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東京から宮崎に移住。家族で移住するも…移住11年目のリアル

はじめまして、東京から宮崎に移住して11年目の村山です。

御池にて大好きな霧島をバックに

山奥でWEB系のフリーランスとして仕事をしながら、田舎暮らしをしています。
宮崎へ移住して11年が経ちました。

今日はnote初投稿ですので、自己紹介を兼ねて、移住した理由をお話しします。

今、地方へ移住したいと考えている方への参考になればと思います。


東京から宮崎に家族で移住するが、4年後離婚

わたしが宮崎に移住したのは、夫が以前より宮崎で農業をしたいという希望があり、2012年の2月、当時、1歳直前の長男を連れて東京から家族で宮崎県都城市へ移住しました。

移住直前の引越しの様子 長男が9ヶ月くらい

よく「マリッジブルー」という言葉を聞きますが、移住直前「移住ブルー」になったのを覚えています。

結婚する前から、夫の移住希望は聞いていて、それを了承していたけれど、直前になり、東京の暮らしも楽しいし、友だちも親もいない宮崎で暮らしが成り立つのか、お金は大丈夫か…などいろんな不安がよりぎました。

しかし、いまさら宮崎移住を白紙にするわけにもいかない、ということと、東京での暮らしの息苦しさ、子育てのしづらさも感じていることではあり、最後は腹をくくって宮崎にやってきました。

わたしは福祉関係の就職先が見つかり、夫も就農し宮崎での暮らしを始めました。その後、長女が誕生しましたが、その夫とは、移住後4年後離婚しています。

離婚時、シングルマザーとして居住地の選択は2つありました。

①両親のいる岐阜県へ帰る
②宮崎に残る

ものすごく迷いましたが、すでに宮崎での暮らしも気に入っていたのもあり、宮崎に残ることにしました。

おさない二人を連れてシングルマザーに

「子どもも小さいし、親がいる岐阜に帰るべきだよ」とアドバイスしてくれた人もたくさんいましたし、父にはすごく反対され心配されましたが、シングルマザーを経て、数年後今の夫と再婚。

そして、次男が生まれました。

2段階移住で限界集落へ

再婚し、次男が生まれたときは、夫の持ち家に住んでいました。
とても手先の器用な夫がリフォームしたおしゃれな古民家で、都城市街地へのアクセスもそこそこよい場所に住んでいました。

夫がリフォームした築100年の古民家

ここでの暮らしもかなり気に入っていたのですが、
友だちが住んでいる限界集落の小学校が全校児童10数名で、子どもたちが楽しそうにのびのびしているのを見て、「わたしもこの学校に子どもを通わせたいな…」という気持ちでウズウズしてきたんです。

年長さんの長男と吉之元地区の運動会に参加させてもらい、どんどん移住したくなる

しかし、持ち家がありますし、「さすがに夫も嫌がるだろうな…」と思いながらも、相談したところ「超いいじゃん!!」と予想外にも快諾してくれました。

元バックパッカーの夫は、ものすごくフットワークが軽く、家は「人に貸すなり、売るなりできるよ」ということで、友だちの住んでいる限界集落への移住準備を開始しました。

ちょうど、その小学校の教頭先生が住んでいらっしゃった借家があり、転任で家を出られるという情報をキャッチし、長男の入学のタイミングで限界集落へ移住しました。

移住直後 大きな薪ストーブがある家

今住んでいる、都城市吉之元町という地区です。

現在の暮らし

現在は、限界集落に移住して丸6年が経とうとしています。

長男が小学校の入学するタイミングでの移住でしたが、その長男も今年の春に中学生になります。

わたしは、場所にとらわれない仕事がしたいという思いで、現在はWEB関係の仕事をしています。

LINE公式アカウントの講師をしている写真

吉之元地区の菜の花の景色がきれいだという理由で、合同会社花菜(はなな)という法人名にしました。

移住当初は、田んぼや畑もいろいろやりたいなぁと思いを描いていましたが、現状わたしはほぼそのような時間が取れず、そちらは夫に任せきりになっているところです…

夫は、「たまご家族」という屋号でえさにこだわった平飼いたまごを販売したり、田んぼをやったり、便利屋さんのような形で依頼が入ると大工仕事や解体の現場にいったりして活動しています。

養鶏をはじめた夫

夫がいなければ限界集落での暮らしもままならなかったと思います。

このnoteで伝えたいコト

限界集落に移住して暮らす日常を飾らずに発信していきたいと思います。

ゆくゆくは、このnoteをみて全国の移住希望者の目に留まるといいなぁということを思っています。

不定期にはなりますが、今後も更新していきます。



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