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386. 充分な聞き入れ体制と声を出す怖さ


ふと自分が小学生ぐらいの00年代のバンドの曲が聴きたくなった。

今の音楽と比べると録音の音質が少し悪かったりするのだが、何だかそれが落ちつく。

懐かしさというかあの時はこの音質が普通だったよな・・・と安心感が芽生えるというか。




ここ数日なんだか急にネガの波が来た。

ここ数年の対処も変わらずやっているのになぜか急に何のやる気も見いだせなくなった。


孤独感は凄まじいし、焦りは凄まじいし、他人との比較、劣等感は凄まじいし・・・


櫻坂9th発表もあまり心に引っ掛からない程かなりガクンと来ている。




自分の無口さ?というか自分の意見を人に言えないもどかしさ?不甲斐なさ?

みたいなのがなんだか爆発した。


自分は人と会話する上で、自分の話を相手がどれだけそのまま忠実に理解してくれているか?というのを、無意識にとても気にしていることが分かった。

自分の話したいことを話せるかよりも、相手がちゃんと聞き入れてくれいるかの方が重要なのだ。


だから正直はなからこの人は聞く体制が弱い人だなと思えば、ものの見事に会話する気力が0になる。

そしてその人と一緒にいると見事に無言になる。


こっちとしてはこれだけ丁寧に伝えようとしているのに、そっちが受け取る気が無いのであればこの労力はただの無駄だ。と無意識に脳にて判断が下る。


別に自分の訴えを言わなくてもいいやと。


逆にちゃんと聞いてくれるなと感じた人にはめちゃめちゃ話す。


だから丁度良い会話が無いというか。

0-100とは言わないまでも10-90になっている気はする。



なかなかこのちゃんと聞いてくれるなという人。
つまり波長が合うような人に出会う確率はかなり低い。


社会では多種多様の人と接するからこそ、合わない人との会話が増える。
そしてその分無気力モードに入ることが多い。


そうなってしまうことで自分のアピール不足にもなるし、自分の考えが伝わってないことが頻発するし、意見を聞かれないまま勝手に物事が進み気が進まない方向へ巻き込まれていく事態も起こる。


まさにそのジレンマが抑えきれない程炙り出てきてしまったんだろうな、と。




きっとこの原因は幼少期の抑圧感から来てるんだろうなと自分では思う。


子どもの頃は色んなものに対して好奇心もあり、積極的に親に質問したりする。


その受け答えを親が丁寧にしてくれていればきっと素直に「話す」という動作をするクセがつくのだろうけど、自分の場合は「そんなこと聞かれても分からない」とか「今忙しいから無理」とか否定的な回答が多かった。


そういった体験から親に聞いたって返ってこないし、なんか怒られるし言うのやめよう。ってなったのだと思う。

そこから何か思いついても喉でブレーキ掛けるってことを無意識にし始めたのかもしれない。


厄介なもんでそれがクセとして今に引き継がれてしまった。


「ちゃんと聞いてくれないなら話すのめんどくさい」

「自分で調べて一人で何とかしよう」


そんなクセが強くなった結果、自分の意見を人に伝える怖さに繋がってしまったのかな・・・と。




だから会話をしようとするんじゃなく、ただ自分が言葉を相手に投げつける。

ってな感覚のほうが今の自分には必要なのかもしれない。


とりあえず「声を出す」ってことが大事なのかもしれないと。


00年代の曲でよく出てくる歌詞の真の意味が少しわかった気がした。


声を出して、何か予測してなかった反応が返ってきた時のパワーってのは意外と強い。


カラっと直前までのモヤモヤが晴れたりする。


別にそれは会話ではなくただの反応、反射みたいなものだったりする。


自分以外の人間が近くにいるだけで緊張してしまう自分は、めちゃめちゃ他人の表情が気になる。

自分の感情なんか後回しでそっちの察知能力の方が先行される。


正直かなり今の自分にとっては難しいことで、上手くいかない度にドデカイ後悔の念にまた苛まれるんだろうけど
そういった空間で「会話をする」のではなく「自分の声を空間に放り投げる」ってのを実行していきたい。


会話をしようと思って声を出すのではなく

声が出たら偶然にも相手から声が返ってきた・・・


というような経験を積み重ねていきたい。



5月病は存在するんだな・・・


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