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カユのミレニアム・Z・グレーゾーン

某年10月9日 私は命を授かった。



📛幼稚園児編

自我を持ったのは幼稚園児の年中頃だった。
「きのう は なにを したっけ?」から始まった。
【昨日】という存在を知った。次の日には昨日の事を少し覚えてた。

担任の先生は厳しめの女性の先生だった。
何かを忘れて、先生に怒られては泣いてた。
だけど、先生の体の膨らみが気になって触っていた。
それは【胸】だった。柔らかかった。でも分からなかった。
分からなかったから触っていた。
少し硬かった。その触感は今なら分かる【ブラジャー】だった。

🎒小学生編

幼稚園を卒業して小学校に上がった。
幼稚園児の頃に習ったBen●sseのチャ●ンジの付録DVDで
小学校とは…という小学生の一日を知った。
学び・友達・給食…とても楽しい所なんだろうと思った。
 だが現実は違った、学級崩壊だった。
私は男子によくイジメられていた。女子一人のイジメっ子もいた。
ママからお母さんと呼べるようになり、母から
「友達と一緒に遊びなさい。そうすればイジメられないよ。」と
集団行動の助言をしてくれた。だけど私は絵を描くのが好きだった。
最初は、外に出て友達と少し遊んだりした。だけど
外に出ては階段に座って、遊んでいる同年代と上級生を見ていた。
私はアニメキャラクターを良く描いていた。
丸くて蛙の宇宙人【ケロロ軍曹】をベースとしたオリケロも描いていた。

1,2年生は同じ組の同級生だったけど
3,4年生の頃は男子のいじめっ子が多かった。
三年生の時はイケメンな先生がいたが仮病して保健室によく行っていたが
母にバレて怒られた。
呪文「先生に言うから!」をとなえて何とか乗り切っていたが
4年生の頃、悪口を言われて限界が来たように暴力喧嘩をして
3回中引き分け(先生に仲介)だった。先生に連れられて
小学校の相談室に連れて行ってくれたが不在だった。
4年の先生は昔ながらの考えのおばさん先生で少し甲高い声だった。
だけど3,4年同じメンバーの男子が黒板に【ババァ!】とデカデカと
書いたり、ある体育の時間に体当たりをしたりして、その男子生徒達は
サッカーをしていて部活クラブの先生を呼んで見てほしいと
4年担任がお願いしたが、静かになり「なんだ大人しいじゃないか。」と
帰っていってしまい、そしてワッ!っと騒がしくなった。

その担任は怒鳴りすぎて喉にポリープができ、気も病まれて
辞めることになりました。
その後急遽きゅうきょ副校長先生が担当になった。
爽やかな眼鏡男性で少しだけ話したりした思い出がある。
前の先生の時より少し静かだった気がする。それもそう
男性で副校長で担任になったのでイジメが分かれば
多分指導するんだろうなと今となっては分かる。

3年の日焼け眼鏡元気そうな笑顔が素敵だった男性の先生。
4年の前担任おばさん先生…子どもだった私は助けたくても勇気がなかった。
途中から副校長先生が担任になって、少しだけ静かになったけど
少しだけ複雑な気持ちだった気がする。面食いだったのかもしれない。
 前担任は、今何しているのだろうと当時ながら思っていた。
余生を過ごして心が休まるといいなと願ったのかもしれない…。

5,6年生になると、母に相談していじめっ子を少なめにしてくれるよう
クラス替えで掛け合ってくれたのもあっていじめっ子メンバーが
少なくなった…がイジメてくる奴らはいたし新人もいた。
担任は活発な気が強い女性先生だった。
こんな女性になりたいと思ったし憧れていた。

自由帳で友達と話していたなか、一人の男子いじめっ子(K)が
仲に入ってきて話の中で自由帳に一つの落書きを描かれた。
だけど当時の私にとっては【いじめっ子に私の自由帳に絵を描かれた】
だけなのに嫌な気持ちになって友達と一緒に先生に【描かれた!】と
半べそをかきながらうった訴えた…
その光景を見ていた男子いじめっ子らがその後、いじめっ子らが
なぜがその自由帳に描いたいじめっ子(K)をやり返した事を
私に伝えてきて、そのいじめっ子(K)が泣き暴れている光景を見て
当時の私は困惑した。
誰もが知っているアニメキャラクターを描かれたぐらいで
嫌がった幼い私でも、知っているキャラを描いてくれたに違いないが
先生に叱られるくらいが良かった…でも
いじめっ子らが、いじめっ子(K)を
やり返すのと誇らしげに報告しに来たことに
頭が追い付けていなかったが「あ、ありがとう…?」と口にしていた。
幼すぎたのだ。

虐待

幼稚園児~小学3年生までBen●sseをしていたが
母から暴力を振るわれていた。
まだ小学校を上がる前に一度【数字を何とかする】
そろえるじゃなくて【何とかする】。
この何とかが分からなかった。書かれていたはずなのに分からなかった。
書かれている数字を同じように書いたら母に
殴られた、蹴られた、首絞められたりした。
1,2年生は義祖父母(ジージとバーバ)の所に避難したりしていた。

ある3年生の頃、同じように殴られ蹴られた後に強く首を絞められた。
母の怒号と共に圧迫される首、母が私の首を絞める腕を掴み必死に
抵抗しようと「う゛ぅう~~~!!!」っと
歯を食いしばりながらうなった。その時だった。
一瞬未来の様なものが見えた。青空の様な色の背景に集中線が素早く動き
自分の人生の先のような記憶が丸い映像でバババッと流れてくる。
それでハッと現実に返ってきて、私が死んだんじゃないかと母が少しだけ
首を絞める力を緩めていた…だが私が意識を取り戻したと分かった途端
また首を絞めてきて【もうだめだ…!】と思った時、父が帰ってきて
「お前何やってるんだ!!!」と母を叱り、私は
二階に避難させてくれました。その後疲れて眠ったが眠る前に母から
「寝たら●す!」と言われた後の事…次の日には、もう一つの学校の
特別支援級の教室に通うようになっていて内心「?!?」と
なりながら連れて行ってくれました。両親で
前に相談して決めていた様で、私も「うん」とか言っていたみたいで
違う次元から飛んできたのではないかとも思った。今となっても
聞き直しても同じでパラレルワールドなのではないかと思ってしまいます。

母は「若かったから手をあげてちゃった…ごめんね…。」と
謝ってくれました。

将来の夢

小学6年の時、将来の夢で【ケーキ屋さん】か【漫画家さん】の
どちらかを発表するのを決めるので、【漫画家さん】は母が
漫画のアシスタント経験者で「〆切が一番つらい」と聞き
【ケーキ屋さん】は「目分量が~、数学が必要~」とか言われて
数学が苦手な私は、どちらの夢を諦めて発表したのが
【コンビニの店員】
…なぜそうなった。

📒中学生(特別支援級)編

小学校を卒業して中学校は特別支援級のクラスで三年過ごしました。
三年の先輩(N)から漫画アニメオタク文化を知り、先輩の家に
遊びに行ったりした。
二年生の先輩(S)は元気で芸能人の大●洋さんの真似をしていた。
真似をしていて嫌じゃないくらいピッタリで面白い真似でした。
中学一年の私にとっては憧れの先輩でした。

二年生になったある日、三年生になった先輩方で
一人嫌な先輩(H)がいました。体育の時間前の更衣室で
S先輩がお腹の手術をするので、不安をこぼしていたところに
H先輩が「手術ぐらいでビビッてちゃ、まだまだね!」と偉そうに
言ってきてS先輩が言い返したりしたが、H先輩は聞く耳持たず
S先輩は着替え終えて先に教室に戻っていった後、私が
「手術がもし失敗したら死ぬかもしれないのになぜ偉そうに言うの?!」
とH先輩に問うたけど「たかが手術でしょ?失敗しなければいいじゃん」と
言われてカチンときた私はH先輩を壁際まで追いやって先輩が尻もちをつき
私は先輩の顔を蹴ってしまった。先輩は「痛いよーっ!」と大泣きし、私も
怒りの焼け野原に雨が降るような涙を流して泣いた。担任が来て
訳を話して、お互い謝り、私はH先輩の顔面を蹴った事を詫びる為
母と一緒に決めたお詫びの【イチゴのノート】をH先輩に渡し再び謝った。

…そこからH先輩は【雨降って地固まる】の如く、へりくだるようになった。
ある日、掃除場所を決める時間で、場所は【女子トイレ】で
H先輩と同年の虚言癖がある先輩とのグループが一時決まった時
H先輩が「こんなヤツとのグループはヤダ!Sちゃんとが良い!!」と
大声で怒っていて、話し合いタイムになりS先輩から
「カユ、Hとのグループになってくんないか?
おれヤダよHとトイレ掃除は…」と言われましたが私が
その立場だったらと考えた…のとS先輩の為・手助けしたと考えたら
嬉しく思えたので引き受けてグループチェンジしたらH先輩が
安堵した顔になり、無事に決まり掃除もできました。

中学三年は後輩たちの面倒を見たり、高校受験の勉強・面接の練習をした。
特別支援学校の第一、二希望の学校名を記入した。
(第三の欄もあったけど書いてなかった気がします。)

第一が良かったものの、テスト用紙の裏面がある事を知らず
まだ皆書いている音を聞いてやっと気づいたが少ししか書けれなかっり
練習した面接を途中から頭が真っ白になり、学校の
座右の銘の意味を聞かれて「え、あっ…」と言葉が詰まり
【分かりません】が言えず黙ってしまった。結果不合格。
第二では、簡単なテストと面接では保護者(父)が付いていたのと
バスケ部がある事に喜んだ…第二希望に合格しました。

中学生の自分、物語キャラクターをポンポン生み出していた

フリーホラーゲームにハマっていた私は
自分で考えた物語のキャラクターを描いてたりしていた。
中学の頃の私はアイディアがポンポン出てきて話が渋滞していた。
そして三年生の時、一気にリセットして忘れました。
BLのRPGエロゲ風なキャラクターを描いてたりしたな…

🏫高校生(特別支援学校)編

第二希望の特別支援高等学校に決まり、クラスでは
A~Dの区分の中で私はDクラスで九組でした。
Aは重度、Bは重度の中間、Cは軽度の中間、Dは軽度だった気がします。
三年間同じクラスメイトでした。

私は聴覚過敏と完璧主義だった事もあり
大きい声には驚き+どうでもいいひとり言のそれが混ざり続くと
怒りを爆発させて怒鳴り散らかしては怒りを鎮めるために泣いた。
ミスしたら癇癪かんしゃくで歯を食いしばり、太ももを叩いたりした。

学業と【職業訓練】という職場訓練授業があった。
一年生は色々な職業訓練を学び、二年生は3つに絞り
三年生は1つに絞り決めるものでした。

清掃(おそうじ)、接客(カフェ)、食品加工(クッキー作り)
事務(パソコンと書類)、管理(学校(職場)内の備品整備)

の中で、私は二年生の頃は食品加工、事務、接客をして
三年生では事務に決めました。
 食品加工と接客は後に掃除するのがあり、事務では
 最小限の掃除をしました。

🍪食品加工

食品加工のクッキー作りでは、クッキーを作る事をしました。
材料を取り集めて説明書通りに作って型取ってオーブンに入れている間
容器を洗って焼きあがったらタッパーに入れて冷凍庫に入れる。
接客班カフェからクッキーの補充を依頼されたらあるか確かめて
クッキーをタッパーで手渡したり、クッキー袋詰めの補充もあり
袋にクッキーを詰めたりしました。

…ですが、その女性担任は最初は強く言う人でした。
私も私で「抹茶パウダーがないなら別のを作るか~」っと
呑気に決めようとしたら強めの口調で怒鳴られ私は固まってしまった。
次の日、順序じゅんじょだったか洗い残しがある事だったかで
強い口調で怒鳴って詰め寄られて、私は食品加工室の更衣室で
気を落ち着かせていました。…次怒られたら…と
怒りと殺意がある次の日には、その担任は
優しく注意するようになっていました。それを受けた私は
驚いていました。なぜ急に優しく注意するようになったのか…

今となって訪問看護師さんと話していて、多分
誰かが報告して指導を受けたのか、先生同士で相談して
接し方が分かったから優しくなったのか説を聞いて納得しました。
 その女性担任は白目にホクロがある特徴的な先生でした。

☕接客(カフェ)

校門近くで営業しているカフェで、電子ピアノが自動演奏で
室内に雰囲気を奏でて入り口付近で生徒スタッフが待機して
お客様が来たら順番に席にご案内する感じでした。
(昔はそうでしたけど新校舎になってからは変わったと思われます。)

【本日のコーヒー】の紹介表にイラストを描く機会がありました…が
私はキャラクターを描いていました。今となっては
植物系が良かったのではないかと思えてます。なぜかと言うと
接客担任が転任なのか変わってしまったからです。もしかしたら
私がコーヒー表をダメにしてしまったからなのではないかと思ってます。
ストーリーを取り入れたキャラクター絵を描いてしまったから…?
今となって分かりませんが、少しだけ後悔してます。

💻事務

名刺作り、学校のお便りのコピー機書類まとめ
切手取り除き、ホッチキス止め、住所シール貼り
封筒100枚数え十字重ね、職員室のコピー用紙補充
データ入力、シュレッダーをやっていました。

パソコンで名刺や住所(シール紙)を入力したりしました。
切手取り除きはコレクターの為にできるだけ破れずに
水の入った器で取り除く作業でした。これが一番苦手でした。
他は楽しかったです。…あの頃は。

職場実習

高校二年の時、初めて企業の実習を受けれる時期になり
最初はカメラの有名企業の事務班で
コピー紙補充、書類順番まとめ、データ入力
シュレッダーをしていました。ですが体調管理が
できておらず夜遅くまで起きてたり、書類順番まとめでは
任された仕事だと自信満々に書類を机に並べて時間はかかったが
なんとか書類を順番に揃えまとめれた事に満足していた。途中から
世話係が「大丈夫?」と声を掛けられて私は「はい大丈夫です!」
と誇らしげに返事をした。あの時どうすればいいか聞きに行くということを
しておけばよかったと思えてくる報連相ほうれんそうが足りてなかった。

その後の二、三年生では入社希望の食品管理会社の事務作業が
3回ほど呼ばれることがあり私も家族も良い就職先として希望を持てた時に
私はヘマをした。体調管理【夜遅くまで起きてた睡眠不足】を仕出かした。
3回目の最終日には、うたた寝をして間違ったカ所の謝罪より
どこで間違ってしまったのかという思考に囚われて
硬直こうちょくしてしまった事、遊び心を忘れないで
ティッシュチラシをピラミッド積みにした事の3点をして
最終日の会社と担任と保護者(父)との面談では
不採用を言い渡されました。

自業自得ではあるが、働きたいと思っていた会社に
落ちた感覚は忘れられない。希望が絶望に変わった。
働く意味を見失った。学校へ行く意味を無くした。

そして不登校へ

行きたかった会社に落ちた次の日、放心状態で
授業を受け、職業訓練授業では落ちた事へのトラウマが蘇り
トイレに駆け込んでは泣いていた。事務作業の担任がトイレに来て
「大丈夫?具合悪い?」と声をかけてくれた。反射的に
「大丈夫です」と私は言ってしまいましたが泣いていたのもあり
保健室に行って休んだりしました。

その次の日、学校に行くのが嫌になり仮病を使い、二日間は
自ら連絡をしていましたが三日目になると面倒になり
連絡する事をやめて近場の公園ベンチに腰掛けて
ぼーっとしていたら学校や家から連絡きていた。
学校からの留守電では「どこにいるの?返事待ってます!」と
家からは母が「家に帰っておいで、ゲームしていいから!」と
心配している言葉で連絡をしてくれました。私は最初に家に連絡して
家の近くの公園にいる事を伝えて帰ってきました。その後母は
私が家に帰ってきた事を学校に連絡をしてくれました…でも次の日も
連絡せず公園のベンチにいて心配をかけてしまって
同じことをするかもしれないと思った学校や母は、最初は連絡してましたが
その後同じことだと思い、しばらく休んでました。

新年を迎えた三年の三学期の1月に学校から
登校日数を稼ぐ為に一室空き部屋を提供して、そこで
過ごしていいという話を久々に学校に来た私に言ってくれました。
担任の髪の色が増えていたのを覚えている。

朝9時には登校して一室に行き、絵を描いたり動画を見たり
ゲームを少ししたりして過ごしていた。給食時は食堂には行かず
一室で食べていた。友達が「一緒に給食食べたい」と言ってきた時は
招いて音楽を掛けながら食べたりしていた。
最初は制服だったが私服の方が落ち着くようになり卒業式前までは
私服登校してました。
 卒業前にもう一軒の職場実習を受けたのが家から近い福祉作業所でした。
そこには無事に通えて、卒業後の就職先に決まりました…。

😱二次障害発生

無事に高校卒業して福祉作業所の中でA,B型の中で私はA型の方で
就職訓練を受けて就職できるようにする半分訓練と稼ぎを
同時にやる感じなものでした。
データ入力・ハンコ推し・検尿パック折り畳み等をしていた。
…だがB型の人達の声が聞こえてきた。
突然の叫び声、朝ドラの話、ひとり言…耳栓やイヤーマフを付けたりは
していたが曇った声がかすかに聞こえてしまい気になって
集中できなかった。ヘッドホンで音楽を聴けてたら
作業ははかどったに違いないけど、相談したらダメだった。
そして2週間経たずで作業所に行くのをやめてしまった。
 カウンセリングがあるとき以外は行かなかった。
そして、3年間の契約期間が終えてしまった。

その後、福祉課の人や
母が利用している精神科メンタルクリニックや訪問看護師さんとも出会ったりして
福祉サービスを受けながら生きる力を時間をかけて立て直したり
してきました。

💬おまけ話

・幼稚園に上がる前の私は
 ある日ヨーグルトをシャンプーの泡と同じ色だと思い
 ヨーグルトを頭に塗りたくった思い出がある。
(母から聞いて朧気おぼろげながらに覚えていた。)

・お金に目がくらんだ私は明るいサイトに騙されて
 約3,000円を盗られた事があり、その苛立いらだちから
 詐欺師キャラクターを描き生み出した。

・会社に落ちたショックは、例えると悩み考えたものがループしていて
 それはミキサーの如く「ギュウィーン、ウィンウィンウィン」としたのが
 続いて食べたものを吐いてしまう事が多々あったが精神科に行き
 薬を飲み続けたらおさまるようにはなった。けど、人間はマイナスな悩みが
出てくるもので、私は記憶がフラッシュバックするので不安になったら
お薬を飲むようにしている。

最後に

私カユの幼稚園~福祉作業所入所したまでを書きました。
今現在わたしはお酒が飲める歳になっています。
同年代の芸能人が出てきていて羨ましいとも思えたりします。

それと私は軽度の広汎性発達障害こうはんせいはったつしょうがいという障害を持っています。
何不自由なく見えたりしてますが、グレーゾーンで
健常者に見えたりするくらい普通に見える姿です。
 私は誰よりも完璧で優れている存在だと思った時がありましたが
 中学の時、とある事件を見て「あぁ、私も同じなんだな…」と思い
 私は完璧じゃない事を自覚しました。

私は今も働きたいと思っていても、いざとなった途端
フラッシュバックして身動きが取れなくなり涙を流してしまい
息が苦しくなることがあります。

でも今年2024年度に新しい場所に通っています。
同じくB型ではあるものの、家のような居心地と
【芸術がある家】というサブタイトルがあるカフェと作業所で
ヘッドホンで曲が聴けたり、絵を描いたりできる
場所を見つけました。自由に過ごせる場所が私にピッタリでした。
表現できるB型作業所で良かった。今はそこに通っています。
そこで無理せずに行きたいときに行けれるので気軽に行けれます。
社会もこれぐらいだったら
より過ごしやすくなるんじゃないかとも思えてきます。
子ども・障害者・自分探しをしている若者などが主にいて
子ども食堂を開いている場所でとても賑やかです。

ここまで読んでいただきありがとうございます。
つたない文章だったかもしれませんが、最後の最後に一言を書きます。

私と言う存在を知ってほしい…とは少しありますが
無理に理解しようとしなくても大丈夫です。
こういう人がいるんだな…と気軽に思ってくれたら嬉しいです。

私の人生まだまだこれからです。
まだ見ぬ推しキャラが見たい!イラストで収益を得たい!
弱音を吐きながらも寿命まで生きていこうと思います!

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