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小説|犬と金魚

あらすじ

ー井沢忠彦当時十六歳が、郊外の新興住宅地にある自宅に帰宅すると、両親と妹の三人が刃物で刺され死亡していたー

 20年前の事件が、主人公井沢忠彦の人生を狂わせていた。
 知人の弁護士を通じて知った事故物件の一室を借りて暮らしている井沢は、行きつけのバーの前で高村桜という女に出会う。
 完璧に男に嘘をつく女、桜に井沢は惹かれていく。
 自分以外の、真っ当に生きてほしいと思える者たちが、幸せをつかめそうになった時、再び事件が起きた。

(「創作大賞2024」ミステリー部門応募作品です)


 風が冷たくて、耳が痛くなる程だった。
 片方の耳を揉みながら店に入った。
 カウンターに着いてバーボンを頼む。
 注意していないとそれとは判らないくらいの微笑でバーテンダーは注文を受ける。
 会社勤めなら定年間近といった頃のおやじが一人でやっている小さな店だが、満席には滅多にならない。
 三人の客が帰っていった。
 おやじと私の二人きりになった。
 サービスのつもりか、珍しくおやじが話しかけてきた。
「外は寒いですか?」
 私は頷いてそれに答えた。
「そうですか。予報では夜に雪が降るそうですよ」
「降るかな」
「どうでしょう」
 店を出ると夜になっていた。
 予報通りの雪が降り始めている。
 男と女が並んでこちらに歩いてきた。
 女は赤いワンピースを着ていた。
 ヒラヒラしたその上に白っぽい上着を引っ掛けていた。
 女をじっと見た。
 目は合わなかった。
 女は連れの男の方を向いて微笑んでいた。
 その様子が、気になった。
 それが嘘だと、私には判った。
 どうしてこの女は嘘笑いをしているのだろう。
 考えているうちに、二人は店に消えた。


 その私鉄駅の事実上メインの改札口には、北口という名が付けられていた。
 中央口改札は一階にある。
 そこに行くには駅ビル二階のホームにぽっかり口を空けている階段を降りていかなければならない。
 エスカレーターは付いていない。
 改札機四基の小さなもので、およそ中央と呼ぶには迫力に欠けている。

 本来中央と呼んでよさそうな北口改札は、もちろん駅全体から見て北の方角にあるのだが、そこにインフォメーションセンターや障害者用の幅広の改札機が最多の三基あることなどを考慮すれば、何となく淋しい余韻を含む北口と命名されたのは、方角ばかりの問題ではないのだろうと詮索できた。

 当然、詮索するのは暇な人間だ。
 二十基余り並ぶ改札機に向かい、出来るだけ人より速く通り抜けようとする忙しい人間にとって、改札口の名など何の意味もないだろう。
 利用頻度が高ければ高いほど、名など知らない者の方が多いかも知れない。

 北口改札前のフロアの真ん中に立っている柱時計の前を通り過ぎて、駅ビルに隣接している商業ビルの方へ歩いた。
 電車は到着したばかりだ。
 それから吐き出された人々が足早に改札を抜けてくる。
 この駅は終着駅であり、この街の中心地でもある。
 政令指定都市都心部の朝のラッシュアワーは、東京とは比較にもならないにしても、それなりに賑わっていた。
 人混みに飲み込まれる前にフロアを抜けて、連絡通路沿いに設置されているコインロッカーの前で立ち止まった。
 暗証番号を入力して、戸を開ける。
 中に茶封筒が入っていた。
 いつもそうだとは決まっていない。
 デパートの包装紙に包まれた箱だったり、レコード屋の袋だったり、様々だ。
 背後では忙しい社会人達が流れるように行き交っている。
 私はそれに紛れた。


 有名な週刊誌の名が印字された名刺を見せると、若い男は胡散臭げに私を睨んだ。
「少々、お話しを伺わせていただきたくて」
「話すことなんかねーよ」
「謝礼はお支払いしますよ」
 男は首を傾げて、名刺を手に取ろうとした。
 私は取られないように手を避けた。
 男の目付きが更に悪くなった。
「話してくれるんですか」
「幾らで聞くつもり?」
「そうだな。酷く乗り気じゃないみたいだから、一分一万でどうです」
「マジで言ってんの?ふーん。何言ってもそれだけくれるって言うなら、喋らないでもないけど」
 男は少しバカにしたように笑ってそう言った。
「いいですよ。でも、ここではなんですから、場所変えましょう」
「ここでいいだろ。忙しいんだ」
「それなら明日にしましょう」
「は?」
「明日の十時」
 郊外にある大型スーパーの立体駐車場を指定すると、男は溜め息をついた。
「なんでわざわざそんな所まで行かなきゃならねんだよ?」
「約束ですからね。それじゃ、明日」
 私は構わず言って、その場を立ち去った。
 男が背中で「行かねえからな」と言うのが聞こえた。
 来なければ、他の方法を考えれば済むことだ。



 男は嘘とは思っていないだろう。
 シャワーの後、髪を拭きながら考えた。
 ヒラヒラと揺れる赤いスカートが目に浮かぶ。

 気温の割りに薄着だ。
 あれだと風邪をひく。
 その予防に男を連れていたのか。
 五時過ぎの会社員には見えなかった。
 出勤前のホステスにしては時間が微妙だった。

 壁に取り付けているドライヤーから熱風が吹き出す。
 後ろ頭にそれをうけながら窓を見た。
 手を伸ばして窓を開けると雪が降っていた。



 若い男は来た。
 金額に釣られたのだろうが、三十分雑談をすれば素直に三十万もらえるとは思わなかっただろう。
 幾らかごねれば、数万から十万にはなる。
 そのくらいの算段だったはずだ。

 錆だらけの手すりの傍に四角いゴミ箱のような灰皿がある。
 男はその前に立ってタバコを吸っていた。
 駐車場に車はほとんど止まっていなかった。
 階数が高いせいか、遠くに一台あるきりだ。
 車内には誰も残っていない。
 目視では判らない車載カメラがついている可能性もあるが、私の指定した場所までは映りこみそうになかった。
 男は手すりの隣の壁に背をもたれていた。
 文句がありそうな顔でこちらを睨んでいる。
 私は遅刻をしていたので仕方がない。
「遅せえよ」
 私は肩をすくめて、男の傍まで来ると手すりの向こうに見える景色を指差した。
「は?」
 男は怪訝そうに体を壁から離して、手すりの前に移動した。
 タバコを指で挟んで口から離し、その手を手すりに置くのを見ると、私はその背中を押した。


 有名な週刊誌の記者の名刺など信じてはいけない。
 肝心なのは、それを利用する人間自体が信用できる者かどうかを見極めることだ。
 少なくとも、それを手にしている人間が印字された名の人間と全く無縁なのではないだろうかと、疑わなければならない。
 名前とその持ち主が、必ずしも一致するとは限らない。
 何処かの改札口と同じだ。


 店内への入口から離れていること。
 監視カメラの死角になっていること。
 店内から締め出された喫煙コーナーが無理に設置されているため、客がその辺りの駐車を嫌うこと。
 嫌煙家もその場を避けること。
 施設全体に老朽化が進んでいること。
 その手すりが腐食して危険であること。
 そういったことは既に調べていた。

 夕方のニュースでその死亡事故は報じられ、経営者側の安全管理体制が厳しく問われていた。
 私は既に都心に戻り、駅ビル内のスーパーで挽肉を選んでいた。
 134gのパックをカゴに入れ、玉子の在りかを探すために振り返ったところで、あの女を見つけた。
 ベージュのコートの下に、黒いセーターを着ている。
 髪は黒くて真っ直ぐで長かった。
 ヨーグルトとプリンを一つずつ手にとって、どちらを選ぶか悩んでいるといった様子だ。
 私は彼女に近付いた。
「こんにちは」
 女は驚いて私を見上げた。
 警戒心もあらわにこちらを見ている。
 当然の反応だった。
 多少怯えをも含んだその表情に嘘はなかった。
「すみません。先日、ヤマタニでお会いしたでしょう」
「やま、たに?」
「駅裏の、公園の奥の通りにあるバーの名です。看板にはローマ字でYAMATANIと書いてある。でも、目立たない看板だから、名前は知らないかな」
「バー?ええ、最近、その辺りの店に行きはしましたけど」
「やっぱり。覚えていませんか?」
 覚えている訳はなかった。
 見たのは私の方だけだ。
 それも店内ではなかった。
 女は弱ったように首を振る。
「そうですか。残念だ。すみませんでした」
「いいえ、私の方こそ」
 私は彼女から離れて、玉子と食パンをカゴに入れた。

 引き下がるつもりはなかった。
 あのバーを彼女が再び訪れる確証はない。
 この店にもだ。
 今を逃がせばいつ会えるか判らない。
 私は彼女と話をしたかった。
 あの嘘笑いは、何故必要だったのか。
 完璧に男が騙されるほど上手くできた、あの微笑の理由。

 時間を調整したり、タイミングを図ったりするのは得意だ。
 彼女より少し先に会計を済ませ、台の上で荷物を詰めている所に、偶然のように彼女が現れるという筋書きは、難なく実行された。

 私はカゴを持った彼女の顔を見て、人の好い笑顔を浮かべた。「どうも」と言うと、彼女は先程と比べると格段に気を許した表情で頷いた。
 ただ、本当に気を許している訳ではない。
 とりあえず人当たりのよい態度を取っているのが礼儀だという、一般的な感覚に基づいているだけだろう。
 彼女のカゴを見ると、ブルーベリーのヨーグルトとプリンの二つが入っていた。
 顔を上げる。
 彼女の表情が一変している。

 嘘だ。

 彼女はゆったりとした微笑を浮かべていた。
 そして私のカゴを覗いた。
 覗いている自分を他人が見ていることを心得ている、美しい動きだった。
「ハンバーグ」
 そう呟き、私の顔を上目づかいに見やる。
「でも、タマネギがないわ」
「タマネギは冷蔵庫の中に入ってる」
「そう。自分で作るの?」
「ああ」
「そう」
 彼女は袋に二つのカップを入れ、袋の結び口を蝶々結びにした。
 私はタイミングを測るのを忘れていた。
 向こうが帰り支度を終えた時、私の荷物はまだカゴの中だ。
 彼女は顔を上げると、「じゃあ」と言った。
 私は少し慌てていた。
「あの」
「なに?」
「食べないか、一緒に」
 彼女は可笑しそうに鼻で笑っただけで何も言わず、私の前から去っていった。

 彼女が私にあの嘘の微笑を向けたことは確かだ。
 私が目を離した一瞬の間に、彼女は何を考えたのだろう。
 カゴを覗く私を見て、何を思ったのだろう。
 あの男と同じように、騙せると踏んだのか。
 そう思うと、鳥肌が立った。
 怖くなったのではなく、奇妙な嬉しさが込み上げてきていた。



 北口改札前のフロアを囲んで、幾つかの店が並んでいる。
 飲み物や新聞を売っている売店の他に、薬局、パン屋、カフェ。
 カフェは二つあった。
 一つは若干広めの食事も長居も出来る店。
 一つは一息つくためだけの狭い店。
 私は狭い方に入った。
 カウンターでコーヒーを頼み、その場で受け取って席に座る。
 隣の男が立ち上がった。
 テーブルにはポケットティッシュが置かれていた。
「これ、もらえますか?」
 私がそう聞くと、男は「ええ」と短く答えて、コーヒーカップを返却口に戻すと店を出て行った。
 私はもらったティッシュをポケットにしまった。



 ある程度客が入っているところで、おやじが話しかけることは、二人きりの時よりも珍しいことだ。
 店の雰囲気からすればマスターという呼び名の方がしっくりくるのだろうが、長い付き合いのなかで呼び名はすっかり変化した。
「どうしたんです?」
「何が?」
「最近、毎日だから」
 肩をすくめた。
 確かに毎日、このバーに通っていた。
 あの女に会うには、やはりこの店しかないような気がしたからだ。
 もし向こうに、少しでも私に会おうという気があれば、来てくれるのではないかと思っていた。
 一週間経ってもその気は起こらないらしいが、スーパーで何時間も張り込むよりはましだ。
 結局会えないままでも、格好は付く。

 二週間経って、やっと自分の執念深さを実感した頃、女は現れた。
 しかし、男と一緒だった。
 以前とは違う男だ。
 女は私に気付き、会釈をしてくれた。
 私は「どうも」と返したが、隣の男に冷たい視線を向けられた。
 カウンターの一番奥の席で、知り合いなのかと尋ねている。

 勘定を済ませて帰ろうとおやじを見ると、おやじは私を見ていた。
 そして女の方へそっと目をやって、納得した風でもなくグラスを拭き始めた。
 私は勘定と言う代わりにおかわりと言った。
 ここで三杯目を頼むのは初めてだ。
 おやじは意味ありげにちらりと私を見やった。
「偶には、カクテルなんかどうですか」
「おれが?」
「ジンならギムレット、ラムならダイキリ、ブランデーならサイドカーなんてどうです」
「基本だな」
「ブルームーンなんかも得意ですが」
「マンハッタン」
 最近のおやじは珍しいことばかりするようになった。
 客に向かって鼻で笑ったのだ。
 もちろん嫌味な感じはなかったが。
「ウイスキーしか飲めない人ですか」
「その味しか知らないんだ」
 赤い液体の入った円錐の小さなグラスが差し出された。
 一口飲んで、やはりただのバーボンがいいと思う。

 女の声が聞こえた。
「もう、帰る」
「おい」
 見ると女は椅子から立ち上がり、バッグとコートを手に取った。
 男がその手を掴まえる。
「やめてよ。こんなところで騒ぐ気?」
「そう言うんじゃ、ただ話が」
「だって、何だか面倒なんだもの。私、帰る」
 女は男の手を避けて出口に向かって歩いたが、私と目が合うと気まずそうな素振りで立ち止まった。
 そこに男が来て、再びその手を掴まえようとする。
 私は立った。
 女をかばうような立ち位置になっていた。
 当然、男に睨まれた。
 私は言った。
「嫌がってるんじゃないかな」
「なんですか、あなたは」
「何となく、そう見えたから」
「関係ないでしょう」
 女に目をやると、困ったように俯いて、私の上着の裾を摘まんだ。
「こんなの、もう嫌。帰りたい」
 私は女の背に手を置いて出口に促がした。
 男が一歩踏み込み、私は腕でそれを制す。
 おやじを見ると、疲れたような声で男の方に言った。
「何があったか知りませんが、お勘定だけは済ませてください」
 男は苛々とおやじを見た。
 おやじは私に言った。
「冗談じゃないですよ、お客さん。ツケは困るっていつも言ってるじゃないですか﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅
 私は思わず唇の隅で笑い、女の背を押してそのまま店を出た。


 走りはしなかったものの、駅裏の公園まではかなりの速さで歩いた。
 十時を過ぎていたが、公園にはそれなりの人混みがあった。
 男が遅れて追ってきても、紛れて誤魔化すことはできるだろう。
 若者たちの群れや、会社帰りの飲んだくれや、カップルの合間を縫って歩いた。
 噴水前のベンチは空いてないし座る気もなかったが、女が少し息を切らしていたので立ち止まった。
「疲れたか」
「少し。でも大丈夫。ちょっと足が痛いけど」
 足元を見ると、華奢な黒いパンプスだ。
 白に近いベージュのワンピースを着ている。
 柔らかい素材で、少し動く度にヒラヒラと揺れた。
 私は彼女の持っていたコートを手に取りながら言った。
「タクシー拾うなら、通りまで付き合おう」
 コートを広げてやると、彼女はそれに袖を通した。
 胸元で襟を引き寄せて、私を見上げる。
「ありがとう」
「いや」
「どこかでコーヒーでも飲まない?」
「もたもたしてると、先刻の男に見つかる」
「あなたの家が近いなら、そこでもいいけど」
 女を見つめた。
 私はそうとは受け取らなかったのだが、女はすぐに微笑んで「冗談よ」と、言った。
 そしてもう一度礼を言うと、一人で公園から出て行った。



 ポケットに手を入れ、ティッシュの間から暗証番号の印字された小さな紙を取り出す。
 その番号でコインロッカーの戸を開いた。
 今日の封筒の中には現金が入っていた。



 非通知の電話が一秒しないうちに切れた。
 それが三回続いた。
 強い雨が朝から降っている。
 少し面倒に思いながら、傘を持って部屋を出た。
 雪になるほど冷えていないということだろうが、寒いことに変わりなかった。
 電車で一駅だけ進み、終点で降りる。
 北改札のカフェに知り合いはいなかった。
 コーヒーを飲んでいると、一分ほどで五十男が隣に座った。
「どうも」
 と、私は言った。
「久し振りだね」
「そうですね」
 男のタイは高そうだったが、私はほとんどつけないので値段の見当はつかなかった。
 艶のある茶系の格子柄をなんとなく眺めていると、男は言った。
「少し込み入った話だ」
「そうですか」
「久し振りに、うちの事務所に来ないかい」
「そういう合図を作っておけばよかった」
 男はふっと笑い、コーヒーを飲んだ。
 ソーサーに戻した時は半分になっていた。
 ここのコーヒーは煮詰まったようにいつも渋くて、猫舌でなくても熱過ぎると感じる代物だ。
 猫舌の反対はなんと言うのだろう。
「これから依頼人と会わないといけないんだ」
 男はそう言って腕時計を確認した。
 時計はあまり高そうには見えなかった。
「六時に待ってるよ」
「私はあんたを信用してる。面倒な説明はいらない」
「まあ、そう言うな」
 無意識だろう。
 男は一瞬、襟に付いた向日葵のバッチを親指で触ってその存在を確かめた。
 そしてコーヒーを飲み干すと店を出て行った。



 事件自体は二十年も前になる。
 井沢忠彦当時十六歳が、郊外の新興住宅地にある自宅に帰宅すると、両親と妹の三人が刃物で刺され死亡していた。
 台所にあった母親の財布から現金三万二千円と、居間にあった父親購入の週刊誌一冊を盗んで逃走した犯人は、翌日には逮捕された。
 事件現場からそう遠くない河川敷で、五〇〇ミリリットル容器のコーラを飲みながら同一の週刊誌を読んでいる男を、捜索中の警察官が職務質問した。
 男はその際に犯行を認めた。
 犯人は警察の調べに対し概ね素直に供述したが、裁判では一転無罪を主張。
 不適切な取調べがあったとして弁護士は警察を批判し、自供の信憑性はいちじるしく低いと主張した。
 警察にも落ち度はあった。
 証拠の裏付けに不備があったのだ。
 結果として、犯人は無罪を勝ち取った。
 担当弁護士田原洋一郎は会見で、冤罪を阻止できたことは非常に喜ばしいと語った。



 込み入った話とは、相手が暴力団関係者だという内容だった。
 厄介なことには違いない。
 乗り気じゃないなら降りてもいいと言われた。
 田原法律事務所を後にして、バーに向かった。
 二杯目を飲んでいると女が入ってきた。
 おやじの顔が微妙に変化したのが判った。
 女は隣に座りながら、私に言った。
「奢ってくれる?」
「ああ」
 女はブルームーンを頼み、おやじは無言で頷いた。
「あれから、無事なのか」
「ええ、ありがとう。大丈夫よ。お互いに連絡先も知らない相手だから」
「付き合ってる男じゃなかったのか」
「まさか。一週間前に知り合ったばかりだったの」
「ふん。でも、執念深い男なら、この店を張り込んでるかもしれない」
「多分、大丈夫。そこまでしないわ。この街の人間じゃないし」
「そうか」
「あなたはここの常連だったのね」
 私は返事をしなかったが、おやじが女の前にグラスを置きながら「最近は殊に」と呟いてみせた。
 私は指先で少し頭を掻いて、女を見た。
 今夜はブランデー色の服を着ていた。
「そっちは」
「あなたが見かけたって言う日が初めてだったのよ」
「あの時は、違う男だった」
「ええ」
「あんたは悪女なのか」
 女は笑った。
「面と向かってそんなこと聞くの?変な人。どうしてそう思うの?」
「ころころ男が変わってる」
「あなたが見たのは二人じゃない」
「三回見て二人だ。確立で言えばかなり高い」
「単純よ」
「そうかな」
「初めの人とは十年来の付合いだったかもしれないじゃない。あの後で残念ながら破局が訪れて、傷心のところに優しく声をかけてくれる男が現れた。ちょっと頼ってみようかなと思ったけど、嫉妬深さにうんざりして逃げた。あなたはそんなところを垣間見ただけかも知れないわよ」
「そうか。有り得るな」
「単純ね」
 女のグラスと私のグラスが空になると、二人で店を出た。


 アパートまでタクシーを使うつもりだったが、一駅だと判ると女は電車の方が速いと言い、結局電車に乗った。
 確かにタクシーだと渋滞にはまるので、十分で行き来できるところが三十分、下手をすると一時間にもなってしまう。
 部屋に来て酒がないことが判ると、女はつまらなそうに口を歪めた。
「コーヒーを飲むんじゃなかったのか」
「ビールもない男の部屋なんか初めて」
「家では飲まないんだ」
「そう」
 ソファーにすわって、傍らにバッグを置く。
 コートは玄関にあるコートハンガーの前で既に脱いでいた。
「だからバーに通うんだ」
 そう呟いて部屋を見渡している。
 キッチンと居間は繋がっていた。
 私は時々そちらに目を向けながら、コーヒーの準備をした。
 ミル、サーバー、ドリッパー、ペーパーフィルター、ポット、マグカップ。
 挽いた粉をメジャースプーンで量る。
「この部屋、自分の?」
「いや。借りてる」
「高そうね。駅から近いし、広いもの」
「安いよ」
「収入と比較すればってこと?」
「いいや。それほど新しい建物じゃないし、この部屋は特に安いんだ」
「どうして?」
「問題のある物件だから」
 女は一瞬の間を置いて、私の方を向くと、慎重にソファーから立ち上がった。
「どういうこと?」
「一家心中のあった部屋でね。借り手が付かなくて、オーナーが困っていた」
 口元に手をあてて、私の傍まで歩いてきた。
「冗談なんでしょ?」
 私は首を振る。
 下らない嘘をついて女を怖がらせる趣味は、あいにく私にはなかった。
 女は瞬きを繰り返した後、私の腰にそっと手を回した。
「怖くないの?」
「今のところ、幽霊は出てないよ」
 女は少し睨んで、溜め息交じりに下を向く。
 テーブルの上では、そろそろコーヒーの抽出が終わろうとしていた。
「いい香り」
 気を取り直すように女が言った。
 湯が落ちてしまう前に、ドリッパーをマグカップの上に移動させた。
 揃いのコーヒーカップなんてものはないが、柄も大きさも違うやつが二十脚ほどはあった。
 その中から女は小花柄のカップを選んだ。
「名前を聞いてもいいか」
「桜。あなたは?」
「井沢忠彦」
「井沢さんは、コーヒーが好きだったのね」
 桜は微笑んだ。
 あの、本心からではない微笑だった。


 桜が睡眠薬を飲んだとは、少しも気付かなかった。
 眠そうにしているとは思ったが、トイレから出てきて、食卓に着いたまま眠っている彼女を見た時も、まさか薬を飲んだとは思いつかなかった。
 ソファーか寝室に移動させようと声をかけて、やっと様子がおかしいことに気付いた。
 バッグを見ると、液体と粉と錠剤の睡眠薬のそれぞれの容器が入っていた。
 桜は苦しがってはいなかった。
 おそらく多量に摂取した訳ではなく、ただ普通に、睡眠薬を飲んだだけだ。
 朝起きると、隣に眠らせておいた桜はいなかった。



 その男が単独で行動することはあまりないようだ。
 罪を犯しては身代わりに懲役を肩代わりしてもらい、自身の犯罪歴といえば路駐くらいのものらしい。
 太っていて、頭髪は短く、いつもセンスの悪いスーツを着ている。
 見た目に似合わずスキーが趣味で、季節が来るとよく出かけた。
 海外にも頻繁に行っているようだが、もちろん職業柄、スキーだけをしに行く訳じゃないだろう。



 久し振りに夢を見た。
 多分、桜のせいだ。
 起きた時、夢を覚えていることなどほとんどなかったのに、桜が消えてからの三日間は覚えていた。
 しかも今日見た夢は、はっきりと思い出せる。
 田原の顔など覚えてはいなかった。
 ただ弁護士バッチが目に付いたので、そこから少しずつ記憶を辿っていったのだ。
 クソみたいな弁護士は、「やあ、思い出してくれたかい」と爽やかに笑った。
 実はね、あの男が、近々こちらに帰ってくるんだ。
 そう、彼だよ。
 どうして君にこんな話をするのかって?
 そうだな。
 ところで、大学生活は楽しいかい?
 まあ、聞きなさい。
 私だってね、あの男のことは嫌いなんだ。
 憎んでいると言った方が、いいだろうね。
 田原の顔は急に融けだした。
 そしてマンハッタンに沈む、マラスキーノ・チェリーに変化した。


 桜が部屋の前にいた。
 手にはケーキ屋の小さな袋をぶら提げている。
「泊めてもらおうと思って。駄目?」
「駄目じゃないが」
 ドアを開けて中に入れてやる。
 桜が先に靴を脱ぐ。
「勝手に薬を飲んで、勝手に眠って、勝手に出て行くんだったら、御免だな」
「あら、嫌ね。そんな女がいるの?変なの」
 他人事のように笑って奥へ進んだ。

 コーヒーを入れて、ケーキを食べた。
「どうして泊めてもらわないといけないんだ」
「家がないの」
「嘘をつけ」
「嘘じゃないわ。私、今まで男に嘘をついたことなんか、一度だってないわ」
 面白い冗談だ。
「信じてないのね?」
「信じないね」
「でも本当だもの。ホテルを転々としてるのよ。でもそれじゃ、時々お金がなくなっちゃうのよ」
「金がなくなると、男のところに泊まるのか」
「だって、野宿なんて嫌だもん」
「部屋を借りればいいだろう」
「手続きが面倒じゃない。お金だけで済むならいいけど、そうじゃないでしょう。保証人とか、印鑑証明とか、損害保険とか、バカみたいに煩わしいもの」
「それでも、ホテル住まいよりは安上がりだ」
「まあ、そりゃそうだけど」
 桜は拗ねたように頬杖をついた。
 しばらく私の顔を見ていたが、見飽きたのか、椅子から立つと窓辺に歩く。
 薄紫色のワンピースは、ユラユラと揺れる。
「秋ならまだしも、冬はきついわよ、野宿じゃ」
 カーテンを開けて外を見ながら、ぼんやりとした声を出した。
「家がないなら、荷物はどうしてるんだ。あんたは今まで、同じ服を着て現われたことはないよ」
 桜は振り向く。
 今度ははっきりした声を出した。
「あら、そうだった?」
「ああ」
「スーツケース一個分の荷物くらいはあるのよ。ホテルにいる時はホテルに置いてるし、誰かの家にいる時は誰かの家に置いてるわ」
「ここにはない」
「泊めてくれるか判らなかったから、コインロッカーに預けてきちゃった。明日の朝取りに行くわね」
「取りに行って、ここに戻ってくるのか」
「あら、駄目なの?一日しか泊めてくれないんだったら、また他を探すわ」
「他の男の家をか」
「そうね。女の友達はいないから、仕方ないわね」
「いいよ。好きなだけ泊めてやる」
 桜はにっと笑った。
 私がそう言うことは判っていたという笑い方だ。
 ケーキ皿を洗いながら私は聞いた。
「仕事は?」
「何してるように見える?」
 再びぼんやりした声。
 振り向くと、また外を眺めている。
「住所不定のホステスか、投資で儲けてしばらく遊んでいる最中か、そうでないなら、相続した遺産で遊んでいるか」
「優雅ね」
 鼻で笑うと、私の傍に駆けてきた。
 軽やかな足音だ。
 下の階からも苦情は来ないだろう。
 後ろから私に抱きつく。
 私はコーヒーカップを洗う。
「愛人なんてどう?」
「なるほど。でも、愛人には大抵、家がある」
「そっか」
 つまらなそうな声。
 そして、私は背中の端の方を噛みつかれた。
「痛いよ」
「実は吸血鬼なのよ」
「嘘だね」
「嘘じゃないわよ」
 少女のような可愛らしい口調で言った。
 私は食器を水切りマットに置いていく。
 振り向くと、桜は首を傾げてこちらを見上げた。
 私は自分が騙されていることを実感した。
 あどけない表情を、桜は故意に作っている。
 女たちが無意識のうちに作る、悪意のない一般的な作られた表情ではない。
 それは確かに、こちらを騙そうという明確な意図のもとに作られたあどけなさだ。
 それだから、私の心を完璧に捉え、可愛いと感じさせていた。
 そして、切なくなった。
 どうして桜が私を騙さなければならないのか。
 私だけでなく、おそらく他にも、多くの男が騙されてきただろう。
 それを、どうして彼女がしなければならなかったのか。

 男か、男の持っている何かを手に入れようとして彼女は騙すのだろう。
 そのターゲットになれば、私は彼女に何かを奪われるのだろう。
 それは、楽しいことに思えた。
 奪ってみせて欲しかった。
 何もかも全てを奪って欲しかった。
 だから私は彼女に騙されたかったのだ。

 が、実際にそんな状況になると、切なさの方が勝ってしまっていた。
「風呂の時間だ。先に入りたいならそれでもいいが、着替えはどうする。Tシャツくらいしかないぞ」
「私」
 桜は不思議そうに私を見ていた。
「あなたのこと気に入ったわ」
「そりゃあいい」
「こんなに近くにいるのに、キスも迫らない男なんか、始めて見たわ」
「ああ、忘れてた」
「嘘よ」
「嘘じゃない」
 迫ると、桜は笑って私の顎を押しのけた。
「駄目よ。もう遅いわ」
「宿代はどうなる」
「ケーキ食べたじゃない。吐き出しても駄目なんだからね」
 笑いながら桜は身をかわし、くるりと回った。
 スカートはひらりと揺れ、バスルームの方へ駆けていった。



 事故はそれほど大きくは取り上げられなかった。
 政界での大きなニュースがあったためだ。
 上級者向けコースの脇にある立ち入り禁止区域に無断で入り込んだ男が、体中の骨を折って死んだ。
 スノーボードが趣味だというニュースキャスターは、上級者ほど難しいコースを滑りたくなる気持ちは判るが危険だから無茶はしないようにと、神妙な顔でカメラに向かって訴えた。



 私はコインロッカーから現金を取り出し、家に帰った。
 桜はいなかったが、運び込まれたスーツケースは寝室にあった。
 特に心配はしなかったが、夜になっても帰ってこなかった。
 朝、朝食を作っていると帰ってきた。
 土産に焼きたての食パンを買ってきていた。
 ただ、自分は食べずに眠ってしまった。
 一時間ほどして見に行くと、やはり眠っている。
 少し気になって荷物を調べた。
 両手で抱えるほど睡眠薬が出てきた。
 種類は様々だ。
 帰宅時に持っていたバッグの中の財布には、十三万あまり入っていた。
 ホテルに泊まる金がないというのが本当だったら、この金は何処から湧いて出てきたのだろう。
 カード類は一枚もなかった。
 部屋を借りるのが面倒だと言う女だ。
 それが本当なら、カードを作るのも面倒に決まっている。

 荷物を片付けて桜の顔を見た。
 すやすやと眠っていた。
 副作用で苦しむ気配もない。
 額にかかった髪をよけて、頬に手をあてた。
 異常に熱を持っている訳でも、体温が低下している訳でもなく、普通に温かかった。
 桜の肌はスルスルとした感触で心地良かった。
 唇を触ると、ふうっと寝息のような音を立てて首を斜めに傾けた。
 ちょうどこちらを向いたので、口付けをした。
 薬を飲んでいるなら起きないと思ったのだが、桜は目を覚ました。
 寝起きで、すぐに驚くこともできない様子だ。
 眩しそうに私を見ていた。
「どうしたの、井沢さん」
「昨日、寝てないのか」
「ああ、うん」
 目を閉じ、開ける。
「遠出してたの。JRで帰ってきたのよ。列車の中で眠ったけど、疲れちゃって、眠くて」
「じゃあ、もうしばらく寝てたらいい」
「ううん、起きるわ」
 桜は目をこすって、体を動かした。
「無理しなくていい。様子を見に来ただけだ。起こして悪かったな」
「ううん、起きる。だって」
 桜は上体を起こした。
「無防備に寝てたら、何されるか判らないもの」
「寝てる女には何もしないよ」
「嘘つき」
 笑って、桜は私にキスをした。
 私の後ろ頭を抱えるようにしてしばらく続けたが、思い出したように体を離した。
「お風呂入らなきゃ」
 そして寝室を出て行った。



 未成年ということを鑑みれば、無期懲役にもならないだろう。私は精神鑑定の結果を尊重させるつもりだ。支援者は少なからずいる。彼が社会復帰するのはそう遠い先のことじゃない。そんな目で見ないでくれ。私の中にも葛藤はあるさ。しかし、いいかい?彼が犯人であることは間違いない事実だ。それは判っている。許されざる罪だよ、これは。懲役刑を受けたとしても、それで償えるようなものではない。彼が社会に出てくれば同じような罪を繰り返す可能性は十分にある。その恐ろしさは私が一番判っているさ。私は彼と幾度となく会い、話をした。反吐が出るほど、卑しい男だ。



 二人でバーに行くと、おやじは眉だけを少し上に動かした。
「なるほど」
 と、言って、私にバーボンを注いでくれる。
「常連客が疎遠になると、やっぱり淋しいものかな」
「当然でしょう。こっちは、生活がかかってますから」
 私は鼻で笑う。
 桜が言う。
「もうツケはないの?」
 私とおやじは顔を見合わせた。
 私は言った。
「ツケでは飲まない。一度甘えると癖になる。まあ、一度そんな事があったけどね」
「やむにやまれぬ事情があって」
 おやじが補足してくれた。
「え、だってあの時」
 桜は少し考え、笑い出した。
「やだ、嘘つきね、二人とも」
 おやじは他人にも判るくらい普通に笑って、桜の注文を聞いた。


 桜は時々一人で出かけた。
 それでも、朝帰るということはなくなった。
 遅くても午前一時には帰ってくる。
 今のところ、家を出て行く気はないようだ。
 睡眠薬と金は、時々減っては、時々増えている。


 複合商業ビルに出かけた。
 洋菓子店、宝飾店、服飾店、書店、楽器店、レコード屋、ペットショップ、雑貨屋、自動車の展示場、市の情報プラザ、スポーツクラブ、カルチャースクール、レストランなどが十四階建てのビルに収まっている。
 桜は展示された車に乗り込み、カタログに載ったオプションについてスタッフにあれこれ質問していたが、後で聞けばやはり免許は持っていなかった。
 ペットショップでは半分のスペースを使ってペット用の食品と雑貨類が販売されていた。
 もう半分に、げっ歯類を中心とした動物が、ゲージに入れられ並んでいる。
 若い女の客たちは、暇つぶしにネズミ達を可愛がっていた。
 桜はそれらを無視して、一番奥にある水槽に近付いていった。
 そこには客が少なかった。
 熱帯魚がほとんどだったが、隅の水槽には金魚も泳いでいた。
 桜は水槽のガラスに指先で触れ、金魚の視界に指を入れようとする。
「出目金って、視力が弱いんだって。他の金魚もそうなのかな」
「さあ、どうかな」
「金魚すくいしたことある?」
 私は一瞬躊躇した。
 ある意味、思いがけない質問だった。
「そりゃ、あるよ。子供の頃は」
「そう。私はないの。可哀相で。物心つく前ならよかったんだろうけど、初めてお祭りに行って、金魚すくいを目にしたのが中学の時よ」
「思春期だな」
「ええ、そうね。敏感になってたんでしょうね。けど、金魚だけじゃなかったのよ。亀とか、ヒヨコとか。子供達がいろんな物を釣って喜んでた。酷いと思わない?神社でのお祭りなのに。あれって、今もやってるのかしら。きっと問題になって、廃止になったかもしれないわね」
「どうかな」
 私は首を傾げた。


 赤と白が混じってる、その金魚がいいの。それじゃなくって、あっち。だって、私がやったらすぐ破れるもん。ねえ、それ。違う。もっとヒラヒラしてる方。そうそう、それ。ヒレが大きくて綺麗なんだもん。ね、一匹でもいいから、それ取って。あ、破れた!


 金魚に見入っていて、桜に見つめられているのに気付くのか遅かった。
「聞いてる?」
「聞いてなかった」
「だから、動物の売り買いって嫌い。流行りだからって手を出す人は大勢いるのよ。世間で持てはやされてるペットを飼う人ほど、飽きるのも早いのね。だってその人、いつも流行りの犬を散歩させてるんだから。ブリーダーじゃないわよ。前飼ってた犬がどうなったのか、判ったものじゃないわ。知ってる?全国でも最悪のレベルなのよ、この街」
「何が」
「捕獲されて処分される犬の数」
「そうか」
「酷いでしょ?」
「そうだな」
 桜は水槽に向き直った。
 ガラスに指を這わせる。
「金魚はフナなの。知ってた?」
「いや。金魚は金魚じゃないのか」
「地味なフナの中で、時々生まれる珍しいやつの生き残り。人間が気に入ったやつよ。人間が気に入ったやつだけ、大事にされるの。大事に、生かされるの」
「でも、確かに綺麗だ。色もヒレも派手で」
「そうね。綺麗ね。でも、人間のために生きてる訳じゃないわ」
 桜の話しが本当なのか、私には判らなかった。

 店を出て、レストランのフロアに行くためにエレベーターに乗った。
 エレベーターのガラスの壁は、建物中央の巨大な吹き抜けの空間に面していた。
 桜はガラス越しにそちらを眺めていた。
 小さなガラスの箱で上昇しながら、私は水槽の中にいる気分になった。
 そして、桜のワンピースが、金魚の美しいヒレに見えた。



 これを監獄で守ってやる必要はない。ああ。君が言いたいことは判っている。でもね、弁護士としての立場と、私個人の正義は、必ずしも一致してはいない。私はその事についてずっと苦しんできた。あの時、やっと決心が付いたんだ。君の家族の、あの事件でね。頼む。引き受けてくれないか。素直に反省し改心するような人間じゃない。未だに平気な顔で被害者を罵っている。善意の欠片も持っちゃいない人間なんだよ。悪は誰かが退治しなければ無くなりはしない。この仕事を通して、それがよく判った。君になら判るだろう?あの時は上手く行ったじゃないか。今度も、きっと上手く行く。



 カフェに時々見かける男が座っていた。
 隣に座った。
 細いテーブルの上に、雑に丸められた店の紙ナフキンがあった。
 男はそれには触らずに、破れた砂糖の袋と、クリームの空き容器をソーサーの隅に乗せ、それを持って立ち上がろうとした。
 私は男が残したゴミを処理すればよかった。
 しかし、男は一度浮かした尻を、椅子に戻した。
 視界の端で、男がこちらを見ているのが判った。
 私は向かいの席との仕切り板を見つめ続けた。
 半透明のアクリル板で、メニューを書いた小さな紙が張ってある。
「あなた、どういう人なんですか?」
 無視しても、立ち去る気配はなかった。
 仕方なく顔を向けた。
 まだ二十代に見える、スーツの似合わない若造だ。
 囁く声は、店に流れる音楽に上手く紛れていた。
「何のことだ」
「いったい、どういう仕事をしてるんです」
「ただの情報屋だ」
「そう、聞いてはいますけど」
「無駄話をしてていいのか」
「でも、こういう形の接触は、腑に落ちないんです。田原さんはあなたに何を調べさせているんですか?」
「本人に聞け」
「はぐらかされるだけです。普通の調査なら僕がやればいい事でしょう」
「忙しいんだろう」
「忙しいですよ。でも」
「利口じゃないな。さっさと行けよ」
「気になるんです」
「そんなことだから試験に受からないんじゃないのか」
 男の服を見てそう言うと、男ははっとして自分の上着の襟を掴まえた。
 そして照れ隠しに私を睨んだ。
「余計なお世話です」
「まあ、焦ることはないか。あんたは賢そうな顔をしてる。すぐにも心優しい弁護士先生の仲間入りだ」
「……田原さんをバカにしてるんですか?」
「まさか。信用してる」
「僕もです。田原さんは尊敬できる立派な人です。でも、だから心配なんです。こんな回りくどい手を使って、何を調べているのか」
「気にし過ぎると人生ろくなことがない。所詮ろくな世界じゃないんだ。気にしないことだ」
 紙くずをポケットに突っ込むと、私は先に店を出た。
 コーヒーカップの返却くらい、未来の正義漢がやってくれるだろう。



 今日買ってきたというパジャマ代わりの白いワンピースは、ガーゼ素材で触り心地がよかった。
 しかし、まだ冬だった。
 袖なしの肩が寒そうに感じる。
 エアコンの温度を上げるように言うと、桜は嫌だと言って、その上電源を切ってしまった。
「おれまで寒くなる」
「仕方ないわね。温めてあげるわよ」
 二人でベッドに入ると、桜は私の方を向いて、私の腕を抱きしめた。
「温かい?」
「右腕だけは」
 桜はクスクスと笑った。
「私、発見したのよ」
「何を」
「右利きの男の左側に寝るのは危ないの。井沢さんは右利きでしょう」
「それで?」
「だからこうやって、右側に寝て、右腕の力を防いでるのよ」
「ふうん。この状況で右も左もない気がするけどな」
「不器用な左手しか残ってないんだもの。少し困るでしょう」
「少しはね」
 私は桜の方を向き、桜の右肩を左手で掴まえた。
「でも、左手も動くよ」
「そっか」
「右手も、既に自由になったし」
「本当ね」
 仰向けの桜にキスをした。
 別に桜は嫌がらなかった。
 それだけなら、特別なことでも特別な夜でもない。
 ただ、今日は少し、いつもと違うと感じた。

 桜の表情に嘘が見られる。
 久し振りに嘘の優しさで微笑んでいる。
 垣間見られる視線の熱っぽさも嘘だろうか?
 今まで宿賃代わりに桜を抱いたことはなかったし、要求もしなかった。
 欲求がない訳ではないが、桜が恋人のように私と同棲するとは思えなかった。
 もし寝れば、翌朝には姿を消しているだろう。
 おそらく確実に。
 キスをしたり、気紛れに腰を抱き寄せたり、それはなかなか悪くない。
 良い舌触りと良い肌触りだ。
 桜自身とその感触を明日手放すくらいなら、性欲を無視した方がましだ。
 そっちの方は一人でも何とかなる。
 面倒臭がりな桜を煩わさなくてもいい。
 それに。
 桜がふいに手を伸ばして、私の顎を触った。
 髭は剃ったばかりだ。
 それに、金魚の話をして以来、時々桜を子供のように感じる時がある。
 ロリコン以外の男は、女の子を清潔に保ちたいと思うものだ。
 自分の娘や、妹のように。
 赤の他人の女の桜が、私に微笑む。
 そして次に真面目な表情になる。
 真面目に私を待っている、表情になる。
 私は自分が忌々しくなった。
 先ほどから眠くて仕方がない。
 桜の耳の下にキスをした。
 桜は私がキスしやすいように首を伸ばしてくれた。
 睡魔がガンガンと、私の後頭部を殴った。



 やってもやらなくても結局桜は姿を消した訳だが、後悔は感じなかった。
 やっていればおそらく、絶望的な気分に陥っただろう。
 もう終わりだと思ったに違いない。
 しかし、朝目覚めて部屋の何処にも桜がいないと判った時、まだ終わっていないと感じた。
 そのうちまた、桜は姿を現すだろう。
 台所のゴミ箱から睡眠薬の空き箱を見つけ、ベッドサイドの棚の引き出しから百万が消えているのを見つけた。
 なかなかの手並みだ。
 彼女は私から性欲を奪い、金を奪った。
 しかし、彼女はまだ甘い。
 まだ奪えるものはある。
 本当は根こそぎ奪わなければならなかったのだ。
 私にはまだ残っている。
 桜にはそれが出来るだろうか。


 アルコールだけでなく薬物の依存も含めて、依存症患者を専門に治療する病院は多くなかった。
 調べると市内に一つだけだ。
 少し辺鄙なその土地まで自分の車で行き、血液検査をしてもらいながら私は言った。
「睡眠薬です」
「ふうん」
 医者は面倒臭そうに鼻で返事をした。
 たかが血液検査ぐらいでうちに来ないでほしいという態度を、院長の名札を付けた男は隠そうとはしなかった。
 不運にもこの時、暇なのが院長だけだったらしい。
 近所の診療所でやってもらえよ、という意味に聞こえる「心配要らないでしょう」というセリフを彼は口から出した。
「飲まされたっていうのは穏やかじゃないが、あなたは穏やかに眠って穏やかに目が覚めたんでしょう。ならいいですよ。目の色も顔色もいいし、呼吸も口臭も正常。どう見ても健康そうだ」
「それは良かった」
「これが癖になりそうだと言うなら問題ですが」
「その時はお願いします」
 医者に睨まれる。
 私は立ち上がり、結果はすぐに判るのか聞こうとした。
 アナウンスが鳴り、院長に呼び出しがかかる。
 医者は慌てて言った。
「結果は郵送しますから、今日はこれでいいですよ、じゃ」
「あの」
「何です?」
 苛々とした声。
「私に薬を飲ませたのは女で、桜というんですが、そんな名の患者に心当たりはないですか」
「名字は?」
「判りません。桜が名字かも」
 医者は呆れながらも机の上を手早く片付けた。
 私の血の入った容器も、ビニール袋に入れられ、紙袋に突っ込まれた。
「探せばいるでしょうけどね。あなた、ここをどれだけの人間が利用しているか知ってますか」
「美人なんで、利用していれば記憶に残っているかと」
「美人ね……。患者のプライバシーにかかわることは話せないし、記憶にあれば知らないと言うところだが、あいにく記憶にないな。大抵ここに来る女は、酷い顔をしてる。元が美人だったとしてもね」
「じゃあ、判りませんね」
「偽名じゃないのかい、それ」
 医者は皮肉っぽくそう言ったが、邪魔者扱いする態度は消えていた。
「まあ、酒とドラッグと美人には気を付けるんだね。男の基本だよ」
「そうですね」
 看護師が診察室に入ってきた。「院長」と呼びかける。
 医者は「ああ」と短く答えた。
 医者と私は一緒に診察室の外に出た。
「あの」
「何だ?」
 医者の苛々は解除されていた。
 その代わり苦笑いだ。
「彼女は睡眠薬を大量に持っていました。そう簡単に手に入るものですか」
 私が桜の持ち物の量を両手で示しながら言うと、医者は表情を曇らせた。
 そして一拍置いて言った。
「入れようと思えば、簡単に手に入るよ。合法にも、違法にも」
 医者は本来の仕事をするために、白い廊下を歩いていった。


 初めはそうとは気付かなかった。
 医療センター前のバス停のベンチに、小柄の男が一人座っていた。
 何処かで見た男のような気がして、バーのおやじだと判るのに、十秒くらいかかった。
 妙に背中が小さく、丸く見えた。
 髪まで薄くなったように感じられた。



 タドコロ?誰です、それ。
 田所真哉。うちの事務所の者だよ。
 タドコロシンヤ。って、いうんですか。それで、それが。
 何かおかしな所はなかったかい?最近少し、様子が変なんだ。
 さあ。あんたの職員の健康状態やら精神状態やら、おれに判る訳ないでしょう。
 それはそうだが、以前、君のことについて色々と知りたがっていたんだ。最近は何も言わなくなったが。
 興味がなくなったんでしょう。
 それならいいが、ちょっと心配でね。
 わざわざ電話をかけてくるなんて、こっちが心配ですよ。
 ああ、すまない。で、何か心当たりはないかな?
 一度、声をかけられましたよ。
 えっ?
 あんたを心配して、気にしている風でした。気にするなと言っておきましたが。
 そうか。そんな事があったのか。
 そういう事があったら、報告した方がいいですか?それなら報告の仕方を考えてもらわないと。
 あ、ああ、そうだね。考えておこう。それに、田所君にはもう頼まない方がいいだろう。今度はまた違う人間に頼むよ。
 ええ、好きにして下さい。そろそろ切ります。長話はしない方がいいでしょう。
 ああ、ちょっと。
 何ですか。
 最近の書類を入れていた袋、どれかまだ手元にあったら、送ってくれないか?
 袋を、ですか。
 ああ。中身はちゃんと処分してくれてるね?
 ええ。
 袋はどうかな?まだあるかな?
 レコード屋のビニール袋なら、探せば出てくると思いますよ。明日がゴミ出し日なんでね。
 すまないが、それを私宛に送ってくれないか。差出人は書かないでくれよ。
 判りました。
 頼むよ。



 おやじの様子はいつもと変わらない。
 桜が一緒でないので、どうしたのかと尋ねてくる。
「とりあえず、行方不明」
「行方不明?」
「ああ」
 判ったような判らないような、曖昧におやじは頷いた。
 逃げられたと解釈したようだ。
 私はおやじに家族はいるのか聞こうとしたが、やめた。
 あの古ぼけたベンチにどういった理由で座っていたのか判らないが、知ったところでどうなる訳でもなかった。
 家族か親戚か友人か只の知り合いが入院しているのだろう。
 その中のどれであっても私には関係ない。
 もしかしたら、おやじ自身が治療に行っているのかも知れない。

 新しい客が入ってきた。
 狭い店内に一瞬冷たい外気が流れ込み、外を歩く若い笑い声が響く。
 そのどちらも、すぐに消える。
 女の雰囲気の欠片もない人影が、隣に座った。
 私はおやじに一杯分のバーボンの代金を払い、店を出た。


 田所を睨んだ。
「いい加減にしてくれ。人前で、お前らには会いたくないんだ」
「どうしてです?僕はその理由が知りたいんです」
「手に負えないな」
 駅裏の公園をぐるりと囲む植木は、冬場でも少々繁り過ぎだ。
 爽やかな木立を通り越して鬱蒼としている。
 夜になればちょっとした森だった。
 ホームレスのテントが上手い具合に歩道から目隠しされていた。
「調べましたよ」
「何を」
「色々です。僕なりに調べました。あなたの恋人のことも」
 私は足を止めた。
 歩道を塞き止められ、後ろを歩いていた数人が迷惑そうに私と田所を睨んで過ぎ去った。
「恋人だと?」
「あなたの部屋を出入りしていた女ですよ」
「おれの部屋だと?」
 私は思わず、田所の襟首を掴んだ。
「余計なことを」
「余計かどうかは、僕が決めます」
 田所はかすれた声を出し、私は手を放した。
「話を聞いてくれますか?」
「聞きたくない」
「そんな筈ないですよ。あなただって、あの女のことよく知らないんでしょう?知る筈ない。僕だって、かなり手こずったんだから」
「貴様、あの女に直接会ったのか?」
「知りたいですか?」
 田所は飲めない酒でも無理強いされているように、弱気な笑みを見せた。



 高村桜。二十七才。短大卒業後、環境保護と健康が謳い文句の洗剤メーカーである地元企業に就職。事業を興した先代を継ぎ、その息子が社長に就任した間もなくの頃に入社した高村桜は、半年ほどで経理課から秘書課に異動。半年間社長秘書を務めた後、一身上の都合により退職。その後、社長名義で借りたマンションに居住する。男には結婚十年になる妻があったが、自宅にはほとんど帰らず、高村桜とマンションに同居する状態が五年ほど続いた。
「破局の原因は、本妻の妊娠だったようです」
「ふうん」
「高村桜はいくらかの慰謝料をもらって、金額は不明ですが、マンションを出ています。それからは定職に就いた話もなく、引越先も不明です」
「それで」
「足取りが掴めなくなったのに、どうして彼女が彼女だと判明したか、判りますか?」
「さあ」
「一度だけ、事件を起こしてるんです。事件と言うか、事故で処理されていますけど。男と別れて一年後、二人は再会しています。男の方が彼女を探し出したようで、二人が乗っていた乗用車が海に落ちかけたんです。波止場から墜落したんですが、海には落ちずに消波ブロックにぶつかりました。二人とも軽傷を負っただけで済みました。夜釣りの目撃者の通報で警察が来て、取調べを受けています。これがなければ、彼女に辿り着かなかったかもしれません」
「そう」
「運転手の男が風邪薬を服用していたため眠気に襲われ、そのために運転を誤った上での事故ということで処理されています。でもこの時、男はうつ病を発症していたんです。睡眠薬と風邪薬を常用するようになっていました。男が心中を図ろうとしていたと警察は見ていたんですが、結局は事故ということに」
「へえ」
「僕はあなたの部屋から出てきた彼女の後を尾行したんです。何処に行ったと思いますか?」
「さあ」
「絵本の展覧会です。デパートであっていた、世界の絵本を集めた展示会。そこの受付に来客用の芳名帳があって、彼女はそれに『高村桜』と記入したんです。住所は書きませんでしたね。名前はそれで判りました。偽名だったら困りますけど、とりあえずその名で調べたんですよ。警察の世話になっていれば、調べるのはそれほど難しくありません。調べてみたら、本名で、その事故に行き当たったんです」
「それで、女をストーキングして、その成果をおれに披露して、で、どうする気だ」
「同じようにあなたの事も調べました。あなたのことも記録にあった。これは大々的な記録でした。しかも、田原さんが関わっていました。事務所に書類も残っていた」
「おれも尾行したのか」
「いいえ。あなたには気付かれそうな気がしたので、プロに、興信所に頼んだんです。あなたの自宅が何処かを調べるだけだったから、五万で済みました」
「お前はバカだな。他人まで巻き込んで」
「巻き込む?何にです?教えてください。いったい何を、あなたは依頼されているんですか」
「あいつに聞けと言っただろう」
「無駄だからこんなことをしてるんだ。僕は信じたいんです。田原先生を信じたいんです」
「なら、信じてればいい」
「僕をバカにしないで、ちゃんと答えてください。僕は、とても恐ろしい想像をしています。夜も寝付けないくらいなんです。あなた、知りたいでしょう?今の高村桜が、どんな女なのか。教えてあげます。その代わりに」
「桜はもう出て行った。興味はないよ」
 小汚いベンチから立ち上がった。
「知りたい筈だ。知りたいに決まってる」
 田所はやけに断定的に言った。
 私は振り返った。
「別に知りたかないよ」
「じゃあ教えてやるよ。あの女は昏睡強盗だ。男を誘っては薬を飲ませて、寝てる間に金を盗んでる。それしか能がない女さ」
「どうしてそんな事が判る」
「僕がやられたからに決まってるじゃないか」
 腹が立って、殴りそうになった。



 知らない男から暗号を遠回しに渡され、コインロッカーの戸を開く。
 今日は書類が入っている。
 本屋の紙袋に文庫本。
 それに挟まれた薄っぺらな紙と写真。
 名前。
 年齢。
 住所。
 連絡先。
 年月日。
 これは事件発生日ではなく、新聞に事件記事が載った日付だ。



 こないだ県立図書館に行ったと、おやじに話した。
 市立図書館ならすぐそこにあるのにと、おやじは少し不思議がった。
「県立の方が混んでないし、資料の整理がきちんとできてる。それに、いろいろと設備が整っていて便利だ」
「そうですか。なかなか知的な趣味ですね」
「どうだか。エロ本まで置いてあるんだ」
「そうなんですか?まあ、書籍文化の一部ということですかね」
 おやじはクスクスと笑った。
「車で行ったんだ。帰りに例の医療センターの近くを通った。通り道なんだ」
 おやじはグラスを拭く手を止めはしなかった。
 私はおやじの顔を見ていたが、おやじは私の顔を見なかった。
 例の医療センターのことは、大抵の人間が例の医療センターと呼ぶ。
「あんたを見かけたよ。車で一人だったし、好きな所まで乗せてってやろうと考えたけど、やめた」
「そうですか」
「声をかけて、人違いだったら恥ずかしいしね」
 マスターは曖昧に微笑んだだけだった。

 二杯目の途中で客が一人だけになった。
 曲が白人のジャズから黒人のジャズに代わった。
 おやじは店から出て行き、戻ってきた。
 バックバーからオールド・フォレスターを取る。
 グラスにそれを注ぐ。
 ボトルはカウンターに置いた。
 一口飲んで、口を開いた。
「人違いじゃありませんよ」
 おやじが酒を飲む姿を初めて見た。
「そうか」
 白のシャツに黒っぽいベストとタイ。
 豊かではないが、櫛を入れ整った髪。
 いつもおやじはシャンとしている。
 シャンとしたまま、二口目を飲む。
「割と大手の酒造会社に勤めていました。販売の方をやっていて、初めから独立するつもりで働いてたんです。だから妻も独立の時には応援してくれました。でも息子には話をしていなかったものだから、驚いたようでした。妻と二人で故意に隠してたんじゃないんですよ。そんな事しませんよ。ただ、そんな夢を語る機会がなかったんですね。私はそっちの方に驚きました。話していなかったなんて、一緒に生活しているのに」
 サービスですと言って、私のグラスに酒を注ぐ。
「この店を始めたのは、息子が中学に上がったばかりの頃のことです。初めは全て上手く行っているように思っていました。でも、私の独立が悪かったのか友人が悪かったのか、息子は卒業する頃にはすっかり不良少年です。でも、そんなのは大したことじゃなかったんだと思います。不良少年の大半は、歳を経る毎に普通の大人になっていくものでしょう。問題だったのは多分、妻と私が喧嘩をするようになった事なんです。息子が高校の時に離婚しました。妻があいつを引き取って、会社に復帰して。今も勤めてますよ。ああ、妻とは同じ会社に勤めていたんです。高校を卒業した時に二人に会いましたが、それ以降はほとんど連絡を取り合いませんでした。それが一昨年、妻から電話があって」
「息子が依存症になった」
「……ええ」
「何の?」
「酒です。今思えば、多分、学生時代からずっと続いていたんでしょう。それがとうとう、端から見てもアル中だって判るくらいに進行してしまった。入院するしかないくらいに」
「息子は酒を飲む。おやじは酒を売る」
「ええ。腹いせに、客をアルコール漬けにしようと、毎日頑張っているんです」
「怖いな」
 おやじは笑った。
「それなら、見舞いに行ってたんだ」
「ええ。でも、見舞いにならない日もある。観察室っていうのがありましてね、一度だけ見せてもらいました。あれは牢屋より酷かった。もちろん、本物の監獄なんか見たことありませんけどね。牢屋と言うより、動物の檻かな。職員が患者を観察するスペースと部屋が、銀色のパイプの柵で仕切ってあるんです。暴れて手におえない患者が一時的に入れられる部屋だそうで、危険回避の為にトイレの周囲に仕切りはありませんでした。穴があるだけで、水を流すレバーも部屋の外にあるんですよ。その都度職員が流してやる。あいつは緑色の床の上で、転がるみたいにして寝ていました。ちょうど寝てたんで会わせてもらえたんですが、やっぱり少し、いや、ショックでした。でも、あの病院は割と評判がいいんですよ。暴れる患者を縛ったりはしないそうです。職員さんは大変でしょうね」
「おれも気をつけないとな」
「あなたは大丈夫ですよ」
「判るのか?」
「ええ。毎晩来るようになった時は多少心配にもなりましたけど、あれはあの時だけのことだったようですからね」
「ふうん」
「あなたはこいつの味が好きで、美味しいから飲んでいるでしょう。それで一杯か二杯で満足して帰っていく。そういう人はそれほど心配はいらない。問題なのは、酒を薬代わりに飲む人間です」
「なるほどね」
 私は手を伸ばし、おやじの手からゆっくりとグラスを奪った。
 中身を自分のグラスに移して、グラスだけおやじに返す。
「もらうよ」
「そんな、飲みかけをお客さんには……」
「おれはこの店を気に入ってるんだ。あんたにアル中になられたら困るよ。なるのは客に任せておけばいい」
 おやじは少しぼんやりした表情を浮かべていたが、やがて微笑んだ。



 ヒラヒラ尾鰭の金魚が泳いでいた。
 私はフナの群れから、その一匹をすくい上げる。
 桜は驚いて私を見上げた。
 私に掴まえられている自分の左腕を見て、また私を見上げる。
 怯えたような表情で言った。
「痛いじゃない」
「悪かった」
 手を離して、それを桜の肩に持って行った。
 通行人の邪魔にならないように、フロアの隅に移動した。
 駅ビルでは建物のあちこちに大きなガラス張りの壁が採用されている。
 東側エスカレーター周りのスペースもそうだ。
 ガラス越しにはメインストリートが見下ろせ、街に乱立するビルが見渡せる。
 桜はそれを見た。
「あんたを見つけられて良かった。そこのグランドホテルにいるって聞いたんだ。電車を利用するかも知れないと思って、通る度に注意してた」
「警察に行くの?」
「行かないよ」
 桜は振り向いた。
「どうして?」
「面倒だ」
「でも、その為にあの男に調べさせたんでしょう」
 私は黙っていた。


 書店で本を物色している時に気付いたらしい。
 二、三度目が合って、店を出ると声をかけられた。
 名刺を渡され、井沢忠彦を知っているでしょうと聞かれる。
 依頼を受けてあなたを調べたが、自分はあの男のことが知りたい。
 だから話を聞かせてもらえませんか。
 あなたのことは、調査不能だったと報告しますから。

 桜がラジオのスイッチを入れた。
 CMが終わり、七時のニュースが流れる。
 局を替えようとした桜を止めた。
 聴きたいんだと言うと、桜は大人しく席に着いて、コーヒーを飲んだ。
「嘘だったんだ」
 昨日の夜起きた不慮の事故を、ラジオは放送していた。
「名刺に弁護士事務所って書いてあったし、それっぽかったから、何となく信じちゃった、あの男が言ってること」
「名刺は本物だ。今も持ってるか?」
「嫌な感じだったから細切れにして捨ててやったわ。伝言メモなんかを捨てるためにフロントのとこにあるのよ、シュレッダーが」
「そうか」
「井沢さんの職業とか聞かれたけど、私には判らないもの。どういう関係かも聞かれたけど、ただ居候してただけだって言ったら、信じてくれなかった。だから聞いたの。私が井沢さんに何をしたか知りたいかって。そしたら、知りたいって言ったのよ」
「それで」
「それで同じことをしてあげたの」
「そうか」
「お酒があれば意外と楽よ。味を誤魔化せるから。でもコーヒーは駄目ね。自分で豆を挽いてドリップするような男は特に駄目。香りも味もいつもと違うってすぐに気付いちゃうもの」
「そういう時はどうするんだ」
「食べ物の中に入れるしかないわね」
「なるほど。でも、よく今まで捕まらなかったな」
「私、そういう才能あるみたい」
 次のニュースに移った。
「大した仕事もしないで退社して、囲ってもらって、幸せだったけど、世間のことは何も知らなかった。そのうち彼の離婚が成立したら、普通の主婦になれるんだと思って生きてたわ。でもなれなくて、住む場所がなくなって、家にも帰れなくて、不動産屋に行ってみたけど、いろいろ面倒な質問されるし、うんざりして、しばらくホテルに泊まってたの。とりあえずお金はあったから。でも、使えば無くなるって事くらいは、私だって判ってたのよ。仕事を探したわ。面倒で不愉快な面接を何度も受けた。でも、簡単に就職なんかできないものね。何年も前に取った資格なんか役に立たなかったし、運転免許はないし。条件の悪いアルバイトなら幾らでもあったけど、それは嫌だったの。それまで凄く甘やかされてたんだもの。そんなの、気が狂いそうよ」
 天気予報が始まる。
 宿泊していたホテルに聞くと、月単位で前払いしてくれるなら料金を割り引くと説明された。
 桜はそうやって三ヶ月くらいの単位でホテルを転々と移動した。
 働かなくとも、そんな生活は二年くらいは続けられそうだった。
 そして実際、一年くらいそれを続けていた。



 電話がかかってきた。
 不用意で、落ち着きのない声だった。
「何が困ったんですか」
「指紋を調べたんだよ。もちろん民間企業に頼んだんだけどね」
「話を整理して喋ったらどうです。訳が判りませんよ」
「すまない、つまり、田所だ。君に送ってもらった袋から、田所の指紋が検出された。判るだろう?あいつは君にキーを渡す前に、ロッカーを開けたんだよ。それで中身を見たんだ。きっともう、勘付いている筈だ。やはり、あいつは調べていたんだよ」
 私は少し考えてから口を開いた。
「それで?それが、おれに何か関係あるんですか。それはそっちの問題でしょう」
「し、しかしね、君。これは君にとっても重大なことだ。もし田所が血迷って、このことを」
「弁護士先生。おれには関係ない」
「関係ないことはないだろう。一連のことは、君が」
「判ってないな、あんた。田所がどうしようと、田所の勝手だろう。切りますよ」
「待ちなさい。困ってるんだよ。どうしていいのか判らないんだ」
「それで、おれにどうして欲しくて電話したんだ」
 田原の押し黙った暗い気配が伝わってきた。
「どうして欲しいと言う訳じゃ、ないよ。ただ、私は、どうしていいのか判らなくて」
「あんた、頭良いんだろう。自分のことは自分で考えたらいい。犯罪者のことでなく、自分のことを考えるのも、偶にはいいんじゃないですか」
 返事をする気配もなかったが、私は返事を待たずに電話を切った。



 レスキュー隊のオレンジの制服って素敵。
 目を開けたらその人が心配そうに私を見てたわ。
 あんな状況じゃなかったら恋してたかもね。
 私、手を縛られてたから、警察の人は殺されるところだったんですよって私を説得するんだけど、でもそんな事できないわ。
 あの人には仕事も家族もあるのに、殺人未遂なんて訳にはいかないわよ。
 私は自分で手を縛る癖があるんですなんて、言うのは恥ずかしかったけどね。
 あの後で少し彼と話をしたの。
 戻ってきてくれって言ったって、戻れないでしょ。
 もう全てのことが変化していて、無理に戻したってその形は歪んでるに決まってる。
 それじゃ駄目なのよ。
 元には戻れない。
 あの人の薬を持って帰ったわ。
 それから彼がどうなったか知らないけど、何かあればニュースになるでしょう。
 一応、優良企業の社長だし。
 私は。
 私は、薬を見ながらぼんやりしてた。
 毎日、これ飲んじゃおうかなとか思ってた。
 就職なんて面倒臭い。
 世の中はつまんない。
 好きな人もいない。
 お金はそのうち無くなるって判ってる。
 声をかけてくる男は時々出てくるけど、それも面倒で鬱陶しい。
 けど、ホテルでいろいろ世話をしてくれてる男がいて、その人に食事に誘われた時は、ちょっと靡いちゃった。
 少し気に入ってたの。
 責任のある立場の男で、お金は持ってそうだったし、顔も良かったし、ホテルマンだけあって行動がスマートだった。
 何度か食事に行って、私が何を感じたか判る?
 奢ってもらうって楽だなって思ったのよ。
 一日デートすれば、一日分の生活費は彼が払ってくれる。
 そんな当たり前のことに、久し振りだったからかしら、感動しちゃった。
 でも初めてその男の部屋に行った時、自分がその男に少しも恋愛感情を持ってないことに気付いた。
 これはやっぱり駄目よね。
 薬はいつも持ってたから、試してみたわ。
 そしたら面白いみたい効いちゃって。
 置き手紙をおいて帰ったの。
 文面はね、多分こんな感じだった。
『素敵な夜になると思ってたのに、先に眠ってしまうなんてひどい人ね。さようなら』。
 帰りがけに、三万くらいなら気付かないだろうと思って、お財布から抜いちゃった。
 実際、気付かなかったみたい。
 ホテルで会った時、凄く申し訳なさそうな顔で謝ってきて。
 仕事で疲れてたんだとか、また食事に行こうとか。
 でも、丁重にお断りしたわ。
 ホテルもチェックアウト。
 それでお終い。
 で、それが、始まり。
 だって、お金は必要なんだもの。
 真面目そうに見えて遊びなれてる男。
 そういう人なら大抵上手くいくわ。
 もちろん現金を持ち歩いてることも確認してね。
 これは駄目っていう男は、何となく判るの。
 ほら、あの時の男がそうよ。
 優しかったけど、嫉妬深いのが判ったし、そういうのは危ないわ。
 あの店に行ったのは、あなたがいるかも知れないと思ったからよ。
 いなくても何とかしたけど、いたら、別れるのを手伝ってくれそうだと思ったから。
 時々、無利息無催促でお金を貸してくれる男もいるのよ。
 そういうのは大抵、自分がお金持ちであることを自慢したいし誇りにも思ってるから、一度食事に付き合ってあげればそれでチャラにしてくれるわ。
 そうね、今まで気付いた男が全くいなかったのか、本当のところは判らないけど、とりあえず被害届けを出すような男はいなかったわね。


 桜は悲しそうな顔で私を見ていた。
「そんなこと、言わないでよ。冗談なら、悪趣味だわ」
 私は首を振った。
「あんたは、どうしてここを出て行った?出て行く必要はなかった筈だ。それも、あんな無用心なやり方で。睡眠薬があることはばれていた。万札の束が無くなっていれば誰だって気付く。そんなヘマをする訳がない。あんたは判った上でやったんだ。あんたはおれに、自分の正体をわざと見せた。あれだ。自責の念に駆られて、ってやつだ」
 桜は目を伏せる。
「あなたは警察には行かないと思ったわ。そう踏んでたのよ。自責の念だなんて」
「それなら、田所の話を聞いた時は驚いただろう」
「ええ」
「弁護士使って証拠を押さえて、確実にあんたを起訴してもらうのか?バカだな」
 私が鼻で笑うと、桜は顔を上げた。
「ねえ、どうして私に構うの?どうして、ここに戻って来たらいいなんて言うの?」
「惚れてるからに決まってる」
「私、良い人間じゃないわ」
「良い人間なんか、おれは見たことがないし、おれも違う。でも、あんたはまだマシな方だ。騙された男たちは、誰もあんたを恨んじゃないだろう。余計な金は使わずに取っときな。当面は生活費くらい、おれから奪い取っておけばいいんだ。その間に、普通の人間に戻ればいい」
「普通の人間に戻るの?私が」
「ああ。その方がいい。気が向いたら実家に帰ったり、親と喧嘩したり、仲直りしたり、親孝行したり、就職活動を再会させたりすればいい」
「反対を押し切って、ううん、猛反対を蹴り倒して家を出て、愛人なんかになった娘よ。仲直りなんか出来ないわ」
「出来るよ。家族ってそんなものだろう。腹立てたり、泣いたり、笑ったり、それを繰り返すものだろう。猛反対したって事は、それだけあんたに出て行って欲しくなかったんだ。真面目で優しくて可愛い娘が、他人の家庭を壊して愛人になるなんて、みんな夢にも思ってなかったんだろう。何年会ってない?親父はすっかり禿げてるかも知れないし、母親は胆石で入院してるかも知れない。兄貴は結核か何かだな。もしかしたら、明日にはみんな死んでるかも知れない」
「酷いのね。勝手に殺さないでよ。それに、お兄ちゃんなんかいないわ」
「そうか。まあ、何でもいいが、とにかく、そういうことだ」
 そうして、桜は部屋を出て行った。


 おやじの言葉を聞き返した。
「戻ってきた?」
「ええ」
「へえ」
 おやじは照れ隠しなのか、無表情のままだった。
「嬉しいなら笑えばいいのに」
 勧めてやっと微笑を浮かべる。
「別に私から戻って来いと言ったんじゃないですよ。戻ってもいいかと、向こうが聞くから」
「自慢しなくてもいいよ。奥さんは同情したんだ。男やもめに蛆が湧いて」
「嫌ですねえ。私は一人で何でも出来るんですよ。洗濯、掃除、料理。完璧だ」
「じゃあ、断わればいい」
「あ、いやあ、それはその」
「おめでとう」
「ありがとうございます。実は、息子ともやっと、まともに話せるようになって」
「そうか」
「あいつも、おめでとうと言っていました」
「そう」
「退院したら、しばらくは邪魔するぜ、なんて言って」
「よかった」
「ええ。上手く行けばいいなと、思っています」
 おやじは穏やかな表情で、グラスを磨いていた。



 歪んだ顔をドアスコープの中に見た。
 桜は消えたまま何日も姿を現さない。
 チャイムが鳴って、今、目の前に座っているのは、顔色は悪いが頭はいい筈の男だ。
「とうとう家まで来るなんて、本当にどうかしてる」
「判ってる。私は君の仇みたいなものだ。ここを出入りするなんて、世間から見ればおかしな事だ。判ってるよ」
 コーヒーは入れなかった。
 ただ、水だけはコップに入れてテーブルに置いた。
 私を同情させるほど、田原の顔色は悪かった。
 そのせいか、この間会った時よりも痩せて見えた。
 堂々としていて、自信に溢れていて、自分の言葉を理解しない者を蔑むような高慢さを顔に浮かべていて、颯爽としている。
 そんな要素は何一つ残っていないようだった。
 おまけに時々、手が震えている。
 正直、自分の部屋に招き入れたくなる人間ではなかった。
「軽率だとは判ってる。しかし、どうしていいのか、判らなくなったんだ」
「まだ判らないのか?あんたが判らないことは、おれだって判らないよ。あいにく司法試験を受けたくなるほどの頭は持ってないからな」
「何処にいても、落ち着けないんだ」
「何があったんだ」
 田原はコップをテーブルに置いて、祈るように両手を組んだ。
 そして、フウゥッと、呼吸の仕方を忘れたような奇妙な音を口から発して、見るからに震えだした両手を口に押し当てた。
 そして、搾り出すような声で言った。
「田所を、殺してしまった」
 私は少しして立ち上がった。
 自分にだけコーヒーを作り、飲みながら席に戻った。
「あいつは、私に迫ってきた。真っ赤な顔をして、喚き立てた。仕方なかったんだ。素直に認めて、全てを公表しろと言う。自首しろと言う。そんなこと出来るものか。私にはもっと、やらなければならない事がある。やるべき事がある。私に助けを求めて来る者を、私は助けなければならない」
 コーヒーがあまり美味しくなかった。
 ドリッパーを外すタイミングが遅かったのかもしれない。
 灰汁が混じってしまったようだ。
「私は正義を守りたかっただけじゃないか。悪い事などしていないのに、田所はそれを理解しなかった。やらなければならない事だったんだ。それなのに、何故判らない?私の苦悩を、なぜ理解しようとしない?矢面に立たされ、批難され、それでも私は戦ってきたんだ。なぜ田所は、それを理解してくれなかったんだ。将来有望な若者だったのに、どうして」
「田所は何処にいるんだ」
 何かを思い出したのか、唾を飲み込んで、組んだ指の筋が浮き上がった。
「ダムに、運んだ」
「ダムに、捨てたんだろう」
 一瞬顔を上げ、落ち窪んだように見える目で私を睨む。
 だが、おそらく私は間違ったことは言っていない。
「他に思いつかなかったんだ。とにかく、とにかく何とかしなければと思って、私は」
「車で運んだのか」
「そうだ」
「自分の?」
「そうだ」
「ダムの中に、水の中に沈んだのか。全身が」
「沈んだ」
「浮いてくるよ。腐ればな」
「ゥ、ゥ、浮かないようにはしたつもりだ」
「へえ」
「私なりに、気を付けたつもりだ」
「現場は事務所か」
「そうだ」
「殴ったのか」
「ああ」
「衝動的な犯行の場合、撲殺になるのは必然だな。想像できるよ。血が飛び散ってるな。天井にも」
「拭いた」
「それはそれは」
「自分なりに、気を付けたんだよ。気付いたことは全てしたつもりだ。血痕も凶器も、私に出来ることは全てしたつもりだ」
「現場も、移動経路も、車中も」
「そうだ」
「冷静さを欠いていれば、何処かにミスは出てくる。自分の服、自分の靴の裏、自分の体」
「やったんだ。出来る事はやった。思いつく事はやったんだ」
 田原は小刻みに動く頭を抱え、何度も同じ言葉を繰り返した。
「それじゃ、割に冷静だったんだな。心配いらないじゃないか。後は田所自身が証拠を持っていないかだ」
「何も持ってない筈だ。やったんだ。出来ることは全部」
 田原はぶつぶつと呟き、時々水を飲んだ。
 チャイムが鳴った。
 ドアを開けると、スーツケースを携えた桜が悪びれない様子で立っていた。
「やっぱり悪い女だ。おれを翻弄して楽しんでる」
「人聞きが悪いわ。ホテルの契約が今日までだったの。前払いしてたのよ?勿体無いじゃない」
 桜は笑った。
 玄関に脱ぎ捨てられた焦げ茶色の革靴に目を落とす。
「お客さん?」
「ああ。すまないが寝室で待っててくれるか」
「ええ」
 私が部屋に戻っても、田原の姿勢は変わっていなかった。
「なら完璧だ。落ち着いたら帰ってくれませんか」
 田原が顔を上げる。
「私はどうしたら……」
「どうもしなくていいだろう、完璧なら。客が来たんだ。帰ってくれ」
 田原は一つ深い呼吸をすると、震える体に力を入れるようにして立ち上がった。
「あんたは落ち着くためにここに来たんだ。もう十分落ち着いただろう。心配いらない。おれにとってあんたは、仇みたいなクソ弁護士だ。時々、親切ごかしにおれの様子を聞きにくるが、おれは鬱陶しいと思っている。そうでしょう?今までも、これからも、それは変わらない。おれだって命は惜しい。あんたのことは死にかかっていても喋りませんよ」
 田原は神経質な足取りで玄関に向かって歩いた。
 私は珍しい客を見送るために廊下を歩いた。
 田原は振り返る。
「しかし、私はどうしたら」
「判ったよ。教えてあげますよ。まず、シャンとしろ。その様子じゃ不審者だ」
 言葉が通じたようで、田原は心持ち背筋を伸ばした。
「それから、水不足にならないように祈るんですね。干上がるとよく発見されてる。ああいうのは、あんたみたいな人間の仕業だったんだな」
「君は」
「何です」
「怖く、ないのか?君は、怖くないのか?あんな、あんな事をして……」
「別に」
「君は、君は、恐ろしい男だ」
 しばらく、田原を見つめていた。
 喉に何かが込み上げてくるような、もぞもぞした感覚を覚えたが、それが言葉なのか、感情なのか、自分でもよく判らなかった。
 ただそれは、随分長いこと私の喉に留まり、その辺りの神経を震わせていた。
 そして私はそのうち、自然に微笑んだ。
 意識していないのに、自然と顔に笑みが浮かんだ。
「それだけ、ブリーダーが優秀だったんでしょう」
 田原は息を詰まらせ、それでも何とかヘタクソな呼吸をしながら背中を向け、靴を履いた。
「おじさん」
 不意に桜の声が聞こえた。
 田原が振り返る。
「可哀相に、酷い顔。そんな表情の人を昔見たことがあるわ。疲れてるのね」
 そう言って、桜は田原に青い紙の小箱を手渡した。
「ゆっくり眠った方がいいわ。疲れを取らなきゃ」
 田原は受け取った。
 ぎゅっと握りしめ、出て行った。
 私は桜を見た。
「あれが最後の一つだったの。ホテルの部屋に大量に捨ててたら、何だか問題になりそうじゃない。だから少しずつ捨ててたのよ。ちょうど良かったわ」



 しばらくたっても、ダムから死体が発見されたというニュースは流れてこない。



 桜はまだ、実家に帰る決心がつかないようだった。
「もう春になるんだ。あんたが帰れば、冗談の一つも言ってくれるんじゃないか」
「まさか」
 隣に寝ている桜が私の頬を指先で突いて、私が本を読むのを邪魔した。
「ねえ、井沢さん」
「なんだ」
「この前言ったわ。当面って。ずっとじゃ駄目なの?」
「おれはいいが」
 私は文庫本を枕元に置いて、桜のいる左側へ体を向けた。
「いいが?」
「あんたは逃げたくなるかも知れないだろう」
「どうして?」
「おれに飽きるとか、嫌いになるとか」
「飽きないわ。嫌いにもならないわ」
「ふうん」
「好きよ」
「それはまあ、いいけど」
「何よ、その返事。意味が判らない」
 私は五秒ほど桜を見つめていた。
「ここにどのくらいいられるか判らないんだ」
「契約のこと?」
「いいや。オーナーは、このビルの寿命まで住んでて欲しいと思ってるよ」
「じゃあ、いいじゃない」
「そうじゃなくて」
「私のこと、好きじゃないんだ。同情だけだったのかしら」
「違うよ」
「じゃあ、何?」
「あんたを手放したくはないよ。一生おれの傍にいろって、言えるものならとっくに言ってる」
「言えばいいじゃない」
 言う代わりにキスをした。
 しながら考えたが、言えそうになかった。



 バーのドアから男が二人飛び出してきた。
 どうしたのか聞きたかったが、興奮した様子で話しが出来る状態ではなかった。
 ただ「警察」と、早口に叫んだ。
 私は店の中に入った。
 おやじがスツールを持って立っていた。
 床に男が倒れていて、奥には桜が立ちすくんでいる。
 二人とも私の顔を見たが、口が少し開くだけで声は出なかった。
 私は倒れた男の傍に行った。
 この店で桜に逃げられた男だった。
 血は床を這い、桜の足元に忍びよろうとしていた。
「桜、避けろ。説明してくれ、何があった。ボヤッとしてる場合じゃないぞ。出てった客がすぐに通報する」
 桜はハッとして、二、三歩後ろに下がった。
 桜の腕からも血が流れていた。
「この男が、店に入ってきて、手にナイフを持ってたの。それで、私を刺そうとして。それを、山谷さんが止めてくれたの。山谷さんが、後ろから椅子で殴って、倒れて」
「男はなんか言っていたか」
「何だか、早口で、よく聞き取れなかったし、覚えてないわ」
「ナイフを手に持って入ってきたか。それとも店内で抜いたか」
「店に、入ってきて、私の顔を見てから、取り出したはず、内ポケットから」
 おやじを見た。
「後ろから殴ったんだな?」
「ああ。桜ちゃんが切られて、私は後ろから……」
「確かだな?この男はあんたの方へ振り返ろうとはしなかったか?」
「あ、ああ。そいつは桜ちゃんの方だけ向いていた。しかし、それが」
「客がいる前でやったのか?」
「いや、多分、他の客はすぐ逃げたから」
「多分じゃ困るんだ。はっきり思い出せ」
「しかし、そんなこと」
 桜が言った。
「出てったわ。お客さんたちは、この男が切りかかってきてすぐに逃げたわ。マスターが殴ったのはその後よ」
「確かだな」
「ええ」
 おやじに聞く。
「ここに防犯カメラはないな?」
「ああ、ない」
「どう殴った?」
「どうって」
「時間がないんだ。早くしてくれ」
 おやじは気持ちを切り替えるように首を振り、再現した。
 桜もそれを確認した。
「一回だけだな?」
「ああ」
「判った。桜、ハンカチ持ってるなら、自分の傷を押さえておけ」
 桜は今気付いたように自分の傷を見て、私の言う通りにした。
「店の掃除はあんたが自分でやってるのか」
「ああ」
「その時はこの椅子も動かすか」
「ああ」
「全部?」
「ああ、全部。毎日閉店後に、全部移動させて床を掃除する」
「その時、そういう風に椅子を持つか」
「え?」
「足で動かしたりは?」
「しないよ。こんな風に一脚一脚移動させる」
「じゃあ、その持ち方であんたの指紋が付いているのは不自然じゃない訳だな」
「指紋?」
 おやじからスツールを受け取り、おやじが再現した動きを私が再現して見せた。
 おやじも桜もそんな感じだったと言った。
 おやじは落ち着かない様子で言った。
「指紋って、いったい何の話なんだい」
「綺麗に拭き取った跡に、新しい私の指紋だけが着いているのは不自然だろう。このままでいい」
「何を言ってるんだ、あんたは」
「俺がやったことにする」
 おやじは絶句した。
 慌てて言葉を吐き出す。
「バ、バカな。そんな事、出来る訳が」
「やるんだ。いいか、すぐに警察と、救急隊もくるだろう。あんたは余計なことは言わなくていい。こんな状況なんだから、ぺらぺら喋る必要はない。ゆっくり自分を落ち着けながら、少しずつ喋ればいい。いいか、訳が判らなくなったら、とりあえず黙ってろ」
「駄目だ。それは駄目だ、井沢さん」
「いいんだ」
「駄目だ」
「この男は死んでる。まだ少し息があったとしても、多分すぐに死ぬ。あんたが殺人犯になるのは上手くない」
「そういう話じゃないだろう」
「聞き分けろ。そういう話なんだ」
「しかし」
「頼むよ」
「頼むって、あんた」
「助けると思って、承知してくれ」
 おやじは口にする言葉が思い付けないようで、口を開いたまま黙っていた。
「井沢さん」
 桜が呟いた。
「痛いか?大丈夫だ、それほど深い傷じゃない。何ヶ月かすれば跡も消えるだろう」
「井沢さん、どうして?」
「おれがこうしたいんだ」
「私」
「二、三日してからゆっくり考えたらいい。きっと、こうするのが一番だったって判るよ」
「どうしても?」
「どうしてもだ」
 桜の唇が震えていた。
「サイレンだ。いいか。俺がやったんだ。マスター、承知してくれ」
「……ああ」
 おやじが哀しい目でそう言うと、すぐに警察官が入ってきた。



 あっちからこっちへと、よく移動させられる。
 警察署から出てきて何処かへ行く時、報道陣が私に向かって光を浴びせた。
 その中に、敏腕弁護士が一人混じっていた。
 私は足を止めた。
「私に依頼しなさい。きっと力になる」
 警察官が迷惑そうに、前に出てきた田原に何かを言った。
 私は言った。

 あんただけは、お断りだ。

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