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「#私の最愛日本文学10選」を生成

以前「#私の最愛海外文学10選」というタグをもとに自分なりの海外文学10作品を選んでみるという記事を書いた。あれも入れたいこれもいれたいで選ぶのが難しかったけど、それが楽しくもあり、ひとつひとつの作品に対して感想を書くのは「なぜその小説を自分は好きなのか」ということを確認する作業にもなってとてもよかった。なので今回は「#私の最愛日本文学10選」を選んでみる。「海外文学10選」は外国の言葉で書かれた小説、というくらいのゆる~い縛りだったのだけど、今回はSFとかミステリーとかをなるべく除外して(なんで除外するかと言うと、それを入れるとそれだけでいっぱいになっちゃうからだ)、文学っぽい作品、というこれまたゆるく曖昧な基準で選んでみた。要するに恣意的な10選なのである。それでもいいよーという方はどうぞお付き合いください。

なお、「#私の最愛海外文学10選」はこちら。


紫式部『源氏物語』

今年読んだ本。この10選をつくるにあたって、入れるにせよ入れないにせよ『源氏物語』は読んどかないとなーと思っていたので、2ヶ月くらいかけてじっくり読んでみた。
結果、
めちゃくちゃ面白かった!
千年前に書かれた物語であることから、いまとは文化や慣習が大きく異なっており、貴族社会についてもはじめは馴染まない点がある。しかし、この物語には、その時間も、慣習をも軽々と超えて伝わってくる「感情」がある。登場する人物それぞれの人間性、それぞれが持つ苦悩、それぞれが持つ願いは、時間や文化の壁をいともたやすく超えるほど鮮烈だ。小さな出来事を積み重ね、大きな出来事に繋げていくストーリーの構成力も(そもそも「構成」という概念がこの時代あったのか?)圧倒的に優れており、各エピソードは魅力的。
【若菜】の帖は、そのひとつの到達点と言えるだろう。それまでの光君の行いが因果応報のように返ってきて、それ以後の未来での出来事にまで深く影響を及ぼしていく。その「渦」の見事さ、その凄まじさに圧倒される。
『源氏物語』の主人公は光源氏だ。しかし作者である紫式部が描こうとしたのはそのような、「渦」そのものだったのではないだろうか。


上田秋成『雨月物語』

私が読んだのは円城塔訳の『雨月物語』。幽霊がよく出てくるお話を集めた本なのですが、それ以外にも幻想譚あり、冒険譚ありと、不思議な説話集といった体裁の本なんです。溝口健二が映画化した『雨月物語』の原作である「浅茅が宿あさじがやど」「蛇性の婬じゃせいのいん」は怪異譚として優れてますし、「菊花の約きくかのちぎり」はちょっとBLみを感じる義兄弟の話で泣けます。「貧福論」はお金についての議論を仏教や戦国武将を絡めて語り尽くす昔話風の『資本論』みたいな話。
1768年に書かれた本なのに、いま読んでもぜんぜんモーマンタイな純粋に面白いお話ばかりなのがまあすごい。円城塔の訳文は読みやすさも格式も備わっており、むずかしさは一切ありません。
モチーフとして論語や詩歌を引用している話もあり、現実の世界から物語の世界に位相をずらしていく流れは静かな海をたゆたうような心地よさがありました。一番好きな話は『夢応の鯉魚むおうのりぎょ』かな。物語を語るということは、つまり夢を見ることなんだなーって。


宮沢賢治『銀河鉄道の夜』

ジョバンニとカムパネルラは銀河鉄道に乗ってそれぞれの愛を語り合う。肉親への愛、隣人への愛、生きる者への愛、死んでゆく者への愛。夜の狭間で繰り広げられる対話には、命についての憐れみにも似た想いが込められている。そうして銀河に流れていく彼らの言葉はいつしか福音としての意味を持ち始め、読者にとっての救いとなる。宮沢賢治が紡ぐ言葉の連なりはまるでキラキラと夜空に輝く星のようだ。それほどまでに『銀河鉄道の夜』が見せる情景は美しい。福音としての対話。残る者と去る者。現実と空想。その考え方を通して見えてくるのは「犠牲」について、そして「幸い」についてだ。彼らの言葉は賛美歌のような神聖さをまとい、優しく、そして雄弁に小説全体を覆っていく。死という別れがこの世にある限り、この物語の永遠性が失われることはないだろう。私にとっても、あなたにとっても、彼らにとっても。


坂口安吾『桜の森の満開の下』

桜の情景が強烈だ。山賊は女を見たとき、桜を連想する。美しさの象徴として。その女と関わることで、山賊は自身が知らなかった世界を知り、流されるように都へとおもむくこととなる。やがてエスカレートしていく女の要求、その要求に答え多くの首を用意する男。どうやら彼には人を殺すことに対する罪悪感は無いようだ。要求は際限なく繰り返され、いつしか退屈を覚えた男は山へ帰りたいと望む。そこからの一連の場面には、この小説の魂となる部分、つまり「孤独」がある。人がもっとも恐れていること、それは孤独なのかもしれない。世にあるあらゆる現象は、いずれ儚く消滅するという諦観と恐怖。
あの鮮やかなラストには、そんな静けさが、空しさが、寂しさがあり、その景色は桜の狂気的な美しさと相まってあまりにも鮮烈だ。花吹雪の中、立ち尽くす男に残されたのは孤独と虚空。人は人と繋がり、それまで知らなかったことを知ることでより孤独を知る。誰の心の中にも桜があり、桜の森の満開の下にはただ虚空が広がっている。その寂しさが、私はとても好きだ。


大江健三郎『万延元年のフットボール』

長く、やりすぎなほど長く続くセンテンスと、美しい比喩表現、そして登場人物の「翻訳口調」。どこを切り取っても常人では成し得ない高い技巧が凝らされており、読んでいて目眩がするほどだ。特に第1章ではその独特の文体が濃厚に発揮されていて、とぐろを巻くような言葉の連なりに酩酊感を覚えることだろう。2章以降はある一定のテンポが生まれ、上記した「翻訳口調」という部分が強調されてくる。この口調のせいで妙な軽さ、そして奇妙さが本作には備わっており、中上健次のどろくさい文体とも、村上春樹の詩的な文体とも違う、この作者にしか出せない「音」が文体から聞こえてくる気がする。

舞台となるのは1960年代の四国。谷間の村に妻と弟とともに訪れた”密三郎”を語り手として、この村で起きた一揆について綴られていく。学生運動に対する内省、戦後からの復興、朝鮮人、天皇、地方に浸透していくスーパーマーケット。時代の転換点を見極め、作者自身が何事かに”ケリ”を付けるために書かれた本作は、熱量、完成度、文章の美しさ、読み物としての純粋な面白さ、すべてが高水準であり、そりゃノーベル賞だって取っちゃうよなあといった感じだ。そういう現代を舞台とした神話がこの小説には書かれている。土俗的で政治的でありながら崇高さも持ち合わせている飛びぬけてすごいやつが。


安部公房『箱男』

ザ・奇書。主体と客体が入り乱れ、空想と現実の境を曖昧にし、そのまま話は突き進んでいく。ネバネバとした手触りと、人肌の熱を一切感じない冷めた温度感。そんな気色の悪い感覚がこの小説には宿っている。正直、文体や構成には作者の迷走も感じられるし、読み終わっても「だから何?」と感じてしまう面がある。しかしこの小説は「見る=見られる」という小説内における登場人物の関係を、「書く=書かれる」という作者と読者の関係性置き換えることで、第四の壁を越えて読者を小説のなかに引き入れることに成功している。それはつまり、箱男なる存在を現実の世に解き放つ状態を作り出す試みなのかもしれない。読むことで現実がグラグラと崩れていく感覚にさせること、それこそが安部公房が本作でやりたかったことな気がする。


村上龍『コインロッカー・ベイビーズ』

暴力的で破壊衝動に満ちた物語、モノローグと台詞が混然一体となった文体、悪趣味に感じられるほど嗜虐的な描写、どれもこれもクセが強くて乗りこなすには気力も体力も必要となる非常にピーキーな小説だ。
初めて読んだ時は、そのエネルギーに圧倒された。ちょっとしたひずみで簡単に壊れてしまいそうな限界ギリギリの感情がキク、ハシ、アネモネ三人からひしひしと伝わり、どうしたら自由自在に生きていけるのだという探求心と渇望が、俺はここで生きているのだという叫びが、小説全体に充満しているように感じられた。
その感触は2回目でも変わらなかった。

「壊せ、殺せ、全てを破壊せよ、赤い汁を吐く硬い人形になるつもりか、破壊を続けろ、街を廃墟に戻せ。」

というキクの台詞に突き動かされるように、後半になるほど物語のテンションはあがり、「終末」の予感もまた強まっていく。その迫力に圧倒される。決して読みやすいわけではないのだが、映像的かつ手加減抜きの文体は読むものに「理解させる」というよりは、「感じさせる」詩のような手触りがあり、作品の高いテンションを維持し続ける。
その分、子どものころのガゼルとのひと時とか、アネモネとキクとの邂逅とか、そういうゆったりとした場面が出てくるとすごく心が休まる。なにか美しく懐かしい情景を”思い返している”ような気持ちよさを読みながらにして覚えてしまうくらいに心地がいい。そういうふり幅をつくることで、より最後のカタルシスは大きくなる。

これは、コインロッカーから生まれ、そこから這い出して必死に生きようとする者たちの話だ。そしてこの物語が持つ激情に胸打たれてしまうのは、コインロッカーとはつまり「世界そのもの」だと言い換えることが可能だからだろう。生まれてきた意味を知りたいと感じること、何かに突き動かされその世界を変えたいとする欲求、そのような押さえつけてきた感情の爆発。各々が少なからず持っているその激情を「再生」させんがために彼らは心臓の音を求め、必死に生に食らいつく。その凄まじいまでの渇きと怒り。
現状のシステムを破壊したいという”熱”。
物語は終盤に近付くにつれ虚構性が強まるが、特異な文体によってグイグイと牽引され、ついにダチュラによって世界が破壊される光景を目撃したとき、同時にハシが「産声」をあげ、終焉を迎える。
アナーキーすぎるし、ピーキーすぎるって。
共感より先に嫌悪感とか意味不明だと感じる可能性の方が高いって。
でも熱は、作品に込められた熱は、確かに伝わってくる。
もしかしたら、その熱を受け取れたのなら十分なのかもしれない。再び生きる縁としての熱を受け取れたのなら。


澁澤龍彥『高丘親王航海記』

濃密、甘美、幻想、官能、陶酔。この心地の良い感覚をなんと言葉にすればいいのだろう。
高丘親王が日本を離れ航海しながら天竺を目指していく7つの不思議な物語。文章そのものから艶やかな色香が放たれていると思えるほど、読んでいて気持ちが良い。ある面では怪異譚でありエロティックでもあるのだけど、それらがまったくいやらしくなく、かといって高尚さみたいな「近づきづらさ」もない。品格と知識を兼ね備え、熟練させた技を持った人間が、遊び半分でころころと転がすように書いた――そんな手触りがこの小説にはある。

作中で高丘親王が体験する出来事のほとんどは最終的に彼の夢である場合が多く、しかしその境界線が淡く描かれることで、実際にが視た光景のように思えてしまう。その優美さ。高丘親王が夢と戯れるように、作者も文章と戯れ、まろやかに読者へもその夢は浸透してくる。
夢の中でそれが夢であることを自覚し、「この夢から目覚めたくない」と思うような。そんな甘い陶酔感。しかしそう感じれば感じるほどに、夢の時間はあっという間に過ぎ去ってしまう。なんてまろやかな小説なのだろう。


村上春樹『ねじまき鳥クロニクル』

話の筋はさほど難しくない。いなくなってしまった妻にもう一度会おうとする男の話。言ってみればそれだけだ。しかし、作中では何かしら面倒な出来事が次々に起こり、ひとつひとつがメタファーになっている様でもある。そしてそれらの出来事は終盤にならないと明確な意味を持ってくれない。流れる時間はひどくゆったりとしているし、「僕」の話だけでなく、間宮中尉が語る「ノモンハン」の話、シナモンが語る「ねじまき鳥」についての話も合間合間で差しはさまれる。それらは互いに影響を及ぼしており、話は余計に錯綜する。夢、回想、手紙、物語、精神世界といった”小説”が得意とする語りを多用することで、戦争の悪を、歴史の悪を、人の心の内にある悪を立ち上がらせているかのようだ。
そうして綴られるのは戦争の傷跡についてだ。正義の存在しないただひたすらに惨い行い。地獄としての戦争。生きながらにして人を死人のような状態へと追いやる死。その悪に「僕」は対面する。ままならない人生の中で、人生に意味を、目的を見つけ、生き抜こうと語り手は動き出す。その、「僕」にとってのモラトリアムが終わる瞬間を、私はとても美しいと思う。


舞城王太郎『好き好き大好き超愛してる』

小説と現実の境界線を取り払うことで愛という祈りを世界全体に広げていこうという試みを持った小説。
恋人を無くした主人公の話から始まり、その後単話形式の寓話が差し挟まれていく。本小説の構成はそのようなものだ。が、それら一見なんの繋がりもないように見える話には、間違いなく意味がある。
物語を語ること、言葉を紡ぐこと、祈るということ。小説という体裁を使い、小説外部へ愛を普遍化させることは出来るのか。この小説の命題はそれなのだ。
柿緒以外の物語は主人公による作中作なのだろう。しかし必ずしも作中作だとは言えない部分もある。書かれる作中作は主人公の人生とは繋がっているようで、繋がっていなさそうな"ゆるい"関係性に留まっている。そのように"ゆるく"主人公の人生と作中作の物語をリンクさせることで、書き手と読み手の主従関係もまた曖昧なものとなり、境界線は消失し始める。小説家の書く物語は作中作と主従の関係性ではなく、並列な存在となり始める。その祈りは、小説という壁を突破し、この小説を読んでいる私も、作者である舞城王太郎でさえも主体と客体の関係から解き放つ意味を持つ。やがて境界線が消滅したとき、その愛は現実世界を漂う祈りとなり、世界を包み込む。だからこの本のタイトルはこれでいい。これくらいでちょうどなのだ。

以上、#私の最愛日本文学10選でした。
海外文学に比べると結構悩んだ。10選の中にどんな作品を入れるのかってその人の小説に対するスタンスを表明するような行為だと思うし、感想を書くのもなかなか難しい。というかずいぶん前に読んだきりで細かい内容を忘れてしまっている作品もあったので読み直していたら、いつの間にかもう5月だ。しかもなんだか感覚的な感想が多くなった気がする。果たしてどこまで小説の面白さや凄さや好きという気持ちがが伝わっているのか、甚だ疑問。でももし、このリストや感想を読んで「こんな小説も好きそう」ってタイトルが思い浮かんだ方がいたら教えてくださると喜びます。作りながら2010年以降の文学作品をあまり読んでないことを痛感しましたし。
てか今年は海外の小説をさっぱり読んでないから下半期はそっちももっと読みたいな。



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