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ポール・オースター『鍵のかかった部屋』と「小説の定義」

 ポール・オースターの「ニューヨーク三部作」の最後となる『鍵のかかった部屋』(1986年)は『ガラスの街』や『幽霊たち』と比較するならば、いわゆるミステリー小説のていを成しているものの、ラストの主人公とファンショーの「対決」のシーンは分かったようでよく分からない。

 印象的なフレーズを書き出してみる。最初に主人公が語る人生について。

 結局のところ人生とは偶然的な諸事実の合計以上のものではない。偶然の交わり、たまたまの運不運、それ自体が目的を欠いていること以外何も明らかにはしないばらばらな出来事の羅列、それ以上のものではないのだ。(p.40)

 主人公は幼なじみで行方をくらましたファンショーの伝記を書くという口実で彼から今まで受け取った手紙を彼の妻のエレンから借りる。

 一年あまりのあいだで、手紙はほぼ全面的に事物の描写に終始している。パリの建物や街の様子をはじめとして、見たり聞いたりしていたことが克明に書き綴られている。そこには、ファンショー自身の存在はほとんど感じられない。それから、徐々に、われわれは彼の知りあいたちの姿を見かけるようになる。そして手紙の文面も、いくらかはストーリー性を持った内容になってくる。だがそれでも、一つひとつの物語が何か大きな文脈と結びつくようなことはない。そのためそれらの物語はどこか、漂うような、現実性を欠いた雰囲気に包まれている(Then, gradually, we begin to see some of his acquaintances, to see a slow gravitation towards the anecdote - but still, the stories are divorced from any context, which gives them a floating, disembodied quality.)。(p.144)

 引用した原文を拙訳してみる。

 その時、次第に私たちは彼の知り合いの何人かを見かけるようになり、逸話の方にゆっくりと引っ張られる感じがし出すのだが、それでも、それらの物語は一定せず実体のない特色を物語に与えるいかなる文脈からも分離する。

 ここは訳者の柴田が誤解していると思うのだが、ファンショーは逸話(anecdote)、つまり興味深いエピソードを書き出そうとする直前で、例えば、イヴァン・ヴィシュヌグラドスキーという80歳に近い老人のアパルトマンにある四分音ピアノについての長々とした「実体しかない」描写をしてしまうのである。

 しかし情報を収集しているうちに主人公の考えに変化が生じる。

 手紙、電話での会話、インタビューを通して、僕はこのような証言を何十と収集した。その作業は何か月も続き、日一日とデータは増殖していった。地理的振幅においても拡張を続け、関係の連鎖を増やしていく中で、それらのデータはやがて、それ自体の生命を持った一個の複合体へと発展していった。それは無限の空腹を抱えこんだ有機体であり、このまま行けばそれが世界自体と同じ大きさにまで肥大することを妨げるものは何ひとつなかった。ひとつの人生がもう一つの人生に触れ、そのもうひとつの人生がさらにまた別の人生に触れる。こうしてあっというまに、計算の域を越えた無数の接触点が生まれていった。(p.159-p.160)

 しかしすぐに主人公は前言を翻す。

 結局のところ、彼らの証言はみな、ファンショーがなぜあのような行動をしたのか、それがまるで説明不可能であることを裏付けているにすぎなかったのだ。ファンショーは優しかった。ファンショーは残酷だった ー そんなことはもう僕にはわかりきっている。僕が探していたのはもっと別の、どんなものか自分でもうまく想像できないような何かだった。まったく理不尽な行為。まったくファンショーらしくない出来事。失踪する瞬間に至るまでのファンショーという人間のいっさいを否定し去るような事実。(p.161)

 主人公はファンショーの姿を必死になって思い描こうとする。

 だが僕の頭はいつも、ひとつの空白を浮かび上がらせるだけだった。せいぜい出てくるとしても、あるごく貧しい情景にすぎなかった ー 鍵のかかった部屋のドア(the door of a locked room)、それだけだった。(p.180)

 そして主人公が得たとりあえずの結論。

 物語は言葉の中にはない。苦闘の中にあるのだ(The story is not in the words; it's in the struggle.)。(p.183)

 その後、主人公はピガール広場の酒場で、ピーター・スティルマンと名乗る若いアメリカ人をファンショーとしつこく呼び止めて殴られたり、手紙でボストンのコロンブス・スクエアにある四階建ての家に呼び出した、絶対に姿を見せない人物(当人は自分のことをファンショーと呼ぶなと主人公に言っているが)をファンショーとして会話をしたりする。

 主人公はファンショーと名乗る男から受け取った赤いノートブックを読みだす。

 言葉一つひとつはどれもみな耳慣れたものでも、その組み合わせ方はひどく奇異に感じられた。まるで言葉同士がたがいを打ち消すことがその最終目的であるかのような印象を受けた。それ以上うまい言い方を僕は思いつけない。それぞれの文がその前の文を否定し、それぞれの段落がその次の段落を不可能にしていた。ところが奇妙なことに、このノートを読んだあとに残っている感覚は、この上ない明晰さ(great lucidity)の感覚なのだ。(p.220)

 ポール・オースターは「ニューヨーク三部作」でオースターなりに小説の定義をすることで、その後、次のステップに向かうことになるのである。