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映画『バジーノイズ』感想

 映画『バジーノイズ』を見てきました! ものすごく良い映画だったし、なによりすごく、感想を言いたくなる映画だと思いました。
 この映画は音楽を主題にしつつ、かなり音楽的にも気を配って制作されているだろう作品で、反面わたしは結構音楽にうとい人間なのですが、それでも、というかそれだからこそ、いま形にして表現して打ち出したいものが心の中にたくさんたくさんあります。
 公開二日目という状況ですが、ネタバレと自分語りをめちゃくちゃしながら感想を以下に述べていきますので、既にバジーノイズをご視聴済みか、ネタバレが気にならないという方、そして冗長な個人の話を許せる方だけご覧いただければと思います。作品の詳しい概要やあらすじは以下公式ホームページからどうぞ。

https://gaga.ne.jp/buzzynoise_movie/about/

 映画は、主人公の清澄がベッドの上で目を覚ますところから始まります。部屋の中には音楽が流れていて、その発出元は部屋の中央に置かれた音楽機材です。憂鬱そうな清澄は音楽を止め、マンションの管理人として退屈な日中を過ごすべく準備を始めます。日の差すうち、清澄の生活は傍目に見ていても単調です。劇的な事件や激しい感情の昂りがもたらされることはなく、波風は立たないまま清澄は退勤の連絡をし、自分の住む部屋へと戻ります。変わったところといえば、マンションの傍に立っている木の葉擦れの音を清澄が採録するくらいのものです。清澄は誰かと親し気に会話を交わしたりもしません。
 部屋に帰って、清澄は部屋の中心の音楽機材を使い、曲作りに没頭します。単調な日々の中、自然の音のような少しの刺激を取り込んで、咀嚼して反復し、打ち出す。清澄はずっとそうして、自分一人のために音楽を作っていることがモノローグでも示されます。

 私が、この物語において一番に好きなところは、芸術の起点から終点まで、そしてその連鎖と繰り返しを美しく描き出してみせたところ、そしてその陰で感情と音楽が水のメタファーによって繋がれていることです。また、私がこの映画において一番に凄まじいと思ったところは、様々な形式でもって一つの意味をあらわすことで、表現される意味の訴求性を繰り返し高めているところです。役者の演技が素晴らしいとか、劇中曲がキャッチ―で素敵だとか、映像が美しいとか、後でいくらでも言えそうなことを除いて、自分の心の中の深い感動ポイントを言い表すとこの二つに尽きるのですが、これだけだとあまりにも個人的語彙による至らない表明になってしまうので、だらだら詳しく説明していこうと思います。

 

清澄の楽曲の起点であり終点である潮:感情と音楽に共通する水のメタファー:繰り返す連鎖反応

 清澄が自然音を採録したこと、日常生活の途中で急に苦しそうに「音、鳴らしたい」と言い出すこと、再三騒音を注意されているらしいのに自宅で音を出すのをやめていないこと、自身の作った曲を録音保存して音源化していること、これらを見てまず抱いたのは、「清澄って自分一人のために音楽をやっているけれど、ただ吐き出すだけにとどまらず完成させて録音するところまでやるんだなあ」という感想でした。

 個人的な体験談ですが、私は学生時代から文章を作るのが好きで、学生時代から今に至るまで、小説や感想文や詩を書くことを続けています。ところが、仕事や生活が忙しくなってくると、そういった自分の好きな物事にさえ手が回らなくなって、とにかく意味のある文章を作ることが難しくなります。ただ、頭は考え事で破裂しそうになるので、そういう時、私は延々と回文を作ります(意味をそこまで持たせなくてよく、言葉が勝手に連なり出すので、作っていて気持ちがいいし、頭に浮かんでいるフレーズはずらずら排出できるので楽になる)。

 一人で楽曲制作をしている清澄を見て、思わず繁忙期の自分が頭に浮かんだのですが、清澄は回文を作る私よりは遥かに高度なレベルで楽曲を完成させています。取り込んで溜まってしまった刺激は排出せずにはいられないものですが、清澄はそれを音に托して吐き出すように鳴らしっぱなしにせず、一つの楽曲にして、録音し音源化しています。清澄は自分のために楽曲を作りつつも、自己の体内での反芻消化にとどまらず、投げる先に他者ではなく自分を想定しているような印象があります。他者化した自分のために作品を打ち出している感じ。発散的でもあるけれど、作品として収束もさせています。映画中盤、清澄は潮にバンドを組んでいた過去を語りますが、なるほど、他者を巻き込む形で表現を発表する段まで至った経験のある人だったんだ、どうりで、と納得が行きました。取り込んだ刺激を音に変換して吐き出すだけではなく、一応形として残すところまで性分づいているのかなと思います。

 刺激によって生まれた感情が、反芻されるうちに出来上がるもの。それを単に吐き出すという形にせずに、清澄は表現を作品のレベルまで持っていきます。
 ここで完成した清澄の、自分の為だけの音楽は、実は部屋からの音漏れによって、上階に住む潮に聞かれています。清澄の知らないところで潮は清澄の楽曲に癒されており、ひょんなことから潮は清澄の楽曲を高評価していることを清澄自身に伝えます。清澄視点で、①刺激→②感情→③表現→④受け手の感情→⑤受け手の反応、という流れが完成しますが、清澄の心は簡単には動かず、この段階では清澄は潮との更なる関係性の深化を望みません。
 受け手の潮の視点では、③表現→④受け手の感情→⑤受け手の反応、という流れがそのまま①刺激→②感情→③表現という流れになります。彼女は管理人に自身の部屋の下階の住人が流す音楽が好みだと語るだけにとどまらず、自身の恋人にふられた深夜、下階の清澄の部屋のインターホンを鳴らし、清澄の音楽が好きだから流してほしい、とねだるという極端な行動で感情の表現を行います。渋りつつも深夜に楽曲を流す形で潮に応える清澄。潮は清澄の部屋のベランダに降り立ち、フライパンで窓ガラスを割り、清澄の姿をみとめて笑います(なおこの後、清澄は騒音と器物損壊で部屋と職を追われます)。

 打ち出されて他者にもたらされた表現は、他者にとっては新たな刺激です。表現は新たな感情の発生を手伝い、刺激から反応までの流れは他者へと伝わりながら繰り返し繰り返し行われます。それが分かりやすく目に見えるのは、ベーシストの陸とのセッションのシーン。清澄の楽曲を聞いた陸が即興で奏でるフレーズに、清澄も応えるように音を重ねていきます。表現があらたな表現を呼び、清澄一人の楽曲がさらに発展していく様子は、清澄や陸や潮の笑顔によって、幸福なトーンを持っています。

 ところが、刺激から反応までの連鎖は、作中で明確に阻害されてしまいます。才能を見込まれ、演者ではなく楽曲提供者として、清澄はレコード会社内の閉め切られた部屋(防音で音楽機材は十分揃っている)にこもりきりになり、異常なスケジュールで楽曲を制作する羽目に陥ります。一人きりで曲を作っている、という点だけ抜き出せば、序盤の清澄とかわりはありませんが、防音室にこもる清澄には葉擦れの音のような自然の刺激すらありません。自身の楽曲の反応を摂取する暇もなく、次の楽曲制作の予定が詰め込まれます。生気に乏しい表情をして、時折船を漕ぎながら、清澄は曲を作り続けます。もしかしたら、インプットとして別の音楽を摂取する機会は提供されていたかもしれませんが、それは潮の反応や陸の即興のフレーズのような幸福なものではなかっただろうと思います。清澄の表情からは、もはや感情を動かしている様子もうかがえません。

 また、レコード会社による阻害が行われる前から徐々に、楽曲を作る清澄と、それを応援する潮の間にも関係性の変化が訪れます。海辺で一人楽しそうに音を奏でる清澄の動画を潮がSNSに投稿したことをきっかけに、清澄はレコード会社勤務の航太郎と関わり、過去のバンド仲間の陸と再会し、ドラマーの岬の協力を得ることになります。並行してリスナーやファンは増えていき、音楽業界も清澄に目を付け始めます。潮が勝手に清澄の動画をSNSに投稿したこと、航太郎と清澄を引き合わせようとしたこと、清澄と陸によるAZURというバンドの公式アカウントを制作したことに対して、清澄が潮に勝手なことをしないでほしいと伝えるシーンも若干胸に痛くはあるのですが、潮の明るい性格と返答、とりなしによって、これらは二人の関係性の決定的なひずみにはなりません。

 私が一番胸がぎゅっとなったのは、清澄と陸のAZURに、最近ガールズバンドを脱退したばかりのドラマーの岬が一時的に協力するシーン。岬が打ち込んだ生のドラム音を嬉しそうに聞く清澄を、潮は見つめ続けることが出来ません。スタジオから飛び出して家に帰ってしまいます。この前段、海辺で清澄が流す音楽に乗せて、潮がキーボードパッドで音を加えていくシーンがあります。上手くタイミングが合わないながらも、楽しそうな潮と、笑いながら「早い」「ちょっと遅い」「そう」と潮に言う清澄のシーンはとても可愛らしくて和やかなのですが、その後に岬のドラム音のレコーディングシーンが差し挟まれることもあいまって、「演奏者ではない潮」がより際立ってしまいます。潮の家に戻った清澄は、ソファで清澄一人の楽曲の動画を見ている潮に対して、今聞くと良くないな、音が足りない、と述べます。潮はそんな清澄に、自分はこの時の、清澄一人によって作られた楽曲も好きであることを伝えますが、それを伝える時の表情に明るさはありません。

 私は音楽的な素養がまったくなく、リズム感もなく、もっと言えば結局芸術の才能を持つことが無かった人間です。才能ある人の応援すら満足にまっとうできない、という絶望感も味わったことがある身なので、ここのあたりの潮の「うちが居ても邪魔なだけ」という葛藤や悲しさはすごく身につまされました。潮は結局、清澄に何も告げずに部屋を引っ越すという選択をします。

 潮の一連の感情の流れに共感しつつも、私は潮に対して、「潮だって立派に清澄の楽曲の一部だったじゃないか」と繰り返し思いました。そう思った理由は、もちろん潮が清澄の楽曲のミューズ的存在であることも一つです(潮から得たイメージを源泉に清澄が楽曲を作ったことは、映画中で丁寧に描写されます)。しかしもう一つ、私がそう思う強い理由があり、それは私がこの物語を大好きな理由でもあります。

 この映画は音楽を主題にした映画です。清澄は音楽を作り、奏でて歌います。陸も岬も音を生み出します。作曲家であり演奏者である彼らの傍では、潮のような受け手の人々は一見脇役に思えます。しかし、潮はすごく感受性が豊かで、感情的で、極端な行動を取る人でもあります。レコード会社に勤務する航太郎にも、生活の底に押し殺した気持ちがあります。清澄にも陸にも岬にも感情や思想があります。作中で、陸の心を動かす示唆的な発言をするのは(おそらく演奏者ではない)陸の恋人です。
 刺激によって人の心に生まれる感情は、音と同じく、水の概念メタファーを負っています。感情は波立って、ノイズは波形をなす。浸る。溢れる。溺れる。満ちる。沁みる。沈む。沸き立つ。漏れる。渦巻く。物語は幾度となく海辺のシーンを映します。水のようなイメージをもって言い表される音楽も感情も、共通する部分があり、ある意味では同じようなものなのかもしれません。物語のはじめ、彼氏にふられた潮にインターホン越しに曲を流すようねだられた清澄は、それに応えて、騒音となることも構わず音楽を流します。ベッドの上で音楽を聞き、涙を流す潮。清澄は録音を流すだけにとどまらず、キーボードを叩いて新たに音を生み出します。スクリーン上の涙を流す潮を目にしながら、清澄によって新たに乗せられた大きな音を耳に入れた瞬間、私は、潮の寄与で新たに清澄の音楽が生まれたのだと思ったし、そのあと陸や岬と楽しそうに曲を即興で作っていく清澄の様子が何度か描かれたあとも、その思いは変わりませんでした。物語の随分最初の方で、既に潮は清澄の表現の源泉であったと思うし、陸や岬と一緒に音を奏でていたときと同じくらい、あのとき清澄は感情を音にしたくて仕方ない状態であったと思います。

 刺激されて生まれた感情を吐き出す。音楽や、はたまた詩や小説、絵、踊り、色々な芸術表現の形で感情をアウトプットする人たちは、そうでない人たちの目にはすごくまぶしく映ります。けれど、外界の刺激で抱いた感情を、表情や言葉や行動に乗せる人たちだって、立派に表現者であるのだと思います。そしてその人たちが行う表現は、芸術のための連鎖の、欠かせない一つのピースです。これを欠いてしまうと、作り手は健やかに作品を生み出すことが出来なくなる。

(余談:レコーディングの現場見学という名目でレコード会社に呼ばれた清澄が、丁度その場でレコーディングを行っていた先輩の作曲家と相対し、短く会話を交わすシーンが作中にあります。ここで、レコード会社の才能あるお抱え作家である先輩は、清澄の楽曲を評価し、「海の底で踊る女の子のイメージ」と、清澄が潮に抱いたイメージを完璧に言語化してみせます。それを噛みしめるような清澄の表情を、見ていないのか見たうえでなにも感じ取っていないのか、レコード会社の重役である沖は、その後すぐ、清澄を会社の防音室に案内し、「色んな人間が寄ってくるだろうが君は一人で作品を作った方がいい」と言い放ちます。その後清澄は閉め切りの防音室で殺人的なスケジュールの中アウトプットだけを続ける生活へと陥るのですが、見ながらついつい沖に対して「たった今、表現→他者の解釈(反応)→内省、という良い連鎖が起こったばっかじゃん!何見てんだよ!どう見たってインプットが必要な人間だろ清澄は!」と憤りを禁じ得ませんでした。)

 話を戻します。水のモチーフは、場面設定や感情表現にも表れます。清澄と潮の二人は、劇的な再会の後に浜辺に行きます。フライパンで窓ガラスを割った後、そして潮の失踪から再び出会った後。そして潮が、清澄が涙を流すとき、それは二人が共鳴していることの現れです。彼氏にふられてベッドの上で眠る潮のために清澄が深夜に自身の曲を流した時、清澄が潮について作った歌詞を聞いた時、防音室にこもる清澄に呼びかけるとき、潮は泣き、潮に呼びかけられて清澄は、呼応するように音を振り絞った後に涙を流します。

 最終的に色々あって(本当に色々あって)、潮は「清澄のファン1号として」「痛いファンとして」防音室に閉じこもりきりの清澄に訴えかけにいきます。潮は、潮自身のイメージから清澄が曲を作ったと知った後もこの自己認識で居ます。うちこそ清澄のミューズだ、と自負したっておかしくないようにも思うのですが、潮の自己認識はあくまで受け手・ファンの立場です。ここがもう一つ、この物語で私がすごく好きなところです。
 (作品に没入せずフィクションとして見た時、潮を演じる俳優の桜田ひよりはものすごく美しかったですが)おそらく、潮は作中で芸術意欲をかきたてるようなものすごい美女として設定されているわけではありません。清澄と潮が明確に恋愛関係にあるようにも描かれていません。潮は取り立てて音楽の知識があるわけでもなく、清澄のような人間の心のケアに熟練しているわけでもありません。そういう、言わば「普通の人」のリアクションが、感想が、言葉が、ここまでの波を引き起こす、そういう顛末がものすごく美しくて、暖かい作品だと思います。物語を大きく進める潮の行動が、きっかけや起点に見えて、実際には清澄の楽曲への反応であること、騒音だとして取り扱われた清澄の部屋から漏れ聞こえる音を、潮がやり過ごさなかったこと、潮がそれを気に入ったこと、好きになったこと、それを清澄に伝えたこと、それが物語の始まりでありきっかけであったこと、そのことを、すごくすごく素敵だと思うし、日々様々な表現に触れて感想を抱く身として、切実に有難く思います。

 刺激を受けて、感情が生まれ、表現になり、それがまた感情を呼び起こして、表現になる。打ち返された表現(反応)を元に、また感情が生まれて、表現になる。繰り返し起きるサイクルは、ずっとずっと連鎖して、波は止むことがありません。終点は起点であり、反応は何かの表現の源泉かもしれない。陸が所属していたマザーズデイというバンドのボーカルは、内心で頭打ちだと感じながらも、古参ファンのためにも続けることを止められないといいます。やり過ごさずに居ることで、すり抜けていきそうなものを必死につかむことで、受け手も作り手の側に寄与できるのかもしれない。
 『バジーノイズ』を見て、色々なことを思って、考えて、そうしてそれを押し殺したままにするのも違うよな、と思いました。ひどく個人的で冗長な文章ですが、やり過ごしてしまわないで、波を打ち返して、私も波を絶やさずに居たいな、と思って、今この記事を書いています。


 複数の表現形式で一斉に一つのものを描き出す

 不真面目な生徒だったので、今私に残っている経験値は微塵もないのですが、小学生の時にピアノを習っていたことがあります。先生が一生懸命教えてくれたことはほとんど忘れてしまったのですが、一つ印象に残っている事があります。メンデルスゾーンのヴェネチアの舟歌が課題になったときのこと、楽譜を前にして先生は「右手で弾くメロディはゴンドラ漕ぎが歌う歌、左手で弾く伴奏は水面の波。ほら、もう音符の連なりの形がそう見えるでしょ」と言いました。言われてみれば、楽譜の上段、ト音記号の隣から始まる音符の連なりは歌声を図示するときのイラスト表現のようだったし、楽譜の下段、ヘ音記号の隣から始まる音符の連なりは、一小節ごとにスラーで繋がれた音符の山が二つずつ、ちょうど波の形のようでした。両段を合わせると確かに、波の上を歌がたなびいているようで、曲で示されるイメージが図の形でも楽譜上に表れているのです。結構な衝撃で、その時から多分十数年は経っていますが、いまだにその衝撃ごと忘れられません。

 文章を書くのは好きなので、文章を読み書きすることにあまり苦手意識はないのですが、逆に言えば言語化し得ないものが苦手です。小説や詩を読んだときに比べると、音楽も絵も、私はあまり上手く感想を述べることが出来ません。バジーノイズは漫画原作とのことで、まだ私は原作を読めていないのですが、非言語の要素がほとんどを占める音楽を、非言語の要素がおよそ半分を占める漫画でどう表現しているのだろうと思うと、読む前から畏怖の念にも似た気持ちが起こります。

 保守的な用法では演劇を、革新的な用法ではオープンワールドのゲームなどを差し示すのでしょうが、私にとっての「総合芸術」はいまだに映画です。作品の解釈や感想の言語化も、音楽や絵よりはまだ映画の方がしやすいです。今回、この映画を見ていて感動したのは、物語がとても分かりやすく伝わってくることでした。視覚でも聴覚でも感知できる要素があって、でもその要素は汲み取るのが大変なほど多すぎるわけでもない。取り立てて頭を動かさないでも、ストーリーや登場人物の感情や場の雰囲気が自然に伝わってくるけど、目も耳も心も頭もまったく退屈しない。見ていてすごく楽しくて、心が締め付けられて、感動して、泣いて、とても充実した二時間でした。

 暗い場所にいる清澄と明るい場所にいる潮、狭まる画面。陽の光の色合いと影の動きで時間の経過が分かること、褪せた青と鮮やかな青。くぐもる音とはっきりした音、楽曲と環境音。声のトーン、目の光、揺れる身体、口角の上がり方。そういうものがいちいちとっておきで、でもわざとらしくなくて、汲み取りやすいけど汲み取れたことに嬉しさもあって、すごく贅沢だったなと思います。まず、人を惹きつけるものとして設定され、実際に劇中に流れる清澄の楽曲が、そのまま観客の私の気持ちも惹かれてしまうような楽曲であったこと自体、めちゃくちゃすごいことのような気がします。あまり映画を見ない人間の誉め言葉なので威力がないのが悲しいですが、違和感を一瞬も感じない映画というものを今までそんなに見たことが無かったので、ストレスなく邪魔なく美しいものが見られる、という時点で、この映画に心地よい感動を覚えたし、ものすごい映画だ!と興奮しました。

 外界から得た刺激、それによって生まれた感情を、どのようにアウトプットするかは人によって違いがあります。清澄の書いた歌詞をださいと言ってのける潮のセリフが象徴的ですが、清澄は優れた楽曲を作ることができる代わりに、感情を言葉や表情や言葉にしてみせることが苦手です(反対に潮はとても得意)。人によって、表現の仕方には多種多様なやり方があります。そして、その方式は一つではありません。言葉や表情、行動が多層的に重なることもあるし、言語表現や視覚表現や音声表現が重なることもあります。航太郎が自分の意思と裏腹な行動を取るように、陸がためらいながらマザーズデイのぬるさを指摘するように、重なった表現形式のそれぞれが別のものごとを意味することもありますが、重なった表現形式のすべてで、同じものを意味することも多くあります。潮は行動力があり、物事を実行に移すのが早いですが、不言実行というよりは有言実行です。清澄の心を解きほぐす言葉を口にしながら、表情も柔らかく出来るし、親し気なスキンシップもとれます。陸や岬も、音楽というコミュニケーション・表現方式と共に、通常の言葉による他者とのやり取りの能力を備えた人たちで、楽曲面で清澄を支えながら、清澄の心身を心配する言葉も投げかけることができます。清澄は最終盤の楽曲、surgeでは作詞作曲を行い、演奏しながら自身の歌詞を歌います。

 様々な手段で一つの意味が繰り返し、多層的に打ち出される時、示された意味は色濃くなります。発信者にとってその意味するところが重要であるからこそ、発信者は手を尽くして、様々な方法でその意味を伝達します。清澄と陸、岬による楽曲には淋しさを感じていた潮は、清澄が潮をイメージして書いた歌詞を聞いて、歌詞をダサいと言いながらも泣きます。音楽を楽しんでいるとき、清澄も潮も身体が揺れて、表情が柔らかくなって笑顔を見せます。陸は清澄と共鳴し合ったステージを下りた後も、きちんと言葉にして清澄の気持ちをケアします。何種類もの方法で、幾たびも行われる、同一のものを意味した表現は、そのものの重要性を表すと同時に、そのもの自体、そしてその重要性を、観客の目にも突き付ける効果を生みます。
 防音室にこもっている清澄のために、潮はドアを壊すべく椅子でドアの取っ手を殴りつけます。大きな声を振り絞りもするし、たった一人清澄に語り掛けるようにも声を発します。そして、今度はそっちから鍵を開けてほしいと言います。清澄は機材から叫び声のように音を発します。苦しそうな表情を浮かべ、そして涙を流します。最終的に清澄は、自身で防音室の扉を開けます。行動で、声のトーンで、表情で、言葉で、音で、様々な方法でたった一つの大切なことを伝え合う主人公たちに並行して、映画それ自体も、巻き起こる事態や事件、ストーリーの流れや感情を多層的に示します。防音室や清澄の部屋が、清澄の心の物理的なメタファーであることは言うまでもなく自明のことだし、窓が破られることもドアの鍵が開くことも、改めて言葉にしてしまうのは本当に野暮ですが、二人の心が接触することの表れでしょう。

 たくさんの表現形式が一つの意味を表すこと、それがストーリー上でも映画制作上でも行われていること、そのことに、深く深く感動します。おそらく気の遠くなるような調整や腐心があるのだとは思いますが、そういった努力を汲み取る隙もないくらい、ただただ物語に没入できる映画でした。

 ヴェネチアの舟歌を作る時、楽譜を図的イメージとして見た時にも成立するように曲を作った、と私は思いません。舟歌をあらわそうとして音符を配列したとき、音楽のことだけを考えて、最適に美しくそれを整えたとき、あくまで副次的に図的成立が成功したのだと思うし、最適に上手く行っているものは、自然に美しい形に収束するのだとも思います。
 おしゃれで、美しくて、少しも違和感がない。まるで制作者たちが軽々とこの映画を作ったような気がするくらい、破綻なく、とても綺麗な作品でした。見てよかったと心底思ったし、これから先、ふと思い返して何度も繰り返し見る作品になるだろう、という予感をすでに覚えています。すごくすごくいい映画だった。見ることができてよかったです。

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