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【短編小説】海と陸を思う空

 時々亡くなった妻のことを思い出す。
私くらいの歳になると、色々な経験を踏んでいるが、
妻が亡くしたことは「経験」になるのか「出来事」になるのか、
はたまた「事件」になるのか。
これをどういえばいいものか、わからないでいる。

 妻が亡くなったのは、息子が10歳の時だった。
息子は、妻が30代後半、私が50代になって産まれた子だ。
私が「空也」妻が「七海」という名前だったので「空と海」ときたら、という遊び心も相まって、息子には「陸」と名付けた。
 陸は今17歳になり、母を亡くしてつらい思いもしてきただろうが、
優しい子に育ってくれていると思う。
時々、外に出ない私を気遣い「散歩でもせんと、身体弱なるで」
と言う。
まるで妻から言われるセリフのように感じる。

 外に出ない理由は、私は小説家を生業としているからだ。
そんなにパッとはしない作品ばかりだが、たまにドラマ化にされたりして、
そこそこ名は知られているかもしれない。
私は、ほぼ毎日机にかじりつき、PCが友達のようなものだ。

 今日、妻のことを思い出したきっかけは、一緒に住んでいる七海の母、つまり義母が夕飯に作ってくれている肉じゃがの香りからだった。
 妻はもともと関西の生まれで、肉じゃがは牛肉だというが、関東生まれの私は豚肉だと言い合ったのを思い出した。
だが、今は関西に移り住んだため、私も牛肉が当たり前になっている。
 陸も関西に移り住んだときは標準語だったのに、順応性が高いのか、
今ではコテコテの関西弁である。

 こうして時間が色々なことを変えてくれる。
良いことも、そして良くないことも。

 今私の良くないこと、それは私の年齢のことだ。
この先どれだけ今の日常が送れるのだろうか。
机の前にばかりいると、そういった不安に襲われることがある。
だがそうも言っていられないので、夏の終わりごろから、体力づくりも兼ねて、夕方散歩に出かける習慣をつけた。

 私の住んでいる街は勾配のある道が多く、結構な運動量になり、
歩き続けるのは疲れるので、途中にある公園で休憩を入れる。

 公園では子供たちが楽しそうに遊んでいる。
そういった日常風景が、いかに心に癒しを与えてくれるもなのか、
今更ながら感じるのである。

 子供の行動は見ているだけで関心が深まることが多い。
私が幼いころは何をして遊んでいただろうか。
こんな遊具のある公園ではなく、空き地のようなところで
缶蹴りやおにごっこをしてたと思うが、あまり記憶が定かではない。
 子供は子供同士での距離感や価値観の違いがあって、それでいて損得なく
遊び、行動しているのが潔い。
 小説を執筆していると、どうしても大人の裏の顔や、姑息な面を
作りあげ、空想し続けることが心にはあまりよろしくないようだ。
どうせなら健康的な文章を執筆したいものだと感じる。

 ある日、公園で家の鍵を落としてしまったことがある。
鈴のキーホルダーを付けていたので落としたことに気づいたのだが、
そばにいた青年が拾い渡してくれた。
陸と歳が変わらないような青年だった。
表情だけで察するに、何か不安と不満が交じりあっているような
感じを受けた。
 次の日も、その青年は公園に来ていたので、私は昨日のお礼を口実に
話しかけてみた。
なんてことはない、そばにある子供たちが遊ぶ光景の話をするだけだった。
彼は何かを感じ取ってくれたのだろうか。
私の言葉に彼は「そうですね。僕もそうです。」
と同調してくれたのが嬉しかった。

 人は当たり前だったことが無くなった時、どう受け止めるのだろう。
自分を責めるのか、諦めるのか、前進するのか、素直に受け入れるのか。

 時間は色々なことを変えてくれる。
良いことも、良くないことも。
そして自分自身も。

 できるならば、いつも前を向いて生きていたいと思う。
だが前を向けないときがあっても、それも自分なのだ。
そして、そういった自分を責める必要もないのだと、私は自分に言い聞かせ、これからも陸に伝えていきたい。

 今日もそんなことを考え、義母が作る肉じゃがの香りと共に執筆を続けている。
そろそろ散歩にでも出かけようかと思いながら。







 

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