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人は誰だって違ってたっていいじゃないか

華村氏が指摘する差別。

華村氏の実体験に基づくアジア人同士での差別についての考察が興味深い。実際問題、私も同じ中国内でも「上海人以外は人にあらず」「広東人以外は全員北方人」「安徽・河南は人でなし」「台湾人ほーほー言い過ぎ」「香港人普通話下手過ぎ」等の極論はよく耳にする。

フクシマタケシ氏が指摘する差別。

ローカルルールとグローバルスタンダード

最近読んだ橘玲氏の著書「日本人」に面白いことが書いてあった。グローバルスタンダード(空間)についての考察である。

「グローバル空間」には、絶対のルールがある。そこでは、人種差別的な発言は許されない。
グローバル空間では、ローカルルールはグローバルスタンダードに対抗できない。
アメリカ人は、自分たちだけのローカル空間と、異なる人種が同席するグローバル空間をごく自然に切り替える。ローカル空間(内輪)では人種差別的なジョークを連発しても、ひとたびその場がグローバル空間になれば、それに合わせて態度を変えるのが当然のマナーなのだ。
アメリカ企業の能力主義は、利益を最大化するための仕組みではない。それは、「能力以外で労働者を差別してはならない」というグローバル空間のルールのことだ。

つまり、アメリカ人は「アメリカ」という「ローカルルール」内では差別を日常的に行うことがあるが、「グローバル空間」に入ると差別をぴたっとやめるというのである。

日本人だろうが中国人だろうが、アメリカという「ローカルルール」内(アメリカに在住)では差別の対象となり得る。ただ、それが職場となると、それは「グローバル空間」となり、差別をする対象ではなくなり、仕事の能力でその人を量るというわけだ。

自分が勤める会社内でも、基本上海人の社員が多数を占める。上海人同士では、「ローカルルール」が適用され、安徽省は貧乏人でろくなやつがいないとか、河南や湖北は泥棒ばっかりだとか、山東は人に酒ばかり飲ませるろくでもないやつだとかDisるが、そこに外地人(他省)が入ると「グローバル空間」に早変わりし、特定の地域の人への差別発言は一切消える。この点、アメリカ人が使いこなす「グローバルスタンダート(空間)」と非常に似ているなと思ったのである。

翻って日本企業が海外で苦戦している原因についてもさらっと書かれていた。

大規模な海外展開で会社が”グローバル化”した以上、もはや日本人社員をローカルルールで雇用することができなくなったというだけのことだ。

恐らく殆どの日系企業はこの点について理解してない気がする。理解していても「ローカルルール」に拘り失敗する。周りを見ていてもこんな企業や日本人が多い。どこへ行っても日本的な人間関係を求め、日本と同じ仕事のやり方で進めようとし大失敗する。

私がヨーロッパで感じた黄色人種に対する蔑みと差別

現在の妻とヨーロッパで新婚旅行に行った時の話である。最初フランスのパリに行ったのだが、噂に違わぬ治安の悪さだった。目の前で見ず知らずの人のキャリケースが盗まれているのである、これはガチで面食らった笑

パリには結局1週間程いたのだが、観光地、ホテル、飲食店至る所で人種的な違いをまざまざと見せつけられ、白人の有色人種に対する軽蔑をもろに目の当たりすることになったのである。

自分自身、特に不愉快な思いはしなかったのだが、黒人が我々黄色人種をもろに見下げてきた時はさすがに驚いた。パリでうろついている黒人の8割以上が移民か不法入国してるような輩の顔つきで、ガラが悪く、隙あらばこちらの荷物をひったくろうという雰囲気だった。

白人>黒人>その他の有色人種

こういう構造だった。自分は背丈もそこそこあるし、終始鋭い目つきで何かおかしな動きして見ろ、蹴り飛ばすぞというオーラを放っていた上、極真空手のTシャツ来ていたので(フランスは極真人口結構多め)、絡まれることは一度もなかった。

フランス自体、観光地やホテルの人は皆英語+多言語喋れるし、シャイながらも礼儀正しい方が多く、当時の訪仏旅行客が年間6,000万人を超えるだけあって外人慣れしていたし、個人的にはいい印象しかなかった。(パリ滞在中はずっと緊張しぱなっしだったが)

アジア人に対するフランス人の優劣(主観) 中国人<韓国人<日本人    日本は「very lovely country」「アニオタ聖地」「柔道・極真空手の聖地」          中国は金だけ持ってる黄色人種                    韓国人は金はあるが素行が悪い黄色人種                          *これは数人のフランス人と彼らが見る「アジア人」について話をした時に言われた話。私の主観的意見ではない、悪しからず。
ただ、一緒にいた妻は中国籍であり、行く先々で「チャイニーズ」と言うと相手の反応が異様に冷たくなるのとは裏腹に、私が「ジャパニーズ」と言うと「お〜ラブリーカウンチュリー!」と手を握られてめっちゃ喜ばれるギャップを見ていると辛くなってきて、「ジャパンから来ました!」と答えるようになったのは不憫だった

まあ、何が言いたいのか分からなくなってきたが、要は日本の江戸時代の部落制度と一緒で、蔑まされている人々は別の対象を見つけて、自分たちの尊厳を守るために彼らを見下す必要があるということだ。(白人は白人至上主義的なところがあるから別枠、というイメージ)

当時所謂「士農工商」の枠組みの中で、農民は社会的に一番身分が低くて卑しい人達と定められたが、農民達が土地を放棄して逃げてしまうと領主(藩主)は食物が手に入らずお金に換金することが出来ない為、必要以上に彼らを追い込むことはできなかったし、彼らのうっ憤をはらす為に彼らの更に下に「えた・ひにん」という階級を作る必要があった。

ということは、人は常に誰かと自分を比較して「何としてでも」優位に立っておきたいという生き物だと言えそうだ。

フランスの次にスペインのバルセロナに行ったのだが、フランスと比べるとバルセロナは大分ましだったような気がする。

ただ、日本と同じ(日本の場合中国・ベトナム・ミャンマー・インド人が多いかな)で飲食店で働く人々は中南米・南米のスペイン語圏の国々から出稼ぎに来ている人が多く、ペルーやメキシコ、チリ等の国籍の方が多かった。

彼らは、現地のスペイン人(彼らは自分たちをカタルーニャ人と言う)から見下げられていた。出稼ぎに来ている彼らは陽気で気さくでサービス精神旺盛、色々楽しい話や勉強になる話を聞かせてもらったが、「所詮俺たちは出稼ぎだからね、下に見られるのはまあしょうがないよ。俺たちもいちいちそんなの気にしてたら生きていけないよ。お金稼げればいいんだから」と。

この現実を知って、どこに行っても差別というのはあるもんなんだなと痛感したのである。


長くなってしまったが、差別というのは根本的に「誰かが自分と違う」というところから始まり、その「違い」を認めないことから生まれるものだと思う。

人間百人いれば、百人様々であるし、それぞれにバックグラウンドがあり、その人の人生がある。それを人がとやかく言うものでもないし、言うべきでもない。

ただ、頭では分かっていても、人を区別することで差別につなげてしまう。これはもはや、ガンダム世界のテーマの一つである「人は何故戦争を行い殺し合うのか」というところと通じるものがあると思う。

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