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【今日も唇に塗る、あの一言】

「それ、やめてくれない?あんま、聞きたくないからさ…。」

大好きな顔が苦笑いに歪んだ。笑顔の似合うこの顔に、こんな表情を塗ってしまったのは私のこの口だ。

その時私はクラスメイトの悪口を言っていた。
そういえば彼がトイレに立つ前も言っていた。そういえば昨日も言っていた。
まるで昨日観たテレビの話をするのと変わらないくらいの感覚で、悪口は口から滑り出た。
彼も軽く相槌を打ってるんだと思ってた。優しく柔和なその雰囲気をそう勝手に捉えていた。

あれ、さっきまで隣に居たはずの彼が、一段上に居る。あれ、私が一段下がったんだろうか。ん、彼が斜めに傾いている。あ、私が傾いたのか。これは錯覚か。いや、むしろこれまでが錯覚だったんだろうか。

一瞬泳いだ視線が彼の顔の上に留まる。
彼の額の際には、汗が滲んでいた。
高校二年の夏。あの汗は暑かったからか。いや、彼の部屋にはいつもクーラーが効いていた。

それは、いつも優しく穏便な彼が、初めて私に向けた「制止」だった。それすら、彼は気まずそうに苦笑しながらそっと手渡してきたのだった。

その日から、私の口は人を悪く言わなくなった。
魔術のように、劇薬のように、私の体を一瞬で変えてしまったあの一言は、今も解けずにいる。
とっくに別れ、互いに家庭を持ち、姿や影が遠くに消えた今でも、あの一言はこの唇に塗られている。

         ∇∇∇

私の生まれ育った故郷は青森県の市街地で、洒落っ気もなければ、尖ったところもない、平々凡々な場所だ。
海も無ければ、山も遠くに少しだけ。あったのは、市を横切る川が一本と、桜並木が一本と、日常生活。そこに住む人々ももちろん平々凡々で、事件もニュースも起こらない。つまりは悲劇も無く、感激もない。
そんな場所だった。

物足りなかった。
あと一ヶ月、あと一週間…。指折り数えて待ちに待った高校の卒業式。はやく「故郷」と呼びたかった。呼び捨てにしてもう忘れたかった。

        ∇∇∇

最近、母が私の住む市に引っ越してきた。
うちから徒歩圏内の古い一軒家。弟が引っ越し作業を手伝った。一段落して、出前のラーメンや餃子がなくなった頃、私達は小さな縁側でいろんな話をした。

それぞれのタイミングで関東のあちらこちらに上京してきた私達三人は、年に一度くらいの頻度で交差する。
その度に必ず、どこからともなく立ち上がってくるのが、懐かしいあの故郷だった。
しかし、今回の縁側の上に並べられたのは、そんなほのぼのとした思い出話ではなかった。何度も繰り返してきたようなエピソードたちではなかった。

         ∇∇∇

近所のアパートで知り合いの女性がストーカーに刺された、
隣の理髪店の奥さんが主婦たちを集めて人の陰口ばかり言っていて大嫌いだった、
中学のあの数学教師が生徒に手を出して捕まった、
クラスメイトだったあの子の父親がアル中になって家族全員出ていってしまった、
五人の子を残して、パチンコ狂の母親が近所のパチンコ店の駐車場で自殺した、
私の父親の不倫相手は、あのスーパーの店員だった。

これは全て、私のあの故郷の話だろうか。
あの何のニュースも刺激も無い、平々凡々なあの町の話だろうか。
母と弟の口からポンポンと次々に飛び出す事実に、私の脳の処理機能が悲鳴をあげた。
知らなかった。
あの町は、こんなにもどろどろに歪んで、こんなにもニュースとスキャンダルが飛び交う町だったのだ。

私もそこに居たはずなのに、私はそこで生まれ育ったはずなのに、全くなにも見えていなかったのは何故だろう。
早くに見切りをつけて放棄したからだろうか。
元々興味が無かったからだろうか。

縁側の木目にしばらく落ちていた私の視界に母の手が伸びた。灰皿に数回、灰を落とす。
白いタバコがふわりと空中に弧を描き、母の唇に行き着くのを、私の視線が追う。
ピントが母の顔に合った。

あ。

そこに薄らと重なったのは、若かりし母だった。四十代くらいの、まだロングヘアの頃の母だ。同じ銘柄のタバコを吸っている。

隣の理髪店の奥さんと挨拶を交わす母の笑顔が浮かび上がった。

        ∇∇∇

覚悟が見えた。
柔らかな笑顔の裏に、強さが見えた。
純粋無垢な幼い私の手を引いていた。
私は守られていたのだ。

怖いこと、汚らわしいこと、卑しいこと、泥沼の奥底にねっとりと広がる黒い人間の欲望から。
母は、一切、私に言わなかった。
近所の奥さんの悪口や、父親の不倫のことなど、一切。

家の中が安全で平和な場所だったのは、近所一帯がぬるま湯のように平々凡々だったのは、あれは錯覚だったのだ。母親が子供のために創っていた、錯覚。

あぁでも、なんて大変な作業だったろうあんな壮大な錯覚を創り上げるのは。
子供の無垢な白さを守るために、その横で黒いものを全て吸い込んで溜め込んで汚れていく自分自身を見るのは。

         ∇∇∇

タバコの灰をトントンと落とす母の横顔を見る。
自分はなんて無知だったのだろう。こんなに守りぬかれてることも知らず、こんな町は物足りないなど飛び出して。それが母の際限のない犠牲の上に成り立っていた平凡だとも知らずに。

グニャリと傾いたあの日の景色を思い出す。
彼の額の汗を思い出す。
気づかせようとしてくれた彼と、気づかせまいとしてくれた母。
どちらも愛情が滲んでいる。

だから、あの一言は忘れないように生きていく。
今日もこの唇にしっかり塗って生きていく。



ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!