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独学考#6:過去を問い、前方予測性を高める

あるテクストの読解のゴールは、究極的には著者を読者自身のうちに憑依させ、著者が辿る思考の道筋をありのままに再現できる状態になることだと思う。

別に異論は全然認めるとして、ではここに向かうために、読者には何ができるだろうか。

著者を自分の脳に「降ろす」とは、単にその著作が論じている理路の再現だけに限ったものでは全然なくて、著者がものを考える際の規則や傾向性を丸ごと把握し、それに即して思索を展開するということを意味する。「もし◯◯ならどう考えるか」とは自然科学ではほとんど問われない問いだが、人文学においては頻繁に問われ、取り組まれている問いである。

自分がここ数年取り組んできたヒュームの経験論において、これが部分的にではあるができるようになってきた感覚がある。原著と毎日膝を突き合わせて丹念に字句を追い、読み進めること1,000時間ほど。それでやっとこさ、なんとなく、である。しかも、専門研究者ともなるとただその著者を降ろすに留まらず、その主張を更に掘り下げて新たな示唆を加えて論文を書くというのをやっているので、道は遥か先まで続いている。

さて、この著者を「降ろす」ということについて、特に最近はこういうやり方を意識しながら読んでいたというのを書き記しておきたい。

設問が足らない!

一般的日本人の例に漏れずガチガチの受験脳である僕としては、やはり問題集みたいなのが欲しかった。一人孤独にテクストを追い詰めていく日々のなかでは、寄り掛かる手すりも道を示す灯りも一切ない。

ふつう人が何かを学ぶときには、教科書を読んでノートを取って理解して、最後にテストで理解度を測るというのが常套手段だが、ここではそれら普遍的なフォーマットにおける主要パーツが欠けている。

教科書は原テクストそのもので、その内容を自ら手を動かして咀嚼して、理解を深めていく。概説書とか研究書の類は使いたければ使えばいいが、「降ろす」という今回の目的にとって迂回となることも多く、あくまで教科書に対する参考書の立ち位置だろう。

で、結局、テストがないのである。得た知識を使う実践、自身の現在地の表示、そして軌道修正という3つの機能を担うこのパートは、何かを学ぶに際して最重要パートである。独学者には、設問が足りてない。大学に行ったら多少はレポート課題とか出してくれるんだろうし、輪読とかも良いんだろうけど、それでもたかが知れてるし、生憎そんな暇もない。あくまで、独学という環境においてできることを模索しなければならない。

なので、自分で問題を作らなければならない。その著者、そのテクストの一問一答を。自分で作った問題に自分で答えて、自分で答え合わせをする。でも、そんなことができるだろうか。まだ「降りてない」著者の正答を自分自身で作ろうとすることには大きなリスクが伴う。この試みは、端から詰んでいるのかもしれない。


いちど目的地へと立ち返ってみよう。最終的に著者を「降ろす」ことで答えたい問いとはどういう問いだっただろうか。

「もし◯◯ならどう考えるか」という問いは、未知の問いに対して向けられた問いである。既に〇〇が論じきっていることをそのまんま再現できればいいというのでなくて、現代における新鮮な問題意識のうちに、著者の知性を瑞々しく再生させなくてはならない。

すると、テクストを丁寧に読んで著者が展開する論脈を追跡して記憶しておけばオールオッケーという類のものではないのだ。

かといって、困ったことに、未知の問いには多くの場合、著者の手による正答が存在しない。500年前の学者や思想家は、このために甦って意見をくれたりはしないし、存命中の人もいろいろと忙しそうである。だから仕方なく自分で考えることになるのだが、「たぶんこう考えてたっしょ」とはどこまでも断言できず、初学者がやろうとしても雲を掴むような話である。

こうして、単に理路を追ってそれをそれとして理解することと、物言わぬ死者をエミュレートしようとする妄言すれすれの試みとの間には、広大な隙間がぽっかりと空いてしまっている。


さて、我々はほとんど同じ理路をまるっと2度巡った後、どういう地点に来ているだろう。著者を降ろすための設問には正解がなく、著者を降ろした後の問いにも正答はない。

バックテストで予測性能を上げる

ではどうすればいいか。ある意味で単純な消去法だ。当のテクストそのものを、解答付きの問題集へと変換してしまえばよい。

すでに問いの形になっているものは、それを意識的に問題として自分に投げつけ、問いの形になっていないものも、勝手に問題として読んでいこう。これで全てであり、これ以上には何も無い。

分かりやすい例として、ヒュームは『人間本性論』の至るところで「この主張を補強するために、予想される2,3の反対意見に対して以下で論証をしておく。」とかをやっている。この反対意見を読んだ時点で、「これは設問!」というフラグを即座に立てる。そして当人による論証を読み進める前にそれがどういうロジックになるか自分で予測してみるのだ。

著者が提出した解答がすぐそこにあるので、自分の予想とのズレを確認し、なぜズレたかを考えることができる。著者を自分のなかに憑依するためのフィードバックシステムは、こうすることでしか構築し得ない。

そういえば昔、仕事でもこれに近しいことをやっていた。過去の同業他社の事例と当時の諸環境についての情報だけを使って、その後の帰結を想像してみて答え合わせをするようなことを。また、金融分野(とりわけ株式/FXのシステムトレード)で「バックテスト」と呼ばれる予測モデル評価/向上手法はこれとほぼ同じものである。

既に結果が出ているものは、正答として使える。ただし、それをしっかりと過去の時点から新鮮に問えれば、である。これはある種の時間旅行であって、それなりの注意と明確なポリシー運用が必要になる。テクストを自然に、流れるように読むような読解のモードは、これにそぐわない。行きつ戻りつ、答えるときは考えるモードに入ってちゃんと答える。ゆえにおのずと時間もかかる。

また、初めて読む著者でいきなりやっても当然できないので、ある程度著者の思考を構造的/網羅的に理解できてきたと感じた時点から徐々に問いとしての取り組みを増やしていくこと。予測するためには、少なくとも著者の思考の主要な部分を道具として使えないといけない。著者特有の前提、論理、法則などの機能と使い方を理解できていて、すぐに取り出せるようになっている必要がある。とはつまり、メモ/ノートも取らずに素読で半周したぐらいでは到底無理、ということでもある。

ヒュームに即していえば、「人が或る思考経路を辿るようになる」というのは、連続する観念の系列(観念A→観念B→・・・)の恒常的随伴の経験から生じてくる精神の移行の被決定性(=そう思念するように自然と決定されている)に他ならない。蓋然性が明証的「論証」へと高まる途上で鋭い反省と軌道修正を挟むにしろ、本稿が論じてきた憑依としての随伴はなによりもまずテクストに対峙しながら幾度となく読み、書き、考えることの反復でしかない。この反復の経験のうち最も重要な部分を、正答付きの設問が力強く支えてくれるのである。


上記における準備段階としての、テクストの主張をまともに理解できている状態に至るまでに工夫したことも多いので、いずれ書く機会もあるだろう。

そして他方で、ヒュームでは1,000時間ぐらいかかったこれを、今後はなんとか100時間ぐらいでできるよう試行錯誤していきたい。もちろん自分の浅学非才っぷり故でもあるが、本稿の方法を感覚的に掴んできたのはここ半年ぐらいの話であるから、もっとずっと早く深く浸ることもできるだろう。



てか、所要時間もそうだけど、そもそも「憑依」って排他的な部分も多いとも感じてもいるし、一生のうちでの制限回数が決まってるのかもしれない。経験論と合理論は哲学体系として相容れないから同居できない部分が多い、とか。まぁ、自分が厳密な意味でヒューミアンかと言われるとそうではないし―現代において徹頭徹尾ヒューミアンであることは相当な困難を伴うはずだし―「憑依」ということと当該の主義主張を全力で信じているかとはイコールではない気もするし、話はもうちょっと複雑だろう。

あ、でも2系列以上あれば、疫学でいうところのケース・コントロール的な比較衡量やコホート的なそれができるようになっていいね。よく言うΠ型人材(ダブルメジャー)ってそういう意味合いで捉えると納得感があるのかもしれない。

ちょっと話が逸れたけど、今回はこのへんで。

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