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【閲覧注意】結婚式の憂鬱


*結婚式を控えている方は読まないほうがいいかも。幸せになってね。


「アラサーになると結婚式ラッシュくるから!ご祝儀用に貯金しておきな」という先輩からのありがたい訓示。あれは冗談だと思っていた。

20代後半に突入すると、毎週のようにインスタに流れ込んでくる挙式の写真。お花、ダイヤ、白、きらきらぴかぴか。

花嫁をお姫様抱っこしてスクワットしている花婿の顔をズームすると、それは2か月前のしょうもない合コンにいた男だったり、「純潔」と「嫁いだ家の色に染まります」という意味を持つ白無垢の写真を同級生が誇らしげに連投していたり、色々と感慨深いものがある。

もちろん私にもあった。結婚式に憧れた時期が。
参列経験の浅い24歳ごろまでは、結婚式のことを「時間と金を尽くして自主開催する文化祭」だと思っていた。
窓の大きいチャペルで式を挙げ、天井の高いホテルで披露宴を楽しんだあと、行きつけのクラブでみんなで踊り明かす夜――そんなふうに妄想を広げては、クラブの貸切費用を調べたものだった。

だがいくつかの式に参列すると、どうも私に結婚式を開く資格があるのか不安になってきた。

まず結婚式は、参列するだけでも大仕事だ。
挙式の前日は、どんなに飲み会が盛り上がろうともシンデレラさながら0時には帰宅し、高いパックを顔に貼り付けて肌のコンディションを整え、睡眠を死守。
当日は早起きしてドレスを引っ張り出し、クリーニングのタグが付いていないか入念にチェックしてからストッキング片手に美容室に駆け込む。

着回しコーデも一苦労だ。
写真フォルダを遡り、直近の「お呼ばれドレス」がかぶっていないかチェックする。
同コミュニティの他の挙式とかぶってしまう場合は小物をプラスしてマンネリ防止するか、通販で即日配達のワンピースを買うか。

楽天で調達した紺のワンピースを着ていった日の集合写真。
そんな日に限って、代官山のセレクトショップで買ったらしいヒラヒラスケスケのヴィンテージドレスと、桁が一つ違うヴァレンティノの原色ワンピースに挟まれてしまった。
やけくそで変顔をかますしかなかった。

純白のウェディングドレスに包まれた友人を見ると、ひねくれ者の私でもさすがにグッとくるものがあるのだが、そんな感動もつかの間。
チャペル内に響きわたる「スコヤカナルときも、ヤメルときも……」というアルバイトの牧師さんの誓いの言葉を聞くと、腹の底から笑いの衝動がこみ上げてくる。

全校集会で校長が話し出す直前の、あの沈黙。絶対に笑ってはいけない空間では、どうしても笑いたくなるのが人の性かもしれない。ちなみに牧師のバイトは高日給らしい。

入場の扉から祭壇まで一本に伸びたヴァージンロード。あれは新婦の人生を表すらしいが、父と娘が一緒に歩き、父から新郎に娘を受け渡すという儀式も少し気持ち悪い。
最初に参列した挙式では、新婦のお父さんが涙を必死に堪えているさまを見て鼻の奥がツンとなった。

だが今は違う。
「あれれ〜おかしいぞ〜?どうして新婦の横にお母さんはいないの?」
「どうして新郎は親と一緒に歩かないの?」と心の中のフェミコナンくんが大声でツッコミを入れてくる。

だって結婚って、親の戸籍を抜けて二人で新たな戸籍を作るものでしょ。
女だけがモノのように受け渡しされるのっておかしいぞ〜!

次に来るのは未婚女子の大鬼門、ブーケトス。
いつかの参列時、隅の方でコソコソしていた私は未婚仲間の友人に「ちょっと!一人で抜けるのズルい!」と鬼の形相で手首を捕まれてブーケ待機列の方に連行されてしまった。これはなんの罰ゲームでしょうか。

「幸せのおすそ分け」なら男性も前に出てくればいいじゃないか。
バスケの空中戦のごとく、スーツがはち切れるくらいに必死にブーケを取り合ってほしい。

まあ古い儀式に楯突いても仕方ないのだけれど。

とはいえ、挙式や披露宴の定番セレモニーを華麗にスルーしていった友人夫婦もいる。
「うちらのケーキあーんとか、誓いのキスとか需要ないでしょw」と一笑に付した女友達は、形式張った演出をすべてスキップし、事前に収録していたお笑いムービーで会場を沸かせていた。
挙式は旅先の教会で済ませてきたという。
なんとも潔い。


挙式後の披露宴では、着物を召したご両親・親戚が下座に、祝辞を述べる上司や恩師(主賓)が新郎新婦の前に座る。

なるほど、「結婚式は人生の通信簿」とはよく言ったもので、立派な黒留袖とモーニングコートを召したご両親、上品なほほえみをたたえる親族、美しくめかし込んだ華やかな友人たち、体を張って余興をしてくれる好青年の部活仲間たち、そして格式高い会場を押さえられる財力……社会的な“指標”が詰まっている。
わ〜!ステータスおせちや〜!


ご良家のお嬢様あるあるは司会によって紹介される「継承シリーズ」だ。
母から譲り受けたMIKIMOTOのパールネックレス、祖母から三代受け継いだ思い出の振り袖。

そして新郎を褒め倒す上司のスピーチは、あくびと戦う時間。
戦を制してお酒や食事を楽しんでいると、二人の生い立ちムービーへ。
そりゃあ、いい感じのバラードを添えて友人の幼少期を流されれば、胸に熱いものがこみ上げてくる。
だけど生誕から乳幼児、中学高校、大学を経て今に至るまで記録された写真や映像があまりにも“正解ど真ん中”すぎて、正直息が詰まることもあるのだ。
全期間にわたり誰一人欠けることなく笑顔で写っている親兄弟、実家の広い庭やアンティーク家具、海外旅行の写真は嫌味にならない程度に選び抜いてハワイとヨーロッパの2枚のみ。

中学から高校と徐々に垢抜けていく様子、クラスの仲間に囲まれた文化祭、汗と涙で光り輝く部活の思い出。
半生のすべてが大きい花丸で縁取られている。

新婦からの手紙で違和感はピークに達する。
「いつものようにパパママと呼ばせてください。パパ、ママ、25年間私を育ててくれてありがとう」から始まる、ささやかすぎる反抗期エピソード。
お父さんを無視しちゃったとか、お母さんと口喧嘩しちゃったとか、そういう類の。

そして、パパとママのような夫婦になりますという慈愛に満ちた宣言。
このコンテンツも例にもれず涙を強制的に引き出してくるのだが、もしもこれが本物の肉声ならば、どうして大勢の他人の前でさらすことができるのだろう。
はて。家族とは、こんなにきれいなものでしょうか。

母親とつかみ合いの大喧嘩をした夜、
両親の言い争う怒鳴り声、
父親がちっぽけで情けない一人の人間に見えた日、
家族史に刻まれるような忌々しい事件。
思い出すと胸がじくじく痛む、家族の暗黒期。

それらを力ずくで喉の奥に呑みくだし、ようやく個別の人間として親と対話ができるようになった今。

親と抱き合う新婦の姿に目の奥がカッとなりながらも、私は思わずにいられない。
家族って、もっとしんどいものじゃないのか。
そんなにまろやかにまとめてしまっていいのか。


このように今まで参列した結婚式の殆どは、まがまがしい出来事や人に恥ずべき事情など私たちの人生に存在しておりません、と言わんばかりの美しくおめでたい空間だった。
曇り一つない美しい球体のように。

我ながら面倒で底意地の悪いヤツだという自覚はある。
友人の新たなスタートを素直に寿げないのかと嫌になる瞬間が何度もあった。
きっと私みたいな人間には、幸せのパスポートは交付されないんだろう。

だが、もう一歩踏み込んで挙式の後日談を聞くと、人には人の事情があることを知った。

実家とは絶縁状態で、親族は妹しか呼べないため新郎の親族も親兄弟だけにしてもらった、本当は家族婚にしたかったのに、親が自分たちと同じ会場で挙げることを切望したため100名規模の大会場にせざるを得なかった、義理の親に資金を援助してもらったが、装花の種類にまで干渉されてムカムカした……

なんだ、別に「みんな花丸」じゃなかった。
書いては消して、間違えては消して、何度も書き直した末に自分で自分に花丸をあげていたのね。

私が瑕(きず)一つないと感じていた玉。
みんな瑕の部分に一日だけ塗装して、金メッキをかぶせていたのかもしれない。

まんまるでピカピカして完全な球体に見えたものは、本当はいびつな鉱石だったのかもしれない。



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