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藤田慶喜先生(フジキン)のご逝去を悼む

2月5日に藤田慶喜先生が亡くなった。
私が長者中学校の3年間、学級担任・学年主任として大変お世話になった先生だった。
怒ると怖い先生だったが、お茶目なところもあり、生徒から「フジキン」として慕われていた。
ここでは、私の人生に大きな影響を与えてくださった「フジキン」の思い出を綴りたい。

1.口癖は「踏まぁ!」(蹴るぞ!)

1980年代半ば、当時の中学校は校内暴力が全盛だった。
八戸市では比較的穏やかな方だった長者中学校にも校内暴力はあり、竹刀を持った生徒指導の先生が日々、校内をパトロールしていた。
40代半ばで初めて学年主任となったフジキンも、ゲンコツによる鉄拳制裁は当たり前、怒った時には「踏まぁ!」(蹴るぞ!)と一際大きな声で怒鳴り、そして時には力一杯その太い足で蹴飛ばすので、少しやんちゃな少年たちからは恐れられていた。
ただ、お茶目なところもあってどこか憎めなく、多くの生徒からは恐れられつつも「フジキン」として慕われていた。

比較的優等生だった私も、一度だけ本気で「踏まれ」たことがある。
中学2年生の冬に幾つかの学年の役員を掛け持ちしていた私は、委員長をしていた委員会の会合に遅れて行くことになった。
それ自体はしょうがないことだったし、事前に「遅れそうです」と伝えていたはずなのだが、委員長のいない委員会はやや紛糾したようで、私が遅れて到着した時にフジキンは、「なんで委員長が遅れるんだ!」と言って思いっきり私の足を蹴り上げた。
本当に痛かった。足が折れるかと思った。
それと同時に、正当な理由があって遅れた私を力一杯蹴るのは「理不尽だ」と思い、悔しくて涙が滲んだ。

委員会が終わって、フジキンのところに抗議に行った。
すると、「理由があって遅れたことはわかっている。だが、委員長が遅れたのにヘラヘラ入ってきたら、委員たちに示しがつかない。私は蹴るしかなかった」と辛そうに説明してくださった。
フジキンは、一時の感情ではなく、私に委員長としての立ち居振る舞いを気づかせるために「覚悟」を持って怒っていたということに気付かされた。
それと同時に、「もしかしてフジキンは、我々生徒が叩かれたり蹴られたりして感じていた痛みよりも、もっと強い痛みを心の中で感じながら我々を『踏んで』いるんじゃないか」と思ったことを覚えている。
その後、私がフジキンに叩かれたり蹴られたりすることは一度もなかった。

フジキンの名誉のために、訃報を受けたLINEのグループに、現在は八戸市内で教頭先生になっている当時のクラスメートから、「当時は鉄拳制裁が当たり前だったフジキンも、校長先生になった頃には、どんな生徒も見捨てない愛情深い先生として慕われていた」と紹介されていたことを付け加えたい。

2.「字は丁寧に、心を込めて書きなさい」

フジキンには、勉強しろとかもっと頑張れと言われたことはない。
覚えているのはただ一つ、中1の頃、満点に近い私のテストの答案を返すときにいつも「字が汚い!」と怒られていたことだ。
一度、「テストの時は急いで書いているので汚いのはしょうがないんです」と反論したことがあった。
フジキンは、「それなら字が汚いのはしょうがないが、それでも心を込めて丁寧に書くことはできるだろう」と返された。
それ以来、字が綺麗になったという自覚はあまりないが、字を書く前に「心を込めて丁寧に」というフジキンの言葉を思い出しながら書くようになった。
フジキンからは、次第に怒られなくなった。
字を書く前に、「心を込めて丁寧に」という教えは、今も守っている。

数年前にふと、「フジキンは、字を書くことだけでなく、生き方のことも言いたかったのかもしれない」、と思ったことを今回の訃報で思い出した。

そういえばフジキンは、10年ほど前から会うたびに、「いつ地元に戻ってくるんだ」と私に訴えていた。
2年半前に、衆議院議員に立候補するために地元に戻ってきて、フジキンに報告しようと思った時には、フジキンは脳梗塞で施設に入った後だった。

3.「人生は、石を積み、石を積まれる」

フジキンは国語の先生だった。
他の先生から一度、「藤田先生は昔、詩で全国的な賞をもらったことがあるんだよ」と教えられ、その作品を見せてもらった。
はっきりと覚えていないが、確かフジキンのお父様が亡くなられた後、下北半島・恐山の「賽の河原」を訪れた時の様子を詠んだ詩ということだったと思う。
その中に、

「人生は、石を積み、石を積まれる」

という一文があったように記憶している。

先人たちが積んだ石の上に、今度は自分が石を積んでいき、自分が死んだ後は、次に続く者がまた石を積んでいく。
積んだ石は不安定で、一生かかって積んだ石も、いつ崩れるかわからない。
それでも先人たちの想いを受け継いで黙々と石を積む。
自分に続く者が、自分の想いを受け継いでくれるのを信じて。

フジキンにご指導いただいた当時から40年近く経った今、フジキンの一文は、私の中にそんな光景と共に残っている。
(なお、冒頭の写真は、恐山・賽の河原の写真です。「ニッポン旅マガジン」のホームページからお借りしたものです)

恩師、藤田慶喜先生のご冥福を、心からお祈りいたします。


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