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自己肯定感と自己効力感

自己肯定感と自己効力感、似ているが結構違う。違いの一つに、加齢にしたがって自己肯定感は上がるが自己効力感は上がらない点があげられる。そんな中でどう活動すると心地よく成長できるのか?またビジネスマンは、どう活かすべきなのか?考えてみた。

自己肯定感とは

様々な定義があるが、ごく簡単にまとめると、「今の自分をよしとする」、良いも悪いもひっくるめて、今の自分、まあ、悪くないよね、と思う気持ちだ。それは今のままで良いということでは必ずしもなく、変化を求めている最中だったとしても、その変化を求めている自分もひっくるめてよい、と言えるかどうかだ。

最近、日本における子どもの自己肯定感が低いことがニュースになっている。

内閣府の調査でも、7か国との比較で「自分自身に満足している」子供の数が圧倒的最下位。

内閣府「子供・若者白書 特集1 日本の若者意識の現状~国際比較からみえてくるもの~」

自己肯定感は、幸福度の大部分を占めていると思われる。

ユニセフの調査によると日本の子供の幸福度は38か国中37位。

ユニセフ報告書「レポートカード16」発表
先進国の子どもの幸福度をランキング

自己肯定感とは、人生の目的そのものだともいえるだろうし、自己肯定感が低いと他の心の働きも不十分になり、活動量や成果といった観点でも悪影響が出る。すなわち自己肯定感とは、目標であり人生の結果を図る結果指標であると同時に、具体的活動を支える先行指標であるともいえるだろう。

その意味で、子どもの自己肯定感が低い、ということはもっともっと内容を調べ、対応策を考える必要があることだと思う。

自己効力感とは

自己効力感の定義は比較的定まっている。カナダの認知心理学者であるアルバート・バンデューラが提唱したからだ。彼の言葉をまとめると、「自己効力感とは、自分がある目標を持ち、その結果を生み出すために行動するとき、適切な行動を遂行でき、結果につながると考えらえる確信のこと」となる。

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世の中に対して働きかけたとき、成果を期待できるか。この数値が高いと積極的に問題や困難に挑みやすくなる。ビジネスの観点からは自己効力感を持てるかどうかは非常に重要だ。やる気が出る、と言えようか。

また、自己肯定感とは密接なかかわりがあり、自己肯定感が高いと自己効力感が高くなる。自己効力感があると自己肯定感にも正の影響があるだろう。

一方で自己肯定感とは定義上、明確な違いがある。自己肯定感は内向きの/自分自身だけに関する評価であり、自己効力感は外に向いている/外部環境に対する自己評価だ。自己肯定感はあくまで内面世界。だから少なくとも理屈の上では、自分の考え方一つでよくも悪くもできる余地がある。自己効力感は外部世界とのかかわりだから、正しい認識や本当の結果に左右される。

高齢者と自己肯定感、自己効力感

さて、ここで気づきがある。先ほど自己肯定感と自己効力感には強いつながりがあると書いたが、そうでない集団がある。高齢者だ。

まず人は、加齢とともに自己肯定感および幸福感が上がる。一般にはU字カーブを描くといわれており、幼少期は自己肯定感が高く、10代で最低になる(青春の悩みというやつだ。心あたりないだろうか)。その後緩やかに上昇し、高齢になっても上がり続ける、または横ばいとなる。

これは結構奇妙で、人生、加齢とともに別れがあり、病気があり、今までできたことができなくなるのに、これでいいという思いは増していく。これは「高齢のパラドックス」、「加齢のパラドックス」といわれる。そこまで大げさに言わなくてもという気もするが。そんな、幸せな気分になっちゃダメって言われてもねえ。
いずれにしても、年をとれば人間、幸せになれる可能性は広がるということだ。長生きはするもんです。

一方で、自己効力感については、個人差が大きい。高齢者でも、運動を継続している人、社会参加を継続している人は、自己効力感が高く維持される。一方、運動能力や健康が阻害されている場合は、自己効力感は低くなる。これはパラドックスではなくわかりやすい。今までできたことができなくなることで、「自分はできる」という気持ちが弱くなっていくのだ。当然に高齢者になると自己効力感は全体としては下がる。それにも関わらず総論的な自己肯定感が高まっていくので、パラドックスといわれるのだろう。

イメージ的にはこうだ(両方比較した調査が見つからない)

自己肯定感と自己効力感

自分は自分史作成やデプスインタビュー、巣鴨で道を歩く高齢者に声をかけるなどして多くの方の話を聞いてきた。自己肯定感と自己効力感の乖離があるのは、実際に感じる。昔に比べたら体力が落ちてなにもできないね、というコメントはよく聞く。一方で、自分が幸せかと言われれば幸せだ、という高齢者の方はとても多い。特に60代、70代は自分の体力の衰えを嘆く方が多いが、80代を超えるとそういう方はあまりいなくなる。健康だけでなく、境遇や経済面でもそう。老人ホームにいる方でも、生活保護を受けている方でも同じことが言える。もちろんそうでない方もいるが、総体として、同じ目線で見たらこの境遇で幸せと言いにくいのでは、という状況や困難をもっていても、「幸せだ」と答える方が多いのは間違いない。そういう方にお会いできると、人間かくあるべし、という感銘をいただくこととなる。

ただ、やる

では、そういう方々、つまり自己効力感は低いが自己肯定感が高い方は、どのように自分の中で処理をしているのだろうか?自分が見てきて気づいた共通点は、「結果にかかわらずやることをやり、やること自体に喜びを見出している」ということだ。

例えば散歩。毎日する。昔はゴルフができた、歩くのだって遅くなった、となっても15分、20分でも歩く。それだけ。それはそれで、日々の達成感は得ている。
料理をする。ただする。外で買ったほうが美味しいし安いなどもわかっているが、ただする。
日記を書く。ただ書く。分量も減ったし書く内容に広がりを欠くようにも感じられる。そうしたことは考えず、ただ書く。

自己効力感が低くなった時に、それを理由に物事を継続することをやめてしまうか、低いままに続けられるか。続けられる人は、自己肯定感を高く保てる。

そして、その際の大きな特徴は、「やる気に満ち溢れていない」ことだ。やる気に満ち溢れていることも当然あるが、それはどちらかというと自己効力感があるときだと思われる。そうでないときも、やる気、意欲、楽しみ、そうしたものと関係なく、ただ身体が動くようなイメージに近い。

これはある一つのことについて書いているが、自己肯定感が高い方は、生活全般に対してそういう姿勢を貫いているように思える。何かができなさそうでも、それに対して特に考えずにやる、ということだ。だから散歩自体がやれなくなっても、それは実は大きなことではなく、目的があればその目的を達成できる代替手段を見つけて、淡々とそれをやる。

無心になるとでも言おうか。ただ目の前のことに集中し、ただ日々を決めたとおりに送る。そのように行動しているのだ。農家の方に高齢者が多いのも、高齢になって農業を始める方が多いのも、わかる気がする。農業は、意欲をもってやるより、ただやるほうが相性がいいようにも思う。

ビジネスにどう活かすか?

ここまでの話をビジネスに活かすことはできるのだろうか?一般的には、ビジネスには自己効力感が重要で、それを上げるための施策を考えましょうというのが一般的でもあるし、昨今の成長のための前提のようなものになっている。であれば、自己効力感から切り離したそのようなことは、考える必要はないのではないか。

自分はそうは思わない。なぜなら、自己効力感はある程度できそうな見込みが立つとき(類似の経験があるときや、類似の他人が成功しているときなど)、周囲が支援してできそうというインプットを与える時などに高く保てるが、必ずしもそうした環境に身を置けない場合があるからだ。

たとえば全く新しく、関係者全員にとって未知の問題があるとき。全員の精神状況にゆとりがなく、周りに優しい言葉を言う余裕が全員にない時。本当にできそうな見込みが低いと客観的に思われる時。そうしたときに成果を生み出せるのは、やる気に関係なく、「ただやる」人なのだ。そしてそれには、自己効力感から切り離されても存在する自己肯定感が必要なのだ、と自分は思う

そしてそうした頑張らない、やる気のない、しかし持ち場を守り、自分がやりたいことに向かって淡々と活動するビジネスマンが、燃え尽きることもなく、過度な期待を相手に持って失望することもなく、最終的に多くの仕事を成し遂げ、信頼を勝ち得ていくのではないだろうか。人生100年時代の勝ちパターンとはそのようなものではないかと考える。

ヤドカリのように生きる

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私事だが、家でヤドカリを飼っている。ヤドカリは頑丈な貝殻があるためか、カニやザリガニなどと比べても行きあたりばったりで、知性的な行動をするのが苦手なように見える。よく岩から落ちるし、自分より大きい相手にも不用意に近づいたりする。
しかし、危険に気づいた瞬間、一瞬で貝殻に潜り、次の瞬間また行動を始める。そして迷いがない。餌を見つけて取ると一心不乱に食べ続ける。足や鋏を失ったり、体が弱っても行動パターンに変化はない。淡々と、自分がすべきことを続けている。

おそらく、そうした生き方を身につけることが、もっとも自己肯定感の高い生き方に通じるのではないだろうか?実証されているわけではないが、そうした確信を持っている。ヤドカリにインタビューができないのが悔やまれる。

神山晃男 株式会社こころみ 代表取締役社長 http://cocolomi.net/