宮台真司、東浩紀――その「社会思想」の大罪(『m9』第1号)

はじめに

※投げ銭用に有料記事にしています。

本稿は、2008年に発売された『m9』(晋遊舎)第1号所収の「宮台真司、東浩紀――若者の「理解者」こそ若者の「敵」 インチキ「若者」論の現況はコイツらだ!!」を改題の上転載したものです。なお、転載にあたっては『虚構と虚妄の「若者のリアル」(SNS叢書3巻)』をベースにしております。

単なる若者批判から自己責任の「押しつけ」へ

「フリーター」「パラサイト・シングル」「ニート」――何らかの理由で定職に就いていない、あるいは家庭を離れることができない若者を指すための言葉として生まれたこれらの言葉は、いずれもほとんど同じ来歴をたどっている。まず、これらの言葉は、「怠けている」若者を象徴している言葉として、「親と同居している若者は税金を多く払え」「定職に就けないのは自己責任だ」という具合に、若者を攻撃するために使われた。また、それらの「なんだかよくわからないけれど、今の若者の「病理」を表しているらしい言葉」は、ちょっとばかり若者論を語って現代社会を嘆いてみせたい「識者」や政治家にとっても、彼らの目的を果たすためには大変都合のいい言葉として用いられている。

例えば小沢一郎は、平成17年に、自らのウェブサイトにおいて、「ニート」についてこのように述べている。曰く、

本人たちは「誰の迷惑にもなっていない」と言うかもしれないが、親の稼ぎで食わしてもらっているうえ、国民全体で支える公共的サービスは享受している。病気でもない働き盛りの若者が、漠然と他人に寄生して生きているなど、とんでもない。
自分の力で生きようとしない彼ら自身も問題だが、最も責任が重いのは厳しいシツケもせずに、ただ甘やかせている親たち。どうかしている。親自身が自立していないから、子供がまともに育たないのである。
(略)
僕に言わせれば対策は簡単だ。一定の猶予を与えて、親が子供を家から追い出せばいい。無理矢理でも自分の力で人生を生きさせるのだ。追い詰められれば、彼らも必死に考えて行動するはずだ。

http://www.ozawa-ichiro.jp/massmedia/contents/fuji/2005/fuji20050419134025.html

その後、小沢の発言に代表されるような、このような類の言説に対し、一部の学者や論者が統計などを用いて通説に異議を唱える(例えば、働く意欲がないとされる「ニート」は決して増加しているわけではないことは、内閣府の「青少年の就労に関する研究調査」で確認することができ、これが「ニート」バッシングに対する反証としてよく用いられている)。そして、このような主張が優勢になると、マスコミなどは、若者を叩くために格好の言葉を再び探り当てる(例えば、フリーター叩きに対して、玄田有史が『仕事のなかの曖昧な不安』(中公文庫)で批判したが、今度はその玄田が「ニート」概念を紹介したことにより、先の小沢に見られるようなバッシング言説が再び息を吹き返したことなど)。

このようなことが、ここ10年の間に繰り返されてきた。もちろんこのような動きは(結果的には)不毛なものではなく、実証的な研究や統計を通じた議論は、現代の若者がいかなる環境を生きてきているかという研究を深化させる方向に役立っている。

「フリーター」や「ニート」といった言葉は、その言葉が持つ社会的な背景を、労働統計などを通じて明らかにすることによって、無害化することが可能であった。だが、ここ数年、そのような形での無害化が不可能な議論が生まれてきた。そしてそれらの議論は、旧来の「フリーター」「ニート」叩きよりもより残酷に、若者たちに自己責任を押しつけるものとなっている。

「格差のドアが閉じていく」ってホントか?

そのような言説の特徴として何よりも真っ先に挙げられるのが、この類の言説の発信者が、若者の「理解者」を前面に押し出していることだろう。従来の「フリーター」「ニート」叩きを行なうものたちは、若者を頭ごなしに否定するけれども、彼らはそうではなく、むしろ多くの若者の「現実」を知っているものとして発言している。そして、就業構造や不景気などの、いわば「格差」を語る上で「古典的」な問題は、子供や若者の心情や「現実」を反映していないものとして簡単に棄却される。

典型的なのが速水由紀子の『「つながり」という危ない快楽』(筑摩書房)だろう。速水は以下のように述べる。

フリーターが200万人に達しているのは、必ずしも求人難や不況のためばかりではない。思春期に明確な反抗期が現れない若者が増加しているが、むしろ20代になっても30代になっても親世代が描き出す「ダブル・バインド」の社会に長い反抗が続いている状態、と思えてならない。

速水由紀子『「つながり」という危ない快楽』(筑摩書房)pp.13-14

このように宣言された速水の言説においては、若者を巡る「格差」の問題は、経済や就労構造の問題ではなく、若者がどのような「コミュニティ」に属するか、ということで決まる、と述べている。「コミュニティ」についての詳細な説明は省くが、要はコミュニケーション能力を重点に置いた分析だ。

つまり、「上流」を目指す、野心に溢れ、世界的な市場を目指すような一部の若者と、その場しのぎの生活にこだわるような大多数の若者(「下流社会」!)の、いわば「二極分化」である。このようにして速水は、「格差」の問題は、このような「コミュニティ」の移動を担保するようなものがないことであるというように論ずる。同書のサブタイトルである「格差のドアが閉じていく」ということである。そして同書においては、「「NANA」はいつになったら最後の男に落ち着くのか」「オタクを社会化する方法」「エリートの正しい資質は『DEATH NOTE』に学べ」といった調子で、表象的な作品論と若者を巡る社会情勢がいとも簡単に結びつけられる。

コミュニケーション能力論の陥穽を理解せよ

若者ではなく、子供に対して焦点を当てたのが、渋井哲也と三浦宏文の『絶対弱者』(長崎出版)である。同書の中で、特に三浦は、塾講師としての経験から、近年、指導が難しい子供が増えたと述べている。彼らの特徴として三浦が挙げるのが、社会的なコミュニケーション能力が不足しているのに、自分は他人よりも極端に優れていると思いこんでいる、ということである。そういう子供たちは、三浦にとっては、今までの経験では指導は難しいらしい。確かに、三浦の提示するような事例を読めば、今はこんな子供が増えている時代なのか、と考える「気にはなる」。だが、三浦はこのような「絶対弱者」と三浦が勝手に名付けた子供たちが「増えている」と煽るだけで、それを実証的に証明しているわけではない。

そもそも同書における「絶対弱者」なるカテゴリーに属する人たちは、公的な福祉を受けることはできないけれども(要するに、生活保護などを受けなければならないほどの貧困に陥っているわけではない、など)、確実に「弱者」に落ちていくであろう存在であるとされている。渋井らは、現在の生活水準ではなく、むしろ将来貧困などに陥ってしまうようなライフコースを歩んでしまう「かもしれない」(要するに、自意識が肥大化したり、あるいはコミュニケーション能力の不足によって「ニート」になってしまう、など)ところに「弱者」かそうでないかの基準をおいているように見える。だが、渋井らの「弱者」観にもかなり問題があり、そういった見方に立つ限り、例えば、多くの子供たちや若年層が、「まだ働ける」などの理由でどうしても必要な生活保護を受けられないような問題が起こっていること(大山典宏『生活保護vs. ワーキングプア』PHP新書など)など、まさに経済的な貧困が引き起こしている若年層の問題から目を遠ざけてしまう危険性が高い。

だが、同書の中でも特に重要な主張は、次のようなものであろう。渋井の発言だ。

(略)だけど絶対弱者は病気じゃないんですよね。(略)しかも、ニート・フリーターだけでなく、正社員の層にもいる。経済的な階層とは無関係に存在するんです。ただ、階層や所属によって現れ方は違ってきます。

渋井哲也、三浦宏文『絶対弱者』(長崎出版))p.194

渋井はここで、やはり階層の問題は関係ないんだ、あくまでも若年層全体に蔓延する心性の問題なんだ、ということを語っている。ここにも、速水の言説で見たような、今の子供や若者の「格差」問題の根源は、経済的な問題ではなく彼らのコミュニケーション能力の問題であるという認識を見ることができる。

さて、これらのような、近年になって台頭してきた「格差」論の特徴は、以下のようにまとめることができる。

第一に、経済的な背景、ないし就労構造の問題を簡単に棄却し、子供や若者におけるコミュニケーション能力の劣化、変化こそが問題であるとする。これについてはここまで説明してきたので割愛しよう。

第二に、「ニート」やフリーター等の問題は、当然経済的な問題ではないが、だからといって「一部の怠けている若者」の問題でもない。そうではなく、子供や若者全体が「ニート」、フリーターのような不安定な人生観を持っている、と述べる。

第三に、「旬」のサブカルチャーに対する、表象的な作品論を、さも時代の「空気」を代弁しているかのように熱心に採り上げる。例えば速水の著書においては「NANA」や「DEATH NOTE」などが採り上げられており、渋井らの著書においても、谷川流の『涼宮ハルヒの憂鬱』(角川スニーカー文庫)が現代の若者の心性を象徴する作品として採り上げられている。だがいずれの作品も、おそらく彼らの著書の執筆時において話題となっていた作品であるに過ぎないのである。

そして最後に、「二極化」こそが問題だと主張する。

それでは、なぜこのような言説が台頭してきたのか。第一の特徴についてはここまで述べてきたとおりであるので、第二以降の特徴について着目することとしよう。

若者に関する「疑似問題」が再生される構図とは

ここで注意しなければならないのが、90年代中盤以降の若者論の動きだ。1995年、オウム真理教の事件をめぐる言説において活躍した宮台真司は、著書『終わりなき日常を生きろ』(ちくま文庫)において、オウム事件などの「現代的」な問題の背景には社会の不安定化(成熟社会化)があり、それに合わせて生きるしかない、ということを述べるようになった。そのような時代背景に青少年問題の原因を求めた言説は、当時においては新鮮だったかもしれない。しかしその後の宮台の振る舞いを見る限りでは、それらの言説は結局のところ少年犯罪、あるいは青少年全体に対する不信や不安を煽ったに過ぎない。現に宮台は1998年頃より、最近の少年犯罪は「反社会的」なのではなく「脱社会的」なのだ、ということを、さしたる根拠に基づかないまま煽っている。

さらに2000年代に入ると、東浩紀の『動物化するポストモダン』によって、若年層における「動物化」や「ポストモダン」化が指摘されるようになり――実際にはこれらの言説を展開している論者が、現代の主としてオタクの心性を代弁していると規定している作品に対する、単なる作品論に過ぎないのであるが――現代の若者がこれまでの大人たちとは全く違うような時代背景を生きているのではないかということが「再発見」されるようになった。それ以降、表象的な作品論がさも実証的な若者論であるかのように誤解され、流通するようになった。

要するに、90年代後半以降、若い世代に対して、何らかの新奇な概念を用いて、彼らの「現実」について知ったつもりになることこそが、まさに若者論の重要な役割であると誤解されたのだ。そのような過程で、経済統計などを用いた実証的な研究は軽視され、逆に一部の論者の思い思いの解釈合戦が、若者の「現実」を示していると誤解されるようになった。故に、若者をめぐる様々なデータや、あるいはその分析を用いた検討、検証よりも、今の若い世代はこういう時代を生きてきたからこうなっているに違いない、という(本来であれば量的、あるいは質的データを分析する際に用いるべき)視点ばかりが肥大化したのであった。さらにそのような視点の肥大化は、政治的、あるいは経済的に解決すべき問題を、全て若者の「心」の問題に追いやってしまった。

昨今流通する的外れな「格差」論は、まさにこのような状況の中で生まれたのである。そしてフリーターや「ニート」などの、若年層の経済格差や貧困をめぐる論議――本来実証的に研究されてきた分野だが――が深まってくると、若者論はその議論の構造を換骨奪胎し、若者におけるこれまでとは違う「現実」や「リアリティ」の認識こそが「格差」を生み出したのだ、というようになったわけだ。若者における「格差」をめぐる論議で、やたらと「二極化」(上流と下流、勝ち組と負け組など)が強調されるのもこのためだ。
彼らは「平等」であるはずの我が国において、なぜ起業などでたくさん稼ぐ若者といくら働いてもなかなか稼げない若者がいるのかということを、単純な世代論のみで考えることについては熱心である。しかし、彼らは貧困の生み出される過程や環境などについての分析は二の次にして、現在「貧困」のまっただ中を生きている人たちに対する、社会保障などによる救済などは考えもしていない。

だが、このような若者論の流れは、結局のところ疑似問題を再生産し続けているものでしかない。それどころか、このような疑似問題の再生産が、我が国の若者論をむしばみ続けてきた。社会経済的な背景、あるいは教育などの政策の検討も行なわれないまま、若者のあらゆる行動が短絡的に「大きな物語」に結びつける若者論がさも思想の最先端であるかの如く位置づけられることによって、若者をめぐる問題の解決が遠ざけられてきたのだ(なお、筆者が90年代後半から現在における若者論のこのような変化に関する黒幕であると考えている宮台真司については、拙稿「さらば宮台真司――脱「90年代」の思想」(前章)で述べているので、是非参照されたし)。

変貌する「自己責任」論に現状を解決する力はない

若者の問題が全て彼らの意欲やコミュニケーション能力の問題として処理されることによって、どのような事態が生じるだろうか。

私は、これらの言説が広く流布することによって、若年層に対する「自己責任」論がさらに強まるのではないかと考えている。そもそもこのような言説は、経済的な背景や教育などによる財の再配分の問題を無視して、安易な世代論や、あるいは「現代の若者はこれこれこういう時代を生きてきたから、自分たちとは違った心性を持っているのだ」といった、極めて宿命論的な言説に流れてしまっている。そしてそのような言説が、若者の問題に対して実証的な視点で検討を行なうことに対する諦めや距離感を生み出し、疑似問題が延々と再生産される危険性は、極めて高い。

このような事態の一端を示しているのが「ネオニート」論である。「ネオニート」とは、今一生の『親より稼ぐネオニート』(扶桑社新書)によれば、株などで不労所得を得たり、新しいビジネスチャンスを開拓することによって「ニート」から脱却したものを指すらしい。今などは彼らについて、このようにして所得を得るような若者を新時代の革命児ともてはやす一方で、そのようになる前の、あるいは何らかの理由でなれなかったであろう若者に対しては、意欲がなく堕落した存在であるかの如く描く(ちなみに同書においては、今が取り扱っている「ネオニート」の世代的特徴として「ヲタク」(こういう言葉を使っている時点で、同書のレベルが窺えるのは私だけだろう)世代であることを強調しており、作品論ではないものの、前々項で述べた新しいタイプの「格差」言説における第三の特徴を見事に示している)。
だが、冷静になって考えてみれば、同書でもてはやされているような「ネオニート」になれるような人は、極めて少ないのではないだろうか。さらに、同書においては、「ニート」を脱却して「ネオニート」になる意欲がもてはやされているが、そのような意欲を奪われている、あるいは普通に就業したいと考えているような人たちに対しては、著者はどのように考えているのだろうか。

結局、「ネオニート」論というのは、今などの想定する成功者ではない人間に対しては、極めて残酷な自己責任論にしかならないだろう。そもそも本稿で取り扱った新しいタイプの「格差」論は、既存の「ニート」バッシングのように、ある特定の層に対して痛撃を食らわせるのではなく、若い世代全体をさも真綿で首を絞めるように偏見を押しつける。

もちろん、どちらの言説も問題であるけれども、特に若者の「理解者」として振る舞っているものたちによって流布される後者の言説は、前者以上に実証性を欠いた形で流布され、政策に影響される危険性が高い。我々はこのような言説に対しても、注意を払っていく必要がある。また、我々は、子供や若者に起こっている問題について、実証的なデータなどを用いて科学的に見ていく、という視点を忘れてはならないだろう。書き手が衝撃的だと思った事例ばかり並べたところで、実証的とは言えないのである。

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