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テクノロジーに関する雑感【雑記】

労働の廃絶や、ベーシックインカム、あるいは資本主義の打倒を訴えたとき、稀に返ってくる反論の1つに「テクノロジーの発展が止まってもいいのか?」というものがある。

いろんな反論の仕方がある。たとえば「喜べ! 千年後に光速で移動する宇宙船が完成するから、朝から晩まで素手でコバルトを掘り続けるお前の労働は報われるぞ!」と言われて納得する人はいないだろうという反論である。あるいは、デヴィッド・グレーバーやピーター・ティール、バーツラフ・シュミルが言うように「そもそも現代はテクノロジーの発展は止まっている」と反論することもできる。

しかし僕が言いたいのは「いや、むしろテクノロジーの発展はいま以上に加速するだろう」である。これにも様々な反論が予想される。それは「強制という意味での労働がなかったであろう石器時代の人々は何百万年たってもiPhoneをつくらなかったではないか」とかそういった類の反論である。

実際、僕はこの問題に頭を悩ませてきた。なぜ、石器時代の人々はiPhoneをつくらなかったのだろうか? きっと膨大な暇と退屈があったはずだ。つくってもよさそうなものなのに。

その疑問に答えるには、テクノロジーの発展がどのように進むのかを検討しなければならない。まず間違いなく言えることは、一つのテクノロジーが生まれたら、次なるテクノロジーが誕生するための無数の可能性を切り拓くことだ。逆に言えば、一つのテクノロジーが欠けるだけで、無数のテクノロジーの可能性が現れてこない。車輪がなければ馬車も、自転車も、自動車も存在しなかった。トランジスタがなければYouTubeもビットコインも存在しなかった。溶接技術がなければ潜水艇もロケットもなかった。などなど。

起点となる発明が、次なる発明を呼び起こしていく。逆に起点となる発明が起きなければ、次の発明も起きない。

ではその起点はどのように生じるのか? なんだかんだいっても、必要は発明の母である。コンピューターに関連するテクノロジーのもとはほとんどが軍事技術であった。戦争で使うロケットの軌道を計算したいといった動機がなければ、おそらくコンピューターは発明されなかっただろう。そして、コンピューターの発明から連綿と続く、膨大な発明は起こらなかったはずだ。つまり、この世界に戦争が存在しなければ、いま僕が文章を書いているノートパソコンは存在していなかった可能性が高いのだ。

となると、である。狩猟民たちはコンピューターやその前提となるテクノロジーを発明しなかったのは、単にそれを必要としなかったからではないか。

多くの狩猟民たちにとって狩りは遊びであった。採集も遊びであり、季節限定の農業も遊びであった。つまり生活はほぼ遊びであった。だから、なにかを効率化する必要がなかった。大量の物資を運搬するための車輪も必要もなかった。道路や運河を建設する必要もなければ、鉄骨造りの住宅を建てる必要もなかった。文字でなにかを記録して管理する必要もなかった。誰もそんなことをする意味を見出せなかったのだろう。

起点となる発明が存在しない以上、高層ビルも自動車も複式簿記も蒸気機関も生じ得ない。

しかし、彼らとてなにも発明しなかったわけではない。狩猟民の使っていた道具を持ち帰った西洋人は、その複雑さからリバースエンジニアリングをあきらめたという。彼らは彼らなりに、彼らの必要に応じて複雑なテクノロジーを発展させていたはずだし、おそらくもはや僕たちが知らないような自然素材の活用方法を無数に生み出していたはずだ。そして現代人は無数の石器時代の発明の恩恵を知らず知らずのうちに享受していることだろう。

なら、彼らの社会にはテクノロジーがなく、僕たちの社会にはテクノロジーがあると、どうして言えるだろうか? テクノロジーの発展を、単一の価値基準で評価しようとすること自体がおこがましいのではないか?

たとえば、食事を摂ることを極端に嫌悪する宇宙人がいたとしよう。そして、彼らはラーメンを一秒で食べられるスーツを発明していたとしよう。

彼らが僕たちの文明を見たとき、「なんて低レベルな文明なのだ」と驚くだろう。地球人は十分も二十分もかけて、長い時には数時間もかけて食事をとっている。さっさとテクノロジーで効率化すればいいのに、地球人の食事時間は数百万年もさほど変化していないのだ。

そして地球人は、ラーメンを一秒で食べられるスーツを起点とした次なる発明の類をまったく発展させていない。代わりにiPhoneだとか、ロケットだとか、ちんぷんかんぷんな発明をしている。地球人はなんの進歩もない低レベルな文明であると、彼らは結論づけるかもしれない。

(余談だがこうした視点を度外視している点が『三体』の気に食わないところである。『三体』では産業革命とコンピューター革命がテクノロジーの歴史において必然であるかのように描かれているが、テクノロジーの発展には決められた方向性はなく、産業革命も無数にあり得た歴史の一つに過ぎないと僕は思う。ただ僕たちの想像力がそれ以外の歴史のあり方を思いつかないだけの話である。)

車輪や蒸気機関、コンピュータ―の発明がそれに続く数多の発明を花開かせたことは間違いない。だが、起点となる発明は必ずしも普遍的に必要とされるものではなかった。だから狩猟民たちはそれを誕生させなかったわけだ。

では、改めて冒頭の問いに帰ろう。労働が撲滅された社会において、テクノロジーは発展し続けるのだろうか? すでに車輪も蒸気機関もコンピューターも存在する。これらはユートピア的な夢を思い描いた国家や、無限の利潤を追求しようとした資本家の要望に応えて生み出された。つまり起点となる発明は存在しているのだ。そして、私たちの想像力はすでにSF映画によって掻き立てられている。ならば、続く発明が生じないと考える方がむずかしい。労働が廃絶された世界ではあらゆる行為は遊びと化し、もはや省力化技術はさほど求められなくなる。よりワクワクするようなテクノロジーを天才たちは生み出し始めるのではないだろうか?

現代においてテクノロジーの発展はほとんど頭打ちとなっている。次なる発展のためには、暇を持て余したニュートンやアインシュタインのような存在が必要であることは明らかである。残念ながら現代の名もなきニュートンやアインシュタインは、大学で書類仕事に忙殺されているか、そもそも大学卒業すら叶わない。労働が撲滅された状態の方が、彼らはイキイキと活躍し始めるのではないだろうか。

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