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カルチャー批評には手を出すな? ~日本全国の「まだ、ヒカキンになれていない若者たち」のために~


(※2019年初頭に書かれ、お蔵入りになったテキストです。固有名詞の取扱いに粗さは残るのですが、当時の問題意識を世に残しておく価値はあるだろうと思って、細部を少しだけ手直しして公表することにしました。)


1.愛すべき「新商品」の敬虔な伝道師たち

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(画像出典:Republic of Korea, Jeon Han

今年で「平成」も終わるというのに、うちの近所にあるスーパーマーケットやコンビニには、何人かの「まだ、ヒカキンになれていない若者たち」が働いている。日本全国にもいるだろう。ぼくが来店するたび、彼らは決まって問いかける。「Tポイントカードはお持ちですか?」

そのうち数人に1人は、もしかするとVtuberとして動画配信を始めていて、毎月の給料日には祈るように「Fate/Grand Order」に課金しているかもしれない。きっと「ポプテピピック」を視聴して、思わずTwitterに感想をつぶやいたことがある。「ゲーム・オブ・スローンズ」を完走していたら強者(つわもの)だ。

「漫画村」や「はちま起稿」には否定的だけれど、「ONE PIECE」は立ち読みで済ませて、「AIの遺電子」は電子書籍で買いそろえ、芥川賞受賞作はブックオフでしか買わない。星野源は肯定も否定もできず、ゴールデンボンバーと岡崎体育のどちらに親近感を抱くべきか迷う。Instagramでフォローする好きな声優はいても、恥ずかしくて「推し」なんて呼べない。

さすがに最終回は観た。だけど「めちゃイケ」も「みなさん(みなおか)」もご無沙汰で、なのに「さんまのお笑い向上委員会」は録画する。同世代なのに四千頭身とフースーヤに若さを感じる。政治ゴシップははてな匿名ダイヤリーで読み、YoutuberのスキャンダルはLINE NEWSで知り、メルカリで古本を売って、「ポケモンGO」はとっくに飽きて、暗号通貨の口座を開設するやり方を気まぐれに調べた休日がある。


2.「俺の屍を越えて行け」とはよく言ったもので

図1:書籍に出現する単語数でみると、さまざまな文化が2000年にインターネットに追い抜かれている。

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(出典:Google N-gram

さすがに脚色したけれど、「そういう暮らし」のひとが、いまの日本のコンテンツ産業を支えているのだろう。東日本大震災と東京オリンピックに挟まれたこの10年を、フェイクニュースとクソリプとビジネス炎上だらけのインターネット上で過ごす若者たち。

彼らは決まって真面目で、さみしがり屋で、ゆるやかな愛情をお気に入りの商品に持ち続ける。じぶんの惚れ込んだ「傑作」がいつか世間に知られるのを待ちわびている。「こころの友」に出会えた夜だけ、禁断の信仰を打ち明けるように、「どこが好きか」を熱心に語り出す。まるで異国に新宗教を布教しに来た、敬虔な伝道師みたいな生き方。

そんな彼らの生き方を、ことさら「新しい」「珍しい」と言いたいんじゃない。1980年代から90年代にかけて流行った文化を点検すれば――「ファイナル・ファンタジー」「ウゴウゴルーガ」「風の谷のナウシカ」「おいしい生活。」「幽々白書」「オレたちひょうきん族」「エヴァンゲリオン」「4時ですよーだ」「ビックリマン」――同じ系譜にあると語られそうな、無数の作品とその熱心なファンたちの「足あと」が見つかるはず。

登美丘高校ダンス部のある女の子が「おばあちゃんに借りた衣装」で1986年生まれのダンス音楽を踊ったように、世代をまたいだリバイバルは、あらゆるジャンルで起きる日常茶飯事。それこそ「能みたいな話」(さらば青春の光)だ。

3.止めてくれるなおっかさん、消えゆく日本の若者たち

図2:よくある話も、図表にすると、凄味が増す。

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(出典:内閣府「子供・若者白書」、総務省「国勢調査」、文部科学省「学校基本調査」)

だけど、ふと思うのは、このままずっと、時代ごとに人気を極めた文化が、ありふれた世代交代をくり返していくだけなのかな。平安歌人にとって四季がそうだったように、定期的なリメイク・ブームが5年とか10年おきに訪れて、みんなでワイワイ楽しめれば、それはそれで幸せなんだろうけど、「そういう暮らし」って、長続きするんだろうか?

ただの杞憂だと思いたいけど、30年前と比べて「若者」は、教育水準が高く、貧乏で、未婚の、犯罪を起こさないマイナー種族になった。大学進学率は50%を下回らず、非正規雇用者は全世代の37.5%を占める。20代の男女は60%以上が未婚で、30歳未満の子供・若者は人口全体の27.1%にまで落ち込んだ。警察白書は高齢者の犯罪が増えているという。

新しい若者文化の担い手となる世代が、どんどんいなくなっているわけだ。

もしも人口分布がその国の支配的な文化を強く決定づけるなら、これから日本で流行する可能性が高いポップカルチャーとは、学生に人気のネット文化なんかじゃなくて、昭和20-30年代(1945-1965年)生まれの男女に愛される懐古趣味のほうだろう。若者の短い青年時代は、介護と育児で忙殺される中高年の穴埋めと下働きに、高齢者に安心・安全と自尊心と居場所を与えることに、より多く費やされるだろう。

この予想が正しいなら、いつの日か「まだ、ヒカキンになれていない若者たち」は、この国が戦後に培った潤沢な娯楽文化を、うまく継承できなくなるかもしれない。

ぷつん、と切れて。耐えかねて。

4.私がオバサンになっても、本当に変わらない?

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(画像出典:Nazmus Khandaker

ヒカキンさんは7分の動画を編集するのに6時間かける。品質低下が怖くて共同作業には踏み切れないと語る。その孤独な苦闘がTVドキュメンタリー番組で放送されたとき、「じぶんの働き方にそっくりだ」と思わずにいられなかったひとは、正直に手をあげなさい。

「好きなことして、生きていく」のは、意外と苦しい。体力、ちから、ぼうぎょ、すばやさ、かしこさ。どれも「武器になる」まで上げなきゃならない。文化芸術が生産性と無縁の営みでいられたのは、少なくとも印刷革命より前の話。コンテンツの消費効率を加速度的に高めていかないと、ぼくらはじぶんたちが生み出す「作品」の深海に沈んだまま、溺れ死んでしまう。

「もの書き」にとって、これは切実な「働き方」の問題だ。「記者、編集者」の人口は2000年をピークにじわじわと減っている。「デザイナー」の人口は1950年代から右肩上がり。コンテンツ産業では、テキストよりもビジュアルの表現技術が雇用を生んでいる。

近頃の「記者、編集者」は、より少ない人員で、より多くの文化トレンドをさばく必要に迫られている。もしくは本業が別にあって、そもそも「記者、編集者」を名乗れていない。村上春樹『ダンス、ダンス、ダンス』の語り手「僕」が、1988年に文筆業を「文化的雪かき」だと自嘲できたのは、まだ「記者、編集者」の人口が成長していた頃の物語だった。「僕」はいまでも「とにかく待っていればいいのだ」と考えているだろうか? 「でも踊るしかないんだよ」と諭した「羊男」を信じて?


5.機械化するコンテンツ消費

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(画像出典:ColiN00B

30年後のいま、「言葉を書く技術」は陳腐化が進み、「作者」は法人として巨大化し、「読者」の機械化は急ピッチで品質改善が行われている。

陳腐化とは、「だれでも簡単にできるようになる」ことをいう。団塊ジュニア世代の哲学者が「データベース消費」という概念を考案したのは、もう15年以上も前のこと。人文学部の予算削減と負の比例をなすように、カルチャー批評の書き方は、塾や学校で先生から教わる「手法」として洗練され、あちこちのメディアに浸透している。

乙女ゲームやソーシャルゲームの現場では、シナリオ構成とキャラクター造形のテンプレートとマニュアルが地道に整備されている。この技術革新はやがて、ハリウッド流の多国籍で多人数の脚本執筆や、Netflixが社内に擁する多言語翻訳体制、Disneyが研究するシナリオ評価のための機械学習アルゴリズム、ゲーミングAIによる作中ミッションの自動生成なども取り込んでいくだろう。

かつて、第二次世界大戦期の大日本帝国では、たった10人の検閲官が毎年2万本の映画を「親の仇をつけ覗ふ様にして見詰めて」いたという(『空気の検閲』より)。たぶんその表情は、FacebookやGoogle検索の有害ページ検知アルゴリズムの育成に携わった、無数の・無名の非正規労働者たちのそれと似ている。そういう仕事は、どんどん機械化されるべきだし、現にようやくそうなってきた。

だからいま、現代文化について何ごとかを語りたいひとには、たとえば角川アスキー総合研究所「Realtime Trend Analytics」の利用をおすすめしたい。Twitter社からNTTデータが仕入れた全量の日本語データを用いて、どんなキーワードが指定期間に人気を集めたのかすぐ分かる。文化的雪かきのための除雪車だ。細かな作業には向かないが、「そういう暮らし」を素手で続けるよりずっと楽になる。

課題はコストだ。月額10万円でAPI利用できるお値打ちな法人向けサービスでも、個人が自腹で導入するのはかなり難しい。人手不足で昇給したとはいえ、日本のコンビニの平均時給は751円~1,036円(タウンワークより)。まじで「死ぬ気で」毎月320時間くらい働いても、年収280万円~396万円にしかならないのだから。

この問題は厄介で、遠からず社会問題になるかもしれない。フェイクニュースによる情報汚染はまだ、医療・健康や政治・報道のジャンルにとどまっている。だけど、若者文化にまでその汚染が進まないと考えるのは楽観的にすぎる。紛いものが世にはびこったとき、その深刻な被害を受けるのは、貧しい暮らしのなかで「お気に入りの商品」を買い支えているのに、コンテンツ消費のさらなる効率化を求められている、日本全国の「まだ、ヒカキンになれていない若者たち」じゃないか?

なのにぼくには、有効な解決策がまだ思いつけない。あらゆるフィクションはフェイクなのだとうそぶいて、「カルチャー批評には手を出すな!」なんて、無責任に放言できたら気楽なのだけど。

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