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もしも村上春樹の小説の主人公が80歳だったら その1

カード決済殺し編


やれやれ、と僕は思った。

どうして信用金庫の窓口というものは、灰色の壁土を食べた直後のような表情の行員で埋め尽くされているのだろう?

「先月もお勧めしたかもしれませんけど、この信託を続けるなら自動引き落としがお勧めですよ。」銀縁の眼鏡だけに自分の存在理由を認めているような女子行員が、無表情のまま僕に話かけてきた。グレーの制服に白いカラーシャツ。紺のニットベストが、かろうじて他の行員との違いを示していた。

「自動引き落とし。そういうのは好きじゃないんだよ。なんだか、自分の生活コストが上がってしまう気がするから。」と僕は言った。
「それから、そのニットベスト、とても似合ってるよ。」

彼女の形のいい眉毛が、ピクリと動いた。どうやら僕は間違ったことを言ってしまったらしい。

「あのね。せっかくだからいいこと教えてあげる。好むと好まざるとにかかわらず、私たちは資本主義システムに組み込まれているの。いい?自動引き落としにすると、誰もあなたのもとへ集金に行かずにお金が自動で引き落とされる。年金支給日にここに来なくていいし、私はあなたの話し相手をするために、28歳の冬の貴重な30分を失わなくていいのよ。あなただって、ここへの往復で2時間は使っている。2時間あれば、トマトソースからスパゲッティ・ボンゴレロッソをアルデンテで作ることができるのよ。」

ボンゴレロッソ?どうして80歳にもなってそんなもの食べなくちゃならないんだ?僕はうどんのことを恋しく思った。

「ボンゴレロッソは食べたくない」

「ボンゴレロッソは1つのメタファーよ。あなたはそうやって新しい物を遠ざけている。常に新しいことを試さないと人は成長しないし、人が成長しないと世の中は進歩しないのよ。ねえ、私の言ってることわかる?」

「それが資本主義システムと言うこと?」

「そう。そうやって世の中が回ることで、あなたは年金を受け取って、居間のテレビで好きなウディ・アレンのヴィデオ・テープを観られるの。その年金を誰がどうやって用意してると思っているの?私がこうやって28歳の冬を費やして得る給料の18.3%をあなたは使っているのよ。だからせめて、私の貴重な30分は尊重してほしいわけ。」

確かにウディ・アレンは好きだ。しかし彼はこんな風に資本主義システムに組み込まれていることを知っているのだろうか?だが、と僕は思った。これ以上、こんな会話を続けても彼女を納得させることはできそうにない。彼女の目を見ればそれはわかる。

「オーケイ、君の言いたいことは分かった。だけど僕は自動引き落としはしない。これは交渉や説得でどうにかなるものじゃないんだ。僕のこころの奥深くから来ていて、僕はそれを大事にしたいんだよ」

彼女は大きなため息をついた。あまりに大きなため息だったので、信用金庫にいた行員と客が全員、彼女を注視した。ため息をついた後たっぷり1秒待って、彼女は首を横に振りながら話し始めた。

「わかったわ。あなたが何かを大事にしていることはわかった。私にはそれが大事なものには思えないけど。それじゃあ、こうしましょう。カード払いにするの。そうしたら、あなたはいちいちATMを使わなくていいし、年金支給日に予定を合わせる必要もない。窓口に来て、カードを渡して、金額を確認するだけ。」

「カードは持ってないんだ」

「カードを持ってない?」彼女はキリマンジャロのフラミンゴが聞いたら一斉に飛び立つのではないかというくらい大きな声で僕の言葉を繰り返した。

「カードを持ってないって、1枚も?」

「1枚も」

「楽天カードも?」

「楽天市場で買い物したことないんだ。」

「あなたって、2019年の東京で暮らしているのよね。東京で生活してて楽しいの?」

ふうむ。僕は楽しいのだろうか?だいたい、妻を亡くしたあとの僕は、何をするために日々の暮らしを送っているのだろう?

・・・

そんなやりとりの後、結局僕は信用金庫のカードを作らされることになった。しかし僕にはわかっていた。来月にはまた現金を握りしめて、窓口に行くことだろう。

どうしてカードを使いたくないのだろうか?理由はたくさんある。テクノロジーというやつが信用できない。知らない間にお金を遣いすぎてしまうかもしれない。カードを落としたら、どれだけ悪用されるか分からない。

だけど、本当は理由なんてなくて、ただなんとなく新しいことに挑戦したくないだけかもしれない。新しいことをやろうとして、娘婿に呆れられるのを想像するだけでうんざりする。

やれやれ。80年間生きてきて、僕の中心にあるのはめんどくさいという気持ちなのだろうか?



その晩、僕は彼女と寝た。どうしてそうなったのかはよくわからない。きっと彼女がそれを求めていたんだろう。



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神山晃男 株式会社こころみ 代表取締役社長 http://cocolomi.net/