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なぜ『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』は驚異の神作品となったのか!?〜著者・森合正範さんインタビュー&解説レビュー〜

ジャスト日本です。



驚異の神作品『怪物に出会った日〜井上尚弥と闘うということ〜』


私は以前、次のようなnoteを書かせていただきました。

敗北の彼方に何がある〜『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ/森合正範』(講談社)〜

2023年に発売され4万部超えのベストセラーとなった東京新聞記者・森合正範さんの大ヒットボクシングノンフィクション本『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』があまりにも凄まじい作品だったので、その魅力をレビュー記事として書かせていただきました。

一言でいうなら個人的にはダントツで「2023年ナンバーワン作品」でした。

そして、今回はなんと著者である森合さんにインタビューさせていただきました。森合さんの経歴、『怪物に出会った日』各章の振り返り、今後についてお聞きしました。

『怪物に出会った日』について、著者である森合さんと共に振り返り、解説と深堀りをしていくかなり濃密な内容であり、『ボクシングマガジン』『ゴング格闘技』もビックリの著者による解説レビューインタビューです。


それでは早速、驚異の神作品となった『怪物に出会った日』の世界にあなたを誘います!


森合正範さんの著書『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』は多くの反響を呼んだボクシング・ノンフィクション本である(画像は著者・森合さんからご提供いただきました)

『怪物に出会った日〜井上尚弥と闘うということ〜』
 
内容紹介
「対戦相手の心情など知れる機会などなく、この一冊は自分が辿って来たキャリアを色濃くしてくれました」(2023年11月17日の井上尚弥選手のXより) 
 
「みんな、井上と闘うなら今しかない。来年、再来年になったらもっと化け物になる」
 
2013年4月、井上尚弥のプロ3戦目の相手を務めた佐野友樹はそう叫んだ。
それからわずか1年半、世界王座を計27度防衛し続けてきたアルゼンチンの英雄オマール・ナルバエスは、プロアマ通じて150戦目で初めてダウンを喫し2ラウンドで敗れた。「井上と私の間に大きな差を感じたんだよ……」。
2016年、井上戦を決意した元世界王者・河野公平の妻は「井上君だけはやめて!」と夫に懇願した。
WBSS決勝でフルラウンドの死闘の末に敗れたドネアは「次は勝てる」と言って臨んだ3年後の再戦で、2ラウンドKOされて散った。
バンタム級とスーパーバンタム級で2階級4団体統一を果たし、2024年5月6日に東京ドームでルイス・ネリ戦を控えた「モンスター」の歩みを、拳を交えたボクサーたちが自らの人生を振り返りながら語る。第34回ミズノスポーツライター賞最優秀賞に輝いたスポーツノンフィクション。
 
『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(森合 正範)|講談社BOOK倶楽部 (kodansha.co.jp)
 
【『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』著者】
森合正範(もりあい・まさのり)
東京新聞運動部記者。1972年、横浜市生まれ。学生時代、東京・後楽園ホールでアルバイトに励む。スポーツ新聞社を経て、2000年、中日新聞社に入社。東京中日スポーツでボクシング、ロンドン五輪を取材。中日スポーツで中日ドラゴンズ、東京新聞でリオデジャネイロ五輪、東京五輪を担当。現在は東京新聞運動部デスク。著書に『力石徹のモデルになった男 天才空手家・山崎照朝』(東京新聞出版)、『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』(講談社)。好きな作家は佐瀬稔。好きな1冊は沢木耕太郎の『敗れざる者たち』。追い込まれないとやらない性格を直したい。(2023年12月28日更新)

 
 
 

「バイト先の先輩がスポーツ報知の福留崇広さんだったんです」『怪物に出会った日』著者・森合正範さんの記者経歴


 
──森合さん、このようなインタビューにご協力いただきありがとうございます! 今回は森合さんの著書『怪物に出会った日〜井上尚弥と闘うということ〜』を中心に色々とお伺いさせていただきます。よろしくお願いいたします。
 
森合さん こちらこそよろしくお願いします!
 
──まずは経歴からお伺いします。森合さんは東京新聞運動部記者として活動されています。記者になられる前は後楽園ホールでアルバイトをされていたそうですね。
 
森合さん はい。高校卒業と同時に後楽園ホールでバイトを始めました。バイト先で4歳上の先輩が福留崇広さんだったんですよ。
 
──そうだったんですね!スポーツ報知の敏腕記者・福留さんがバイト先の先輩だったんですね!
 
森合さん 福留さんが落研でお話がうまいんです。二人で全日本プロレスの興行を観戦したこともあるほどすごく可愛がっていただきました。後にスポーツ報知に入られるんですけど、ずっとスポーツや格闘技を追い続ける生活っていいなと思って私も同じ道を志すようになりました。
 
──後楽園ホールでのバイト時代に見た中で印象に残っている試合はありますか?
 
森合さん プロレスでもボクシングでもたくさんあります。鬼塚勝也VS中島俊一はよく覚えていて、2度目の対戦(1991年3月18日・後楽園ホール/日本スーパーフライ級タイトルマッチ)も名勝負でした。日本王者時代から鬼塚さんは人気があって好きなボクサーだったんですけど、中島さんの相手に向かっていったり、パンチを食らい続けても倒れない姿勢に胸を打たれました。私自身、鬼塚さんを応援していたのに、「中島、頑張れ」と感情移入していきました。
 
──それだけ中島さんのファイティングスピリッツが凄かったんですね!
 
森合さん 会場の盛り上がりが凄くて、鬼塚さんに対する応援と中島さんへの声援がぶつかり合うような試合でした。
 
──プロレスで印象に残っている試合はありますか?
 
森合さん 新日本、全日本、FMW、SWS、WARも見ているんですけど、W★INGの松永光弘さんがバルコニーから飛んだ試合も見てるんですよ!
 
──そうなんですか!1992年2月9日のW★ING後楽園ホール大会にて松永光弘&ジプシー・ジョーVSミスター・ポーゴ&ミゲル・ペレスJrが行われ、松永さんが後に伝説となる史上初のバルコニーダイブを敢行したんですよね。
 
森合さん 僕はまだバイトに入る前で見られなかったのですが、橋本真也VS栗栖正伸(新日本・1990年8月3日後楽園ホール)はバイトの先輩たちが「すげぇ迫力ある試合だった」と言っていたことを覚えています。
 
──伝説の喧嘩マッチですね!森合さんはスポーツ新聞社を経て、2000年、中日新聞社に入社され、東京中日スポーツでボクシング、ロンドン五輪を取材。中日スポーツでは中日ドラゴンズ、東京新聞でリオデジャネイロ五輪、東京五輪を担当。現在は東京新聞運動部デスクとして活動されています。
 
森合さん 東京中日スポーツではボクシングと並行して格闘技の取材もしていて、K-1やPRIDEの会場に行くこともありました。K-1WORLDMAXで魔裟斗さんの試合を取材したことを覚えています。
 
──魔裟斗さんは現役時代からボクシング転向しても結構、上の方にいけるんじゃないかと言われてましたからね。
 
森合さん 魔裟斗さん、山本”KID”徳郁さん、須藤元気さんとかキャラクターが強い選手が2000年代のK-1WORLDMAXに勢揃いしていましたね。
 
──プロ野球・中日ドラゴンズの担当記者だった時代もあったんですね。
 
森合さん 2013、14年です。監督は高木守道さん、そして谷繫元信監督、落合博満GMの1年目の頃に担当していました。
 
──ドラゴンズにとってなかなかの暗黒期ですね。
 
森合さん そうですね。でも野球の取材は楽しかったし、今考えると、すごく勉強になりました。
 
──現在は東京新聞運動部デスクの森合さんは初の著書で『力石徹のモデルになった男 天才空手家・山崎照朝』(東京新聞出版)を出されています。こちらの本はどのような内容ですか?
 
森合さん 極真空手の初代全日本チャンピオンでキックボクシングのリングにも上がった山崎さんの半生記です。東京中日スポーツと中日スポーツでの連載を加筆修正して書籍化したのが『力石徹のモデルになった男 天才空手家・山崎照朝』なんです。山崎さんは会社の先輩でもあり、よくボクシングや格闘技を教えてもらいました。
 
 

 

「私は井上尚弥の強さが何かもよく分かっていない」
プロローグ



 
──いよいよ、ここから二冊目となる著書『怪物に出会った日〜井上尚弥と闘うということ〜』の各章を著者である森合さんによる解説レビューによって深堀りしていきたいと思います。まずはプロローグについてです。2018年10月7日に横浜アリーナで行われた「WBSS」バンタム級トーナメント一回戦・WBA世界バンタム級タイトルマッチ 井上尚弥VSファンカルロス・パヤノでの井上選手の70秒での勝利した二日後に森合さんと仲間達による食事会からこの本の物語がスタートしていきますね。
 
森合さん はい。プロローグは「なぜこの本を書こうと思ったのか⁈」というきっかけと私がどういう人間なのかを分かっていただくことをテーマに、ずっと抱いていた「井上尚弥の強さが何かもよく分かっていない」という想いを素直に書かせていただきました。今でも思うのは井上選手と闘って敗れた選手に取材するのはすごく失礼なことだと思うんです。
 
──お気持ちはよく分かります。
 
森合さん だけど私は後楽園ホールでバイトをしていたことがあり、敗者を間近で見てきたので、色々な葛藤があった上でこの本の取材に挑んだということが少しでも伝わればいいなと。とてもデリケートな話なのに、なんでこの人は負けた人にズケズケと入り込んでいくんだろうと思われるかもしれなかったので、私の立場や考え方をきちんと記したいなという想いを込めました。
 
──森合さんの葛藤を素直に記したからこそ、血の通った作品になったような気がしますよ。ただ井上選手に負けたボクサーに話を聞くだけの本ではなく、この本の制作に至る過程の森合さんの心境や考え方が読めたので、プロローグだけでも十分すぎるほど面白い内容になったのだと思います。
 
森合さん ありがとうございます。
 
──やっぱり井上選手が強さということは多くの皆さんが理解していても、井上選手の強さについて誰も言語化できてないということなんですよ。
 
森合さん あくまで私は井上選手の強さを言語化できなかった。編集者の阪上大葉さんから「井上選手の対戦相手に取材していったらどうですか?」と言われたことがきっかけで、この本は始まりました。


「井上選手について取材したのに、佐野さんのストーリーに私は惹かれていった」
第一章 「怪物」前夜(佐野友樹)


 
──プロローグでこの本の意図を書かれた森合さんは、編集者の阪上さんからの提案を受け入れて、井上選手の強さを追い求める旅に出られます。第一章は井上選手にとってはプロ入り後、初の日本人対決となった松田ジムの佐野友樹さん(当時日本ライトフライ級1位)を取材されています。2013年4月16日に後楽園ホールで二人は対戦しています。実は私は2018年に現代ビジネスに掲載された佐野さんの回をリアルタイムで読ませていただきました。

https://gendai.media/articles/-/58544
 
森合さん ありがとうございます。
 
──週刊誌が絡んだネットメディアでの記事は大変申し訳ないんですけど、中には下世話なものがあったりするので精査して読んでいるんです。でも、この記事を読んだ瞬間に痺れたんですよ。ものすごく清々しさを感じました。
 
森合さん それは佐野さんが清々しかったからだと思います。一番最初に佐野さんに取材したからこそ、井上選手の強さを追い求める旅は止まることなく進んでいったのかなと思います。
 
──実は井上選手にとっては初めての地上波テレビのゴールデンタイム中継が佐野戦で、この試合はお互いの良さが存分に出ていて素晴らしかったので、彼にとっても佐野さんが相手だったことは幸運だったと思いますよ。
 
森合さん 同感です。
 
──フジテレビが井上選手の放送権を各局との争奪戦の末に勝ち取って、世界戦でも日本タイトルマッチでもないのにゴールデンタイムで流れたんですよ。これは異例中の異例で、中継の煽りVで「これからスターになる選手を追いかけてみようじゃないか」というフレーズが使われていたのが印象に残ってますよ。では実際に佐野さんの取材はどのような形で進みましたか?
 
森合さん 佐野さんとは面識がなくて、会うのがこれが初めてだったんです。井上選手と闘ってから月日は経ってましたけど、どこまで話してくれるのか全然わからなかったので取材に行く時は正直、緊張しました。現役を引退してもボクサーとしてのいい顔つきをされていて、眼光も鋭かったですね。
 
──取材をしてみて佐野さんはどのような方でしたか?
 
森合さん 佐野さんは紳士で、あと、話してみて「何か伝えたいことがあるんじゃないかな」と感じました。私は「井上選手の強さはどこですか」と敗れた方に聞く取材をしていたのですが、佐野さんの人生に凄く興味が出てきて「何を話したいんだろう」と気がついたら徐々に引き込まれていきました。
 
──恐らく佐野さんの取材がこの本の羅針盤になったような気がします。
 
森合さん そうですね。初回の取材は佐野さん、松田ジムの松田会長、会長の息子さんである松田マネジャーにお話を聞きました。昼前にジムを訪問したのですが、取材は夕方5~6時まで行いましたよ。佐野さんとは一緒に井上戦をビデオで見て感想をお伺いして、原稿化には十分すぎるくらいの材料は集まって東京に戻ったのですが、なんか引っかかったんですよ。
 
──それはどういうことですか?
 
森合さん 佐野さんがポツリポツリと話していく中で「まだ何か話したいんだろうな」と感じたんです。佐野さんとはまた取材で繋がっていくような気がして、そこから結構頻繁に連絡を取り合うようになりました。だから現代ビジネスに書いたときは佐野さんの人生はそれほど書き込めていなかったんです。
 
──確かに!井上選手の強さを佐野さんが証言するという印象が強かったです。
 
森合さん 佐野さんに取材してからどんどん交流していって、佐野さんも私を信頼してくれるようになったのかもしれません。
 
──現代ビジネスで書かれた佐野さんの記事は100点だったと思いますが、この本の佐野さんの回は佐野さんの人生が加わっていてさらに素晴らしくて120点なんですよ。佐野さんがいいんですよ。自分の強さと弱さもきちんと語っていて、佐野さんが好きになる第一章だと感じました。
 
森合さん 実はこの本の企画が決まる前から佐野さんの章は全部書き終えていたんです。佐野さんだけで一冊書けるほどの内容でしたから。
 
──佐野さんの章は60ページ、掲載されてますよね。
 
森合さん 元の原稿はもう少しページ数がありました。井上選手と闘ったボクサーの人生を通じて、井上選手の強さを知ってもらおうという方向性が決まったのは佐野さんとの長い取材があったからだと思います。
 
 

「田口さんにとって井上戦は自分が強くなるための近道だったんです」
第二章 日本ライトフライ級王座戦(田口良一)


 
──では第二章に移ります。後にWBAスーパー・IBF世界ライトフライ級統一王者となる田口良一さん(ワタナベジム)です。井上選手と田口さんは2013年8月25日神奈川・スカイアリーナ座間で日本フライ級タイトルマッチで対戦しています。田口さんの回について振り返っていただいてもよろしいですか?
 
森合さん 田口さんは2019年まで現役だったので取材をしたのは実は結構、遅かったんです。佐野さんは井上戦が最後の晴れ舞台だったかもしれませんが、田口さんは井上選手との闘いで自信がついて、その後にどんどん強くなったんです。
 
──レアケースですよね。田口さんの場合は井上戦を経てボクシングに挫折したり、人生が転落するわけじゃなくて、そこからさらに強くなるんですね。田口さんは見た感じが優男という感じですよね。取材してみていかがでしたか?
 
森合さん 優しくて柔和なんですけどすごく芯がある方でした。田口さんはスパーリングで井上選手に倒されている過去があるんですよ。後に日本王者になって、ジムの会長から「これからどうするんだ⁈ ライトフライ級で世界王者を目指すのか、一階級下げて世界王者を目指すのか、井上尚弥と日本戦を闘うのか」という選択肢を提示されて、井上戦を選んだんです。世界王者を目指すのなら井上戦は田口さんにとってメリットはないのに敢えて選んだんです。
 
──田口さんにとって同じ階級で世界王者を目指す最強の強豪相手が井上選手なので、本来は避けたいところですよね。
 
森合さん 会長は「井上戦は避けよう」と言ってるんです。その気持ちはよく分かるんです。強豪を避けて世界王者になるボクサーもいるじゃないですか。それもまたボクサーとしての生き方のひとつですし、王者になってから強い人と対戦することもできますよね。でも田口さんは自身にとって一番険しい道を選んでいる。そのボクサーとしての矜持が詰まった生き方にグッときました。
 
──田口さんは内に秘めた熱い想いとか信念が強いんでしょうね。
 
森合さん そうなんですよ。田口さんは何のためにボクシングをやっているのか。それは強くなるためなんです。しかも王者とか形に見える称号ではなく、本物の強さを目指していたんだなと。
 
──強さを追い求める姿勢は田口さんと井上選手は似ているような気がします。
 
森合さん 肩書きとか記録ではない強さを目指すという点では、似ていたのかもしれません。結果的に、田口さんにとって井上戦は自分が強くなるための近道だったんです。
 
──それは荒療治かもしれませんけど、田口さんのボクサー人生を振り返るとその通りだったと言わざるを得ないですね。
 
森合さん 井上戦があったから田口さんはより強くなって世界王者になった。世界王座を7度防衛して、二団体統一王者になったので田口さんは日本ボクシング史に残る偉大な王者です。田口さんの取材は私も色々と学ぶ点があって、挑むことの大切さ、険しい高い壁に全力で立ち向かうことの大切さを教えていただきました。
 
──田口さんはハイリスクハイリターンの成功例ですよ。
 
森合さん ガムシャラに真剣になって、物事に打ち込んでいくと何か得るものがあるんだなということですね。



「エルナンデスは井上戦が終わってからずっと苦しんでいたんです」
第三章 世界への挑戦(アドリアン・エルナンデス)


 
──第三章は、メキシコのアドリアン・エルナンデス。2014年4月6日東京・大田区総合体育館で行われたWBC世界ライトフライ級タイトルマッチ。井上選手が初めて世界王座に挑戦した時の王者がエルナンデスでした。この回はいかがでしたか?
 
森合さん エルナンデスは個人的に思い入れの深い選手です。取材はメキシコのトルーカという街で行いました。実はエルナンデスにとって井上戦について語るのはこの取材が初めてだったんです。
 
──そうだったんですね!
 
森合さん 井上戦から8年が経ってエルナンデスがどのような境遇なのかよく分からなかったんです。メキシコではある程度は知られていて二回世界王者になっている彼は取材当初は私をどこか警戒しているような感じがして、井上戦について聞くのはちょっと難しいかなと思ったんです。ボクサーにとって1敗はとてつもなく重いわけですから。彼は私に会うなり「井上は自分のことをどう思っているんだ⁈」と逆に質問してきました。どこか自信なさげだなという印象を受けました。
 
──そこがボクサーにとって1敗はとてつもない重いという言葉に繋がるんですね。 
 
森合さん エルナンデスにとって井上戦はずっと心の中で引っかかっている試合なのかなと。生い立ちから話してもらうと少しずつ彼の心がほぐれてきたような気がしました。あと私は今回取材させていただいた皆さんをすごく下調べして臨んでいて、エルナンデスに関しては両親の名前も把握していたんですよ。
 
──おおお!そこまで調べていたんですね!
 
森合さん 恐らくそこら辺からエルナンデスは「この人は真剣に自分に向き合おうとしているんだな」と感じてくれたのかなと思います。彼は井上選手に敗れてしまうんですけど、自分の力で得意の接近戦に持ち込めたと思っていたんですよ。しかし私が「井上選手は減量に苦しんで試合中に足がつってしまった」という情報を伝えると「そうだったのか…」とすごくショックを受けてしまうんです。エルナンデスは自分の力で接近戦に持ち込めたと思っていたのに、本当は井上選手サイドの事情もあったと知ってすごくガッカリした表情を浮かべていました。
 
──エルナンデスは井上戦についての持論があったと思うんですけど、それが取材を受けることによってある種、持論が崩れていく部分もあったのかもしれないので、そう考えると敗れた選手に取材するのは酷ですよね。
 
森合さん そうですね。佐野さんは井上選手が試合中に拳を怪我していることが分からなかったそうですし、ノニト・ドネアも井上選手が右眼窩底骨折をして、右目が見えなくなっていることに気づかなかった。井上選手は試合中に怪我を抱えていることを対戦相手に悟らせないんですよ。だからこの件はどうしてもエルナンデスに聞きたかったのです。井上選手のその後の活躍はエルナンデスも知っていると思いますので、自分の力で接近戦を持ち込めたことに誇りがあったと思うんです。
 
──でもその根底が見事に崩れてしまうわけですね。
 
森合さん そこからなぜか分かりませんが、私に全てを話していいというマインドになって、井上戦後に酒浸りの日々を過ごしていたこと、今までは規律を守ってきたのに体重も増加してしまい崩れていったこと、結婚の約束をしていたフィアンセと別れてしまったこと、今でも井上戦での敗北を引きずって生きていることを赤裸々に語ってくれたんです。
 
──そこまで話してくださったんですね。
 
森合さん 取材後も「まだ話したいから一緒に食事に行かないか」と誘われて行きました。最初は私を警戒していたのに、心の内に留めていたことまで話してくれたエルナンデスの人生をこの取材で背負ったような気がしました。佐野さん、田口さんを筆頭に多くのボクサーは「井上選手と闘ってよかった」と言うんですけど、エルナンデスは井上戦が終わってからずっと苦しんでいたんです。ならば私はエルナンデスが味わった大きな一敗の重み、彼のボクサー人生をきちんと文章で表現しないといけないなと思いました。
 
──お気持ちは分かります。森合さんにはエルナンデスの取材でやらなければいけない責任が出てきたわけですから。
 
森合さん エルナンデスは「自分のことを思い出してくれてありがとう」と言ってくれて、一日しか一緒にいないんですけど彼と別れる時に泣きそうになりました…。最後に私が「あの試合のことを思い出させてしまって申し訳なかった」と言うとエルナンデスは「最初は話すのがすごく嫌だった。だけど今日はすごく良い日になったよ」と言ってくれて、今回の取材を感謝しているんです。
 
──素晴らしいドラマです。取材光景が映像で思い浮かびますよ。
 
森合さん メキシコに行ってよかったなと。行かないと分からないことがあるんですよね。


「ナルバエスは自分がリング上で体感した井上尚弥の強さと凄さが世間で正しく伝えられていないと感じていた」
第四章 伝説の始まり(オマール・ナルバエス)



 
──メキシコのエルナンデスの次となる第四章はアルゼンチンの英雄オマール・ナルバエス。2014年12月30日・東京体育館で行われたWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチ。ライトフライ級から二階級上げてきた元WBC世界ライトフライ級王者・井上選手が二階級で二桁防衛を果たしたWBO世界スーパーフライ級王者のナルバエスに挑戦した一戦です。試合は僅か2ラウンド3分1秒で井上選手がKO勝ちを収め、世界最短で二階級制覇を果たしました。この回を振り返っていただいてもよろしいですか。
 
森合さん 井上選手がモンスターになった日がナルバエス戦なので、書籍化が決まった段階で絶対にナルバエスを取材したかったんです。
 
──世界王座を計27回防衛して、一度もダウンしたことがないナルバエスから初めてダウンを奪い、KO勝ちを果たした井上選手。まさに伝説となった一戦ですね。
 
森合さん 最初はナルバエスは話してくれないんじゃないかなと思ったんですよ。井上選手にとっては大きな一勝ですけど、ナルバエスにとっては大きな一敗ですから。でもナルバエスは本当に紳士でした。私が来たことを喜んでくれてイスも用意してくれていて、「ゆっくり話そう」という感じで取材は進みました。身振りを交えながら井上戦を振り返り、「俺が井上役をやるから」と言って、私がナルバエス役で試合を再現してくれました。ナルバエスが「このようにパンチがきたらどうする?」と聞かれて、私が「こうします」と答え、彼が「そうするだろう。でも井上のパンチはこうきたんだよ」とパンチの軌道まで教えてくれるんですよ。
 
──そこまで丁寧に教えてくださったんですね!
 
森合さん なぜそこまで細かく教えてくれたのかというと、ナルバエスは自分がリング上で体感した井上尚弥の強さと凄さが世間に正しく伝えられていないと感じていたからなんです。
 
──これはものすごく重要なことを言っていて、森合さんが井上選手について感じたことと同じじゃないですか?
 
森合さん 同じです。
 
──ナルバエスは「一つ残念なことは、メディアは井上がリング上で繰り広げていることをいとも簡単にやっているように扱ってしまうことだ。でも、決して簡単ではない、ということを分かってほしいんだ」と語っています。
 
森合さん 私は勝手ながらナルバエスから託されたんだなと解釈したんです。やっぱりナルバエスがリング上で体感した井上選手の強さをきちんと伝えてほしいんだなと。エルナンデスとナルバエスに関してはすごく大きなものを背負ったような気がしました。
 
──エルナンデスはエルナンデス自身の人生、ナルバエスは井上選手の強さをきちんと伝えてほしいという想いですよね。
 
森合さん 彼の熱い想いを受け取ってかなりグッときましたね。
 
──この本を読むと、ナルバエスは井上選手のファンですよね。
 
森合さん その通りです。闘ったことにも感謝しているし、偉大な王者が潔く負けを認めるというのも凄いと思います。実はナルバエスには井上選手と再戦できる権利があったんです。
 
──ナルバエスは井上選手と再戦を行使できる契約をしていたんですね。
 
森合さん だけどナルバエスは再戦をしませんでした。理由は「井上に勝てるとは思えなかった」なんです。
 
──潔いですね!
 
森合さん それだけ井上選手のことを認めているし、あと彼が体感した井上選手の強さが相当凄かったということです。
 
──どう考えても勝てないと悟ったんですね。
 
森合さん 当時ナルバエスは39歳。これからさらに年齢を重ねていって衰える一方だけど、井上選手はもっと強くなっていく。もっと無様な負けになるのではと考えていました。あとナルバエスは凄いなと思ったことがあって、井上戦で敗れてアルゼンチンに帰国して、翌日には普通に練習しているんです。
 
──それも凄いですよ!
 
森合さん 井上戦の敗北は認めた上で、自分のやるべきことは淡々とやる。これはなかなかできないことですよ。彼の生き方から見習うべきことが多いなと。
 
──ナルバエスにはきちんと自己探求の道があってそこは崩れないんですね。
 
森合さん 私たちは何か失敗したり、何かを失った時に立て直すことってなかなか難しいじゃないですか。でもナルバエスの人間的な強さは本当にリスペクトしています。

「黒田さんは誰よりも井上選手に向かっていった人なんです」
第五章 進化し続ける怪物(黒田雅之)


 

──では第五章の話に移ります。この回に登場するのは対戦相手ではありません。長年、井上選手のスパーリングパートナーを務めた元日本ライトフライ級&フライ級王者・黒田雅之さんです。
 
森合さん 黒田さんは今まで登場してきた選手と違って、かなり尖っていてボクサーとしての矜持を持ち続けている人なんです。「誰にも負けたくないし、負けない。井上尚弥だろうがリングで相対したら倒すんだ」と思い続けているのが黒田さんなんです。私は前から黒田さんが井上選手のスパーリングパートナーを務めていることは知っていましたけど、「井上尚弥については話さないよ」ということを周りから聞いていたんです。要は黒田さんは「井上選手と最もスパーリングをした男」という肩書きを嫌がっていたと。
 
──いいですね!私はそういう選手が大好きです!
 
森合さん 取材してみて分かったのはボクサーとして熱いものを持っていて、世界王者になるためにガムシャラに闘っていた方なんだなと。強すぎてみんなが避ける井上選手のスパーリングパートナーを逃げずにやる黒田さんの心と身体の強さは凄いですよ。ジムの同僚である古橋岳也さんが「こんなに長く井上尚弥のパートナーを続けられたのは黒田さんだけじゃないですか」と言っていたのが印象に残っています。
 
──井上選手のスパーリングパートナーを継続してやり続けるのはなかなかできないことですよね。
 
森合さん 黒田さんは誰よりも井上選手に向かっていった人なんですよ。あと彼のボクサーとしての生き方がすごく好きですね。
 
──黒田さんには反骨心が見えますね。
 
森合さん そうなんですよ。反骨心はプロでやっていくなら大切なことじゃないですか。X(Twitter)もやっていたけどボクシングについてあまりつぶやかず、2022年に引退して初めて井上選手をフォローするんです。
 
──スパーリングパートナーだけど、いざという時が訪れた「やってやる!」という気構えを持っていたのかもしれません。
 
森合さん 黒田さんは井上選手について、スパーリングパートナーという関係じゃなくて、追い掛ける相手、目標にする目印としてずっと見ていたんです。井上選手と試合をしていませんが、黒田さんの物語は絶対にこの本に掲載したいと思いました。
 
──実は井上選手は「黒田さんとスパーするのは嫌でしたよ。最初の頃、ずっとお父さんと黒田さんの対策をしていましたから」と引退した黒田さんに語るんですよ。
 
森合さん あの言葉にすごく報われたと語っていました。そして黒田さんのようなスパーリングパートナーがいるからこそ井上選手はより強くなったんだと思います。


「本当の王者は対戦相手と家族まで光を照らす役割がある」
第六章 一年ぶりの復帰戦(ワルリト・パレナス)


──第六章はフィリピンのワルリト・パレナス。井上選手とは2015年12月29日有明コロシアムでWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチで対戦しています。
 
森合さん パレナスからは異国から日本にやってきてお金を稼いで、世界王者を目指す出稼ぎボクサーの悲哀を感じました。何のためにリングに上がっていたのか。世界王者という称号は大切だけど、彼が背負っているものはものすごく大きくて、母国フィリピンに親戚と称する人たちが何十人もいて、その人たちのために闘っていた。日本で闘うことの難しさや孤独さを感じました。
 
──読ませていただいてその想いが十分に伝わる内容でした。
 
森合さん パレナスは日本で本当に孤独でフィリピンの人たちにもなかなか理解してもらえない。今回、この本で取材させていただいてボクサーの中で唯一「もし同じ時代、同じ階級に井上尚弥がいなければ…私が世界王者になっていた」とも語っています。これは同じ時代、同じ階級で闘っているボクサーなら誰もが思うことですよ。
 
──パレナスが抱えていた心の本音が出たわけですね。
 
森合さん その言葉を聞いたときに世界王者になれなかったパレナスの悲しみを感じました。だけど一方で世界王者というのは闘った相手と家族を幸せにするんだなと。井上選手と闘ったことによってパレナスは多額のファイトマネーを手にしました。彼が家を建てたり、車を買うことができたのは世界王者・井上選手に挑んだからなんです。本当の王者は対戦相手と家族まで光を照らすんだなとパレナスへの取材で感じましたね。
 
──今の話を聞くとNWA世界王者みたいですね。リック・フレアー、ハーリー・レイスのように世界各地の興行を満員にして、地元のレスラーと対戦して、相手の持ち味を引き出したうえで防衛をし続けていくじゃないですか。
 
森合さん フレアーやレイスが行く会場にお客さんが集まってくるという部分では似てますよね。
 
──段々、井上選手がフレアーに見えてきました(笑)。
 
森合さん ハハハ(笑)。井上選手と闘えたことに感謝している一つの側面としてファイトマネーというのはあるのだろうなと思いましたね。


「カルモナは井上戦を機に人生が狂ってしまっているんです」
第七章 プロ十戦目、十二ラウンドの攻防(ダビド・カルモナ)


 

──第七章で登場するボクサーはメキシコのダビド・カルモナです。井上選手とカルモナは2016年5月8日・有明コロシアムで行われたWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチで対戦しています。
 
森合さん カルモナはメキシコで取材しました。彼はボクシング一家で父も親戚もボクサーで、世界王者を目指して井上選手に挑戦するんです。ここから井上選手をターゲットにして何年も闘うボクサーが増えるんですよ。彼はナルバエスに敗れた過去があって、そのナルバエスにKO勝ちしたのが井上選手で、実績を積み重ねてリングで相対して判定で敗れてしまうんです。井上選手はハードパンチャーでKO勝ちが多いので、多くの皆さんがカルモナ戦も早く終わるのかなと戦前は予測していたんです。
 
──でも実際は12ラウンドまで闘って判定までいったわけですね。
 
森合さん 周囲の予想はカルモナの耳にも入っていて、試合中も「俺は井上尚弥とここまで闘えているんだ」と思っていたんです。自分を出し切って倒されずに判定まで行った。そのことに対して誇りに思ったことによって、カルモナのその後の人生が崩れてしまう。燃え尽き症候群とでも言うべきかもしれません。
 
──カルモナの場合はエルナンデスと崩れ方が少し違いますよね。
 
森合さん エルナンデスと似ているのですが、カルモナは現役ボクサーなんですよ。「俺は井上尚弥と判定までいった男」だと自信を持つことで、他の対戦相手を見くびってしまうんです。「俺はこいつに負けたけど、井上尚弥より弱いじゃん」と。だからカルモナは井上戦を機に人生が狂ってしまっているんですよ。一時期、自暴自棄になったのですが、井上選手の試合だけはちゃんと追っていて、バンタム級で4団体統一王者になった時に「もう一度、井上尚弥と闘いたい」と本気で再起を図ろうとしていた頃に取材させていただいたんです。
 
──そうだったんですね。
 
森合さん 頂点を目指してまた頑張ろうとしていて、すごくいい人なんですけど、ポテトチップスを食べたり、タコスを頼んでくれて、みんなで食べたりとか(笑)。あと一緒に写真を撮ることになったのですが「この写真といずれ井上と闘って勝った時の写真を並べるんだ」とかすごく粋なことも言うんですよ。これで大丈夫なのかなと思っちゃいましたね(笑)。
 
──いいですね!私は大好きです!ボクサーとしての強さに自信があるんでしょうけど、何かとツッコミどころがありますね。
 
森合さん 考えていることと、実際の行動にギャップがあるんですけど、憎めないんです。
 
──全成績を過ぎたロベルト・デュランを見ているようですね。
 
森合さん 少し心配になって取材を終えてジムを後にしたことを覚えています。井上選手と判定までいくことは本当に凄いんだな、とカルモナのボクサー人生を振り返ると痛感します。

「河野さんと奥さん、二人の物語に胸を打たれました」
第八章 日本人同士の新旧世界王者対決(河野公平)


──第八章は元WBA世界スーパーフライ級王者・河野公平さんです。二人は2016年12月30日・有明コロシアムで行われたWBO世界スーパーフライ級タイトルマッチで対戦しています。河野さんの取材を振り返っていただいてもよろしいですか。
 
森合さん 河野さんに関しては奥さんも取材したいなと思ったんですよ。実は佐野さんの奥さんの取材は河野さんの奥さんを取材した後に行っていて、佐野さんの奥さんは井上戦を薦めて、河野さんの奥さんは「井上君だけはやめて!」と懇願しているんです。
 
──見事な対比になってますね。
 
森合さん 河野さんの奥さんは感情がこもっていて、ボクサーの奥さんはこういう心境なんだろうなとすごく感じました。ボクサーは一人で闘っているんじゃないんですよね。そんな奥さんの言うことを振り払ってでも井上戦を選ぶ河野さんは、ボクサーとしてすごく心の強い人だなと感じました。
 
──その通りですね。
 
森合さん 現代ビジネスでは佐野さん、河野さん、パレナスの記事を更新しましたが、河野さんの回は多くの皆さんに読まれた印象がありました。特に河野さんの奥さんが言った「井上君だけはやめて!」はインパクトがあったようです。河野さんと井上選手の一戦に関しては試合が決まる前から既に闘いが始まっているんですよ。
 
──河野さんの自宅から始まっていたのですね。
 
森合さん 試合が決まっていく過程にもドラマがあるんですよね。
 
──この本を読むと河野さんと奥さんは井上戦についてすごく前向きに語っている印象があるんですよ。これが素晴らしいなと思いました。
 
森合さん 奥さんから見た河野さんがすごく良くて「試合前に早くやりたいな」「井上戦がワクワクする」と言っていたそうで、ご自身はドキドキして井上戦をやめてほしいと思っているのに、河野さんは闘いに向けてテンションがすごく上がっていくんです。実際に河野さんが入場すると清々しい顔をしていて、「もしかしたら井上戦をやることになってよかったのかも」と感じたり、あと私は書きながらウルっときてしまったエピソードがあるんですよ。
 
──それは気になります。お聞かせください!
 
森合さん 井上戦に敗れた河野さんを見て、当時妊娠していた奥さんが控室に向かうんです。奥さんはいい試合だったので感動していて、今すぐにでもその想いを伝えたいのに、河野さんは取材を受けていて伝えられない。だからメールを打って自分の気持ちを伝えるんです。河野さんと奥さん、二人の物語に胸を打たれましたね。

「モロニーの生き方は人生において学ぶべきことがたくさんある」
第九章 ラスベガス初上陸(ジェイソン・モロニー)


 
──第九章は現WBO世界バンタム級王者であるオーストラリアのジェイソン・モロニーが登場します。2020年10月31日アメリカ・ラスベガス・MGMグランド・カンファレンスセンターで行われたWBA&IBF世界バンタム級タイトルマッチで対戦しています。モロニーの回について振り返っていただいてもよろしいですか。
 
森合さん モロニーは田口さんと同じく井上選手と対戦した後に世界王者になっていて、敗戦を糧にしているんです。彼は井上選手に倒されたシーンを何度も見ていて、ボクシングに対する向き合い方が凄いなと思いました。ボクサーとして自分が倒されている映像は見たくないじゃないですか。
 
──そうですよね。見たくないですし、屈辱なはずですから。
 
森合さん 彼は井上選手に倒されたシーンを何度も見ることで、自分のテクニックとしてものにしていくんです。井上選手に倒されたパンチで数戦後に対戦相手をKOしていて、ボクサーとしての貪欲さ、向上心、研究熱心さには感服しました。

──モロニーはボクシング研究家ですよね。
 
森合さん 我々も仕事やプライベートで何かしら大きなミスすると思い出したくないじゃないですか。でもモロニーは自分の敗戦に向き合って、ミスしたところを修正していって、逆に自分の長所や武器にして次の仕事に向かうってなかなかできないですよね。
 
──確かに!森合さんのお話を聞いて感じたのですが、この本は井上選手に敗れた選手の物語ですが、彼らは負けているんですけど本当に強いんですよ。敗れた後の立ち向かう姿勢、立ち直る気持ちも強さだと思います。
 
森合さん モロニーの生き方は人生において学ぶべきことがたくさんあるなと思いました。

「井上選手は『パフォーマンスじゃなくて、リング上での拳一つで熱狂を生みたい』と言っていて、その熱狂を生まれたのが井上VSドネアの第一戦」
第十章 WBSS優勝とPFP一位(ノニト・ドネア)


 
──第十章はボクシング界のスーパースター、フィリピンの英雄ノニト・ドネアが登場します。二人は二度対戦しています。一戦目は2019年11月7日さいたまスーパーアリーナで行われたWBSSバンタム級トーナメント決勝/WBA世界バンタム級王座統一戦・IBF世界バンタム級タイトルマッチという大舞台で、二戦目は2022年6月7日さいたまスーパーアリーナで行われたWBAスーパー、WBC、IBF世界バンタム級王座統一戦。井上選手とドネアが繰り広げた伝説の拳闘ですが、ドネア本人の取材はNGで、チームドネアのスタッフに取材されたそうですね。
 
森合さん  もし可能なら、ドネアを取材したかったんです。実は取材NGというより「来てもらってもいいけど、井上について今は話せる心境じゃない」と言われました。
 
──そこは引退してからということでしょうね。
 
森合さん はい。結果的には取材することはできませんでしたが、ドネアの回答がすごく嬉しかったです。まだ彼は闘い続けているんですよね。だけどこの本の編集者からは「一般の方が知っているのが井上VSドネアなので、ドネアは何としても入れてほしい」とリクエストがあったので。
 
──井上選手の対戦相手にスポットを当てたのがこの本ですから、そうなるとドネアは避けられないですよね。
 
森合さん あと2019年の井上VSドネアが地上波テレビのゴールデンタイムで生中継された最後の試合なんです。
 
──意外と井上選手は地上波テレビから遠ざかっているんですね。
 
森合さん そうなんです。だから2019年の井上VSドネアはそれだけインパクトが強い試合だったと思います。ドネアの章は各章とは違う手法で書かせていただきました。
 
──第十章ではチームドネアの植田眞壽さん、井上VSドネアでスーパーバイザーを務めた日本ボクシングコミッション本部事務局長・安河内剛さんへの取材を元に構成されています。あと井上選手の発言もこの章では多く使われている印象がありました。
 
森合さん あと、私から見た井上選手についても書いていきたいなと。
 
──めちゃくちゃ面白かったですよ。井上選手が対戦相手が強豪になればなるほどコメントが饒舌になるけど、格下と思われる選手になるとやや不機嫌になるというのが興味深かったです。
 
森合さん 井上選手のボクサーとしての特異性ですよね。本当にドネア戦前の井上選手は饒舌でした。
 
──井上選手はドネアの試合はプロ入りする前から見ているでしょうから、偉大なボクサーと相対できることに喜びを感じていたのかもしれませんね。あと安河内さんのコメントが俊逸で素晴らしかったです。
 
森合さん ありがとうございます。チームドネアの植田さんが語るドネアの人間性もいいですよね。ドネアが井上選手にKO負けした後に退場する時に、警備スタッフが倒れそうになったらすぐに手を差し伸べるとか。試合後に泣いて、チームに謝罪する姿とか。植田さんに取材してよかったなと思いますし、感謝しております。
 
──井上選手はドネアとの第二戦では戦前、森合さんの取材で「誰もが想像できないような結末にしますんで、あっと言わせるような。想像の上をいく試合をしますんで」とコメントをされていて、結果的にはドネアを秒殺しました。井上選手は実はKO予告を森合さんの取材でされていたんだなと感じましたよ。
 
森合さん あの時の井上選手はめちゃくちゃ気合が入っていて、さらに饒舌でした。本当に強い人と闘いたくて、その願いが叶うとワクワクするのかもしれません。
 
──2019年11月12日にNHK総合で放送された『プロフェッショナル 仕事の流儀』で井上選手は強い人と闘いたい理由として「自分がプロ転向する時のプロボクシング界が好きじゃなかった。勝てる相手を選んで試合をするそれがテレビで流れちゃうっていう時代だったんで」「やっぱりボクシングっていうのは真剣勝負、どっちが勝つかわからない試合をするからお客さんが熱くなるわけで。辰吉丈一郎さんだったり、畑山隆則さんだったり、あの沸かした時代を取り戻したいのがあったんですよ。それはパフォーマンスで客を引きつけるんじゃなくて、ボクシングを見に来たお客さんで溢れ返したかったんですよ」と語っているんです。
 
森合さん 井上選手は「パフォーマンスじゃなくて、リング上での拳一つで熱狂を生みたい」と言っていて、その熱狂を生んだのが井上VSドネアの第一戦なんです。
 
──もし映像や動画でご確認いただければありがたいのですが、本当に凄まじい名勝負でした。
 
森合さん 井上選手とドネアがリング上で相対したからこそ生まれた熱狂だったのかなと思いますね。

「ジュニアは『僕はお父さんが井上に敗れた瞬間にボクサーになろうと思った』と語ってくれました」
第十一章 怪物が生んだもの(ナルバエス・ジュニア)


──第十一章はナルバエス・ジュニア。第四章に登場するオマール・ナルバエスの息子さんです。
 
森合さん 章の主人公の中で、唯一井上選手と拳を交えていません。井上VSナルバエスはもちろん試合内容のインパクトが強かったのですが、少年時代のナルバエス・ジュニアが父の敗戦に泣いている姿も強く印象に残っています。アルゼンチンに行くなら、ナルバエスだけじゃなく絶対にナルバエス・ジュニアにも会って取材したかったんです。「ボクシングをやっているらしい」という情報は知っていましたけど、実際にどういう選手なのか、井上戦についてどう思っているのかは分からなかったので。
 
──そうだったんですね。
 
森合さん もしかしたら井上戦がトラウマになっているかもしれないのでその話題は一旦、置いて、「どういう目標があってボクシングをしているのか」「あなたにとってお父さんはどんな存在ですか?」ということならナルバエス・ジュニアに聞けるかなと思っていたんです。
 
──実際に取材していかがでしたか?
 
森合さん インタビューの冒頭でナルバエス・ジュニアに「なぜボクシングを始めたのですか?」と聞いたんですよ。すると自分から井上戦の話をしてくれて、「僕はあの日本での出来事を今でもはっきりと覚えている。初めて海外に行って、お父さんの試合が見られるから楽しみにしていた。僕はお父さんが井上に敗れた瞬間にボクサーになろうと思ったんだ」と語ってくれました。
 
──井上VSナルバエスはナルバエス・ジュニアがボクサーになるきっかけとなったんですね。
 
森合さん 彼にとってこれが人生でまだ数少ない取材だったと思います。生い立ちから日本での思い出についてきちんと語ってくれましたね。
 
──貴重なインタビューになりましたね。
 
森合さん 取材が終わった時に最後の章はナルバエス・ジュニアにしたいなと思ったんです。
 
──今の話を聞くと相撲における貴ノ花が千代の富士に敗れて引退を決意して、千代の富士が貴ノ花の息子である貴花田(貴乃花)に敗れて引退するというドラマがあるじゃないですか。あの流れに似てますね。
 
森合さん そうですよね。ボクシングも相撲も厳しい世界で実際に将来、井上選手と対戦するとは限らない。現実的にはかなり難しいと思います。でも取材の最後にナルバエスとナルバエス・ジュニアが「井上と僕は12歳差で、お父さんが井上と対戦したのが39歳。井上が35歳の時、僕は23歳。井上が39歳の時、僕は27歳。年齢的に実現することは不可能じゃないんじゃないかな」という会話をしているんです。
 
──それは面白い親子の会話です!
 
森合さん ナルバエスは井上選手をリスペクトしていて、敵としては見ていないんです。でも「もしかして息子が井上との対戦に間に合うんじゃないか」と悟るわけですよ。今は親子でボクシングに取り組んでいて、オリンピックを目指しています。
 
 
 

「対戦相手の皆さんは井上選手と命懸けで向き合ってきて、敗れてしまうんですけど、井上戦を糧にして、勲章にして生きている」
エピローグ


 
──最後はエピローグです。井上選手や日本ボクシングコミッションの安河内さんのコメントも掲載していますが、この本の締めとなったエピローグについて振り返っていただいてもよろしいですか。
 
森合さん この本を出す前に井上選手はスティーブン・フルトンとの試合があったんですよ。
 
──2023年7月25日・有明アリーナで行われたWBC・WBO世界スーパーバンタム級タイトルマッチで王者・フルトンにバンタム級から階級を上げた井上選手が挑戦して、8ラウンド1分14秒TKO勝ちを収め、WBC・WBO世界スーパーバンタム級王座を獲得しています。
 
森合さん 私は井上選手の取材をしてきて、対戦相手の皆さんのお話を聞いて、なんとなくではありますが、井上選手のスタイルをイメージできていたんですけど、フルトン戦でまた全然違う引き出しを出してきたので本当に底が知れないなと。あと井上選手は必要以上に対戦相手について語らない。これはあくまで私の見解ですけど、勝者として対戦相手を語ってしまうと貶めてたりとか安っぽい感じになってしまうので、あまり語らず彼らを背負って闘い続けているのかもしれません。
 
──井上選手は現役で闘う限りは対戦相手についてあまり踏み込んで語るつもりはないのかもしれませんね。
 
森合さん 井上選手に敗れた選手に取材をしていく中で「なぜ皆さんは井上戦をここまで克明に覚えているのか⁈」という疑問が出てきたんです。ボクサーがあの素早い攻防を覚えるというのが不思議だったので元世界王者の飯田覚士さんに話を聞くと「パンチが当たる、パンチを避ける動作は1秒もないんですが、本当に漫画のコマで描写されるような世界なんです」と語ったり、佐野さんは「命懸けで闘ったからじゃないですか。リング上で体感した井上君は特別で、一瞬一瞬が命懸けになる。だから、しっかり覚えているんじゃないですかね」と語ったり。
 
──なかなか深い話ですね!
 
森合さん 交通事故に遭う時、トラックが近づいてぶつかる光景とかが全部スローモーションで見えるとかいうじゃないですか。リング上で起こっていることは、もしかしたらああいうようなことなのかもしれません。
 
──ちなみにこの本、井上選手ご本人に手渡しされていて、X(Twitter)で感想がポストされていました。その時のエピソードがあればお聞かせください。
 
森合さん 本を手渡したとき、私が「この本にサインをお願いできますか」と言うと、笑顔でサインをしてくれました。でも井上選手からは「これ、本当はサインをするのは森合さんじゃないですか。森合さんがサインしてこの本を僕にくれるんじゃないですか(笑)」と。
 
──ハハハ(笑)。
 
森合さん 井上選手は発売前にXで告知をしてくれたり、リツイートしてくれたりしました。多くの皆さんにこの本を読んでほしいと動いてくれたんだなと…。その気持ちが嬉しかったんです。
 
──この本の手渡し後に井上選手はXで次のような投稿をされています。「対戦相手の心情など知れる機会などなくこの一冊は自分が辿って来たキャリアを色濃くしてくれました。感慨深い一冊です。皆さん是非手に取って読んでみてください!」。私は本当に素晴らしいポストだなと感動しましたよ。
 
森合さん 本当にありがたいです。
 
──本来、『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』は双方、引退している方がやるべき内容なのかなと思います。でも井上選手は現役バリバリで最強のボクサーです。その状況下でこの本が世に出ていることも異例で、これも井上選手の新たな伝説となりましたね。重たい荷物というべきか。対戦相手の数だけ重圧な襷をかけて彼は走っているんでしょうね。
 
森合さん 対戦相手と向き合って、今でも彼らを背負ってリングで闘っているのが井上選手なんですよ。

「この本を出してダメだったら私は終わりかなと思ってました」
森合さんの今後について


 
──最後に森合さんの今後についてお聞かせください。
 
森合さん どうしましょう…。今後、何を書いていいのかというのはさっぱり見えていないですね。
 
──新聞等では記事は書かれていくと思いますが、著書では燃え尽き症候群になってますか?
 
森合さん なっているかもしれません。この本を出してダメだったら私は終わりかなと思ってました。
 
──ここから僭越なら私がこの本を読んで感じたことをお伝えさせていただきます。森合さんの『怪物に出会った日 井上尚弥と闘うということ』を読んだ時に大変申し訳ありませんが、悔しかったんです。理由は二つ。ライターとしてこんな熱くて凄まじいノンフィクション作品を書けていない不甲斐なさ、あと私はプロレス書籍を何冊か出していますが、ここまでの作品がプロレスから生まれていないことの歯がゆさを感じたからです。今のプロレス界でひとり
のレスラーの対戦相手を深堀りする書籍が大ヒットするのか、現時点では残念ながらあり得ないなと思っています。
 
森合さん ありがとうございます。そこまで正直に「悔しい」と言ってくださり嬉しいです。
 
──私はこれまで数多くのプロレス書籍を始め、あらゆるスポーツノンフィクション本を読んできましたが、この本の著者である森合さんの文章がかなり異色だなと思いました。森合さんの文章表現には”弱さ”を感じるんです。
 
森合さん 確かジャストさん、noteでのレビューでも書いてましたよね。それはものすごくしっくりきました。本当にその通りだなと思いましたから。弱さという表現は一番、グッときました。核心をつかれたような気がしました。
 
──森合さんは井上選手に敗れたボクサーに取材していいのだろうかという葛藤も書かれているんです。スポーツノンフィクションを書くライターさんは、強い人が多い印象があるんです。最近だと鈴木忠平さんや加藤弘士さんがいますが、彼らは弱さがあって向き合って立ち向かうし、強いんですよ。森合さんは弱さを隠さないで書いていて、目的を果たすためにじっくりとやって深謀遠慮に行動されている印象があります。
 
森合さん 私は強い人間ではありません。だから田口さんやモロニーの生き方に学ぶことが多いんです。あとエルナンデスには感情移入してしまいます。
 
──森合さんは感心してしまうところも正直に書いちゃうんですよ。あと取材しているボクサーにずっと向き合っているな、寄り添っているなという印象も受けました。
 
森合さん ある意味、取材ですぐに懐に入っていける方が羨ましいですよ。私になかなかできないですし、時間もかかるんです。でもじっくり彼らに向き合いたいし、弱い部分もすごく分かるし、強い部分はすごく勉強になるんですよ。
 
──森合さんの弱さはノンフィクションライターとして大きな武器だなと思います。読者は文体がソフトに感じたり、感情移入もしやすいような気がします。情報力、取材力の凄さは
もちろんですが、文章の世界観が凄いからこそ、驚異の神作品になったんですよ。井上選手の強さを追い求めながら、森合さんは弱さを文章表現していったからこそ、この本は凄まじい作品になったと個人的に感じています。
 
森合さん それは嬉しいです。

──あとこの本を読んで考えたのは、井上選手は2012年にプロデビュー後、全勝で負けていないんですが、どこかで敗北の味を知っている気がしたんです。負けた苦みを知っているからこそ井上選手は強いんじゃないかと。
 
森合さん なるほど…。
 
──勝ち続けると中には勘違いしたり、態度が横柄になったりするケースもあるじゃないですか。井上選手はそんなことがまったくないですよね。
 
森合さん ありませんね。
 
──もしかしたら試合では勝ち続けていますが、練習で相当打ちのめされたり、何かと屈辱も味わっているしれません。そこも含めて負けがあまりにも重いことを知っているから強くなりたいという気持ちが強いと思うんです。以前、『プロフェッショナル 仕事の流儀』で減量にくるんでいた井上選手がスパーリングで出来が悪くて、相手にボコボコにされたことが映像が流れて、不甲斐なく感じた井上選手は父のトレーナーである真吾さんに謝罪しているんですよ。恐らくその時は敗北感を味わっていたのかなと。井上選手の強さは敗北の味を知らないと説明できないと私は考えています。
 
森合さん 井上選手はアマチュアでは敗れているので、その時の敗北の味を今も忘れずに闘っているのかもしれません。
 
──これでインタビューは以上です。森合さん、長時間の取材に応じてくださりありがとうございました。今後のご活躍とご健勝を心よりお祈り申し上げます。
 
森合さん こちらこそありがとうございました。



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