じことがYouTuberにも言える。夢見たあげく悲惨なヤツはもういっぱいいるわけで。

黒川「(悲惨なヤツは)それはどこでも同じですよね。そんな例はいっぱいいますよ。それは今の社会構造、2015年くらいから芽生えてきたような社会構造と同じ。より社会におけるピラミッドの格差が開いているようなものじゃないですかね。
名乗ることは誰にでもできるわけ。僕はYouTuberだってね。でも、トップYouTuberと野良YouTuberとの違いは残酷なくらい差があるわけですよ。ゲームも同じことが言えて、自分がプロゲーマーですって名乗ることはできるけど、そこで一億円稼いでいるプレイヤーなのか地場の大会に出ているだけのオンラインのプロゲーマーなのかの違いはあるんですよ。
それはもう、社会構造上仕方ないんじゃないかな。だってかつてプロゲーマーで賞金もらってた人が、そのゲームが廃れて稼げなくなって窃盗をして警察署にタイホされちゃう時代ですからね。それはYouTuberだってプロゲーマーだって同じだと思いますよ」

ーー自分のお子さんがYouTuber目指したいって言ったらどうしますか?

黒川「本気でなりたいんだった、全力で応援しますよ。」

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ーー黒川さんって広報的な文章書くじゃないですか。現象だけ書いて、自分の意見を述べないという。僕はこの本(「eスポーツのすべてがわかる本」)を読んで「eスポーツって所詮、利権争いの、新たなカネ儲けなのかな。プロライセンスってなんだよ」って思いました。

黒川「日本のeスポーツのビジネスと構造は、こうだっていうのを世界に示すためにプロライセンスってものがあるって書いたのは事実。僕自身はゲームの世界に特にプロライセンスは要らないと思う。勝負の実績、戦歴が全てでしょう」

ーー僕は黒川さんの主張が読みたかったです。

黒川「じゃあ、それは別の機会にやりましょう。でもこの書籍は、個人の主張はゼロとは言わないけど、資料としてとか、現状を冷静に分析したもの、一連の事象を記録すべき本であって僕の主張を語る本じゃないと思って書いたものなんですよ」

ーーであれば是非、毎年資料集として改訂版出して欲しいですね。これどれくらい(の期間)で作ったんですか。

黒川「2ヶ月くらいかけて一回書いて……実際に僕は書くのは早いから、だけど、出すタイミングがズレちゃった。だからもう一回書き直したの。取材、インタビューは別の時間だけど、本文自体は3ヶ月かかってないよ。実質1ヶ月ちょっとじゃないかな?」

ーーそれでこんだけ網羅できちゃうんだ。

黒川「うん、網羅した。メディアコンテンツ研究家だから(笑)」

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ーーでもそう言われればそういうほど、ニオイが……コイツ、徹夜してコマンド打ってないだろう、みたいな感じになりますよね。

黒川「あーあ、ゲームやってないだろうオマエってこと? でもなんだろうな……研究したっていうのは、ずっと僕自身がこの業界にいたからわかることがあるんですよ。これはこのルーツだからこうなってる、このメーカーはこういうことを考えてるんだろうなとか。だから研究っていう研究じゃないよね。自然に学んだことが多いですね。
書籍に関して言えば、正しいか、間違ってるかというテキストの事実関係は十分にやりましたね。……現時点(2020年2月末)でeスポーツは4冊くらい同じようなテーマの本が出てるんです。皆さんそれぞれ素晴らしいと思うけど、僕の書籍はeスポーツを客観的には書かせてもらった。お陰で重版もかかりました。本当にありがとうございます。出版は周りにも時期的にも恵まれたんだと思います。」

ーー最後にこれは是非お伺いしたかったんですけど、実際のところ、eスポーツがオリンピックの正式種目になる可能性ってどう思います?

黒川「今はまだ、実現の可能性はないんじゃないかな。絶対不可能とはいわないけど、エキシビジョンマッチはすでにピョンチャンの冬季オリンピックで実現していますからね。でも、それは(eスポーツ)を冬季オリンピックをイメージするウインタースポーツをゲーム回した作品が取り上げられたということで、イベント的なものですね。オリンピックの種目自体になるって言うのは……仮になったとしても、その頃、僕はもゲーム業界で現役じゃないと思いますよ。…なったとしてもね(笑)。
この書籍にも書いたけどIOCのバッハ会長が「暴力で流血を想起させるようなモノがオリンピックに相応しいとは思えない」って言っているし。それに一個一個のゲームの権利を各会社が持っているモノを世界的なオリンピックという場で、そのコンテンツを促進させるような場にはなると思えない。なるとしたら……オリンピックをイメージさせるようなスポーツゲームをオリンピックのために作りました、それを一緒にプレイしましょう…みたいな実現すれば可能じゃないですかね。そうじゃなくて特定の会社のIPを使って世界のオリンピックで競うっていうのは、ちょっと違うだろうって思いますよ」

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ーー広告料に換算すればすごい額だしそれに伴う利権もすごいと思うんですよ。それにゲームが種目になれば、ゲームよりずっと歴史があるチェスや将棋の立場はどうなんだって。

黒川「そう。そういうのはゲーム含めて別の大会やればいいんであって、オリンピックの種目になりたいとか、しなきゃいけないっていうのは……何かの呪いみたいなモノですね。それがあるからみんな、頑張んなきゃ、とかね、そこに向けて日本ビデオゲーム業界一丸となってやろうぜ、みたいな悪趣味な「祝詞(のりと)」みたいなものですね」

ーー呪いですか(苦笑)。eスポーツってメディアコンテンツ研究家から見ればどういうモノ?

黒川「呪いとは言いすぎたけど……eスポーツは一つのカテゴリーとして認められるようになってきた。賞金額も以前よりも増えたし、報道で目にする機会も増えてきた。かつてのYouTuberが注目されたように、プロゲーマーを目指そうという人が増えてきている……ということは世間的な認知が進んで状況は格段に良くなってきていると思いますよ」

ーー僕の中で今回のインタビューではっきりしたことは、黒川さんの立ち位置というか、クリエイターの友人が多い中、黒川さんがクリエイター側かジャーナリスト側か分かりました。

黒川「どっち?」

ーー圧倒的にジャーナリスト側。だから時々のエンターテインメントに敏感で、今はゲームだけど、明日新しいエンタメが生まれたらそっちに夢中になっていると思う。

黒川「そうなんですね(笑)。僕は過去のことには全然拘らないですからね。特に嫌なことは引きずらない。常に新しいモノに触れていたい。だからそう(ジャーナリスト、俯瞰者に)見えるだろうなぁって思いますよ。もっとも、その新しい何かが現れてみないとわからない。その時はその時で、次が見えたら考えればいいことでしょう」

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ーー新しいエンタメが現れた未来、黒川さんの立ち位置がどう変わるか楽しみです。というかその新しいエンタメに興味がありますよね。
本日はどうもありがとうございました!

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インタビュアー:TOMMY鈴木・飯島雅彦
ライター:TOMMY鈴木
映像撮影:寺川真嗣
写真撮影:石川高央

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