『戸塚ヨットスクールは、いま』書評(「第8回博麗神社例大祭」サークルペーパー)

はじめに

※投げ銭用に有料記事にしております。

本稿は、2011年5月8日に東京ビッグサイトにて開催された「第8回博麗神社例大祭」で発行したサークルペーパーに掲載された文章です。なお、転載にあたっては『若者論の忘却は歴史の忘却である(SNS叢書4巻)』に収録した文章をベースにしております。

本文

東方とは関係ない内容で申し訳ありません。とりあえずこのサークルの立ち位置というかなんというかを紹介するのと、あと、若者論とニセ科学の関係を示す絶好の素材があったので、ここで料理してみようかと思い、このようになりました。

今回書評するのは、東海テレビ取材班『戸塚ヨットスクールは、いま――現代若者漂流』(岩波書店、2011年)です。この本は、「体罰」の代名詞ともなっている戸塚ヨットスクール(以下、TYS)に取材をし、そして「体罰は是か非か」という論争に一石を投じる、という目的で作られた本のようです。同テレビ局は「平成ジレンマ」なるドキュメンタリー映画を作っており、本書は、その書籍版という立ち位置となっております。

そもそも現在のTYSは、元々は「戸塚ジュニアヨットスクール」という、ヨットの楽しさを子供に教えるために開設したものでした。その施設にとある不登校児がやってきて、その子供の扱いに困ってしまい、最終的には突き放さざるを得ない、という結論に至ったようです。そしてそれが口コミで広がり、不登校児が戸塚の下に集まってくるようになる。

彼らも皆、甘えているくせに態度だけ大きく、何もできない子どもたちだった。戸塚校長は、彼らにも、同じような対応をしたところ、その多くが立ち直りの切っ掛けを摑んだという。

東海テレビ取材班『戸塚ヨットスクールは、いま――現代若者漂流』岩波書店、2011年、pp.21~22。以下、断りがなければすべてここからの引用

そこで自分の方法論に確信を持って、なおかつ《終日子どもたちに寄り添うことができる専属コーチを募集》(p.22)し、《こうしてスクールからは楽しくヨットを学びたいという子どもたちが消え、情緒障害児の受け皿となっていった》(p.22)という経緯があります。現在のTYSの誕生です。

さて、現在のTYSを知る上で、いくつかの事実を同書から確認してみましょう。第一に、現在、TYSで体罰が問題となった時期のような体罰はほとんど行われていない(らしい)。第二に、校長たる戸塚は講演などで全国を駆け巡っており、代わりにTYSを仕切っているのが校長代理の山口孝道である(p.58)。第三に、同書においてはTYSの訓練生は10人いるが、《以前は、非行の少年少女が大半だったが、いまは引きこもりやニートが多く、半数は20歳を超えている》(p.46)。第四に、かつて3ヶ月間だった訓練期間は現在1年間になっており、戸塚の判断で短縮や延長もある(p.46)。そして第五に、入校の経緯は親が内緒で手続きするというパターンが多いのは事件当時と変わっていない。

同書においては次のような記述の通り、TYSをある種の「必要悪」として、そういうのが存在する社会に目を向けなければならない、という主張となっております。

事件から30年。社会から排除され、一旦は抹殺されたはずの戸塚ヨットスクールがいまも存在している。そして、いまは、非行ではなく、不登校や引きこもり、ニート、それも20歳を超えた訓練生が多く在籍している。
事件後、厳しい体罰を止めたため、かつてのような緊張感は、いまのような訓練生には感じられない。そのため、3カ月だった訓練期間も、いまは1年と延びている。しかし、この訓練期間の1年をすぎても卒業できない訓練生や、脱走して連れ戻される訓練生、卒業したものの、再び、家で引きこもり、再入校してくる訓練生が多い。
訓練生の質も大幅に変わったが、訓練の仕方も大きく変容している。
体罰は必要と言いながら、体罰ができないジレンマに戸塚校長自身が陥っている。

pp.117~118。引用に際し、漢数字を数字に改めた。以下同じ

さて、同書を読んだ上での私の感想は、「根本的にわかっていない」です。どこが「わかっていない」のか。

2点あります。第一に、現状の青少年問題について。著者らは、「ニート」に関して、平然と次のようなことを書いております。

就職する意欲がなく、学校にもいかない15歳から34歳の若者、彼らのことをニートという。10年前から急増していて、いま64万人いると言われている。そのうち25歳以上が6割とニートが高年齢化している。家庭内暴力に向かうケースも多く、子どもが親を殺したり、親が子どもを殺したり、家庭内殺人の温床となっている。

p.89

もうこの時点でダウト、です。詳しくは拙著『「ニート」って言うな!』(光文社新書、2006年)とか『「若者論」を疑え!』(宝島社新書、2008年4月)あたりに譲るとしますが、そもそも元々は英国で社会的排除と絡められて創設された概念である「ニート」は我が国に「輸入」される形で恣意的に改竄され、しかもそれが様々な負の意味を付与されているということを踏まえていない上でもう意味はないです。さらに、《家庭内暴力に》以降の段に至っては、統計的裏付けもなく、単なる著者らの憶測でしかありません。
第二点は、科学的手法についてです。同書の中で著者たちは、TYSのやり方には効果がある、という学者や教師の声を紹介しております。ちょっと長くなりますが、引用してみます。

ヨット訓練によって、脳幹を鍛え、情緒障害を改善するという戸塚校長の「脳幹論」について、医学的な裏付けはなされていない。しかし、横浜の産婦人科医、池川明氏はヨット訓練で情緒障害を治す戸塚校長に興味を持ち、14年前から横浜市のプールで、母親と乳児を対象としたボードトレーニングを定期的に実施している。
トレーニングは、ウインドサーフィンのボードに母親と乳児を座らせ、池川医師がボードを押して、25メートルプールを5往復ほどする単純なものである。一見、簡単なように見えるが、ボードは水の上に浮かんでいるため、不安定でバランスを取るのは難しい。
参加している乳児の母親に、ボードトレーニングの効果を聞くと、
「首が3カ月ですわり、6カ月でお座りができるようになった」
「トレーニングの日は夜、子どもが良く眠る」
「夜泣きが少なくなった」
などと話す。
医学的に確立されていない「脳幹論」を認める医師はほとんどいないが、池川医師は、自らの実践を通して、戸塚理論は正しいと考えている。
「情緒障害児でトレーニングをしたわけではないので、確認はできないが、子どもたちの生育などを見てみると、やはり脳幹は早いうちに鍛えると、良い影響を与えると実感する」と語る。

pp.56-57

そもそも池川自体ニセ科学との親和性を何度も指摘されている医師ですし、この語りも到底医学的根拠と呼べる代物ではないでしょう。このほかにも著者たちは自らも不登校児に悩む新潟県の中学教諭である松井潔の「感想」を紹介していますが、それについても松井の「実感」を超えるレベルのものではなく、科学的検証に耐えうるかと言えばNoとしか言いようがない。要するに、TYSの方法論は、少なくとも現時点においては代替医療以外のなにものでもないわけです。

科学的手法に対する無知と青少年問題に対する無知。この2つの無知が重なり合い、著者たちは著者たちの意図しないところで、「体罰は是か非か」という二項対立とはまた別の二項対立を提示しているように私は思えてなりません。それは「「TYSのある社会」を認めるか、TYSを否定し引きこもりや「ニート」に代表される「問題のある若者」が増え続ける社会を選ぶか」というものです。

そもそも就職市場の構造の問題であり、また景気の問題である「ニート」と、発達障碍やコミュニケーション不全、さらには自閉症などを併発している可能性もある不登校の問題を一緒に語ることは不可能です。ましてやTYSへの入所にはかなりの金がかかります。低所得者層の子供でそのような発達に問題を抱えた子供はどうすればいいのでしょうか?

また著者たちにしても、もともと青少年問題について考える素養がなかったのか、あるいは入所者の様子に安堵(?)したのかどうかはわかりませんが、そのあたりへの配慮が著者たちには全く見えません。大事な事なので二回言いますが、著者たちが知らず知らずの間に「「TYSのある社会」を認めるか、TYSを否定し引きこもりや「ニート」に代表される「問題のある若者」が増え続ける社会を選ぶか」という二項対立に陥っている。本当に「ジレンマ」があるのは、我々の社会なのでしょうか?それとも本書の著者たちなのでしょうか?

サブタイトルには「現代若者漂流」とあります。しかし、本当に「漂流」しているのはいったい誰(何)なのでしょうか?それは現代の教育及び医療・福祉、そして経済・金融政策であり、なおかつ著者たちも含めた青少年問題への認識に他なりません。少々きつい言い方をしてしまいますが、著者たちのやっていることは、重い悩み、なおかつ放置しておくと悪化するような悩みを抱えた人に対して、我慢している様を批判し、ホメオパシー――要するに、まったく科学的・医学的根拠のない、不適切な処置方法――を薦めるという行為と同じでしかありません。

さて、知っている方もおられると思いますが、2009年に、TYSの入所者(18歳)が入所間もない時期に自殺した、という事件がありました(2009年10月19日毎日新聞配信記事など)。

確かに入所後すぐの自殺というのは、TYSに対して責任を問えるかどうか、というのは微妙なラインかもしれません。しかし、TYSは、現在では見られなくなっているので孫引きになりますが、入所者の自殺の直後にこのような「公式見解」を出していたことを、筆者たちは知っていたのでしょうか。

異常行動の場合は必ず向精神薬の副作用として起こりますからその処方を行った精神科医にその責任があります。精神科にかかるのは児童相談所やカウンセラーの指示によるものですから彼らにも責任があります。さらにそういう状態の人間を作り上げたのは文部科学省ですから文部科学省にも責任があります。そして、向精神薬を使うのは製薬会社の為なのですから製薬会社にも当然責任があります。ここにおいて血液製剤により肝炎やHIVが広まってしまった構図と全く同一であることが解ります。マスコミは当然このことを知っています。それなのになんとか現場の責任にしようとするのは大スポンサーである製薬会社、権威である精神科医、自分たちが作らせたカウンセラーそして教育荒廃の元凶である文部科学省を何とか守りたい、そのためには現場に責任を押しつけたいという願望の表れです。国民を利する為に反権力であるべきマスコミが親権力となり国民の敵となっているのです。彼らも権力者の一角になってしまったからです。

http://d.hatena.ne.jp/hotsuma/20091023/p1 から引用。現在はブログは非公開

悪いのは精神科医であり、文部科学省であり、製薬会社である、と。特に後段は、完全に陰謀論の領域に入っているとしか言いようがありません。同様の思考は最近でも見られており、例えば「ニコニコニュース」の記事においても、次のように書かれております。

議論は訓練生の死にも及んだ。ニコニコ動画視聴者からの「死亡事件を起こした時点で、教育者としての自分の能力に疑問を持たなかったのか」という質問を読みあげられると、戸塚氏は「リスクは必ずあります」と回答。その上でマスコミがスクールの実態をデフォルメしたとし、
「私にすべて責任を被せれば丸く収まると考えている。本当に日本のマスコミは馬鹿で、ああいう子供ができたということが問題なのだから、(制度を作った)文部省を責めんかい。どうしてそれを直そうとする人間を、しかも効果をあげていた人間ばかり責めるんだ」
と語気を強めてマスコミを批判。すると番組には、「絶対やってはいけないリスクだろーが」「命がリスクか」「じゃあ自分は間違ってないって考えか」といったコメントが多数投稿された。

野吟りん[2011]

精神科関係の治療に関しては、特に治療開始直後においては患者の行動に対するリスク管理を徹底しなければならないと言われております。薬の話になりますが、例えば有名な「選択的セロトニン取り込み阻害剤」(SSRI)のひとつである「パキシル」(グラクソ・スミスクライン)の添付文書には、「その他の注意」として、このようなことが書いてあります。

海外で実施された大うつ病性障害等の精神疾患を有する患者を対象とした、本剤を含む複数の抗うつ剤の短期プラセボ対照臨床試験の検討結果において、24歳以下の患者では、自殺念慮や自殺企図の発現のリスクが抗うつ剤投与群でプラセボ群と比較して高かった。なお、25歳以上の患者における自殺念慮や自殺企図の発現のリスクの上昇は認められず、65歳以上においてはそのリスクが減少した。

http://www.glaxosmithkline.co.jp/medical/medicine/item/paxil_tab10/paxil_tab10.pdf

戸塚がTYSを発達障碍児の「治療」に用いるようになったきっかけも、『戸塚ヨットスクールは、いま』に書かれている通り、あくまでも個人的な実感であり、また戸塚及びTYSのやり方を支持する言説についても、科学的な手続き、すなわち対照群(TYSによる「治療」を受けなかった、もしくは別の治療法を受けた群)との比較が行われたか否かは書かれておらず、こちらも「実感」に留まっております。

TYSをめぐる一連の問題は、教育とニセ科学の関係、これに尽きます。特に障碍児教育に携わっている、もしくは研究している人たちに対しては、これほどの「逸材」はないと考えます。そもそも通常の医療もしくは教育は、それが失敗することは原理上許されず、また失敗に対してもそれを教訓、もしくは分析・蓄積可能なデータとして残しておく必要があります。さらに言うと、通常科学としての医療や教育は科学という縛りから逃げることはできず、常に他の治療法、もしくは教育法との比較に晒される必要があります。

ところがTYSの場合は、教育、特に障碍児教育の複雑な問題を「体罰は善」「いじめは善」という理論で単純化し、なおかつそれで失敗が起こったら「現場の論理」で文科省とか精神科医のせいにすることができる。これほど「おいしい」ものはないでしょう。そしてその問題を直視せずに多くの支持者が戸塚にはおり、戸塚は講演活動に忙しいため、TYSのプログラムは実質的に他の人間に任せられている。失敗を悔やむことはあっても、それを教訓=データにすることは、おそらくないでしょう。このように、TYS(もしくは戸塚)には自らの方法に対して責任をとるというリスクを回避する手段をいくらでも持っているということです。この点についても、他の種々のニセ科学と同様の構造を持っていると言えるでしょう。

そもそも体罰は戦前から禁止されており(これに関しては広田[2001]を参照されたし)、また「体罰の是非」というテーマ設定も、戸塚の思想やTYSの「代替医療」的側面を問題にすることを回避させるものでしかありません。少なくとも現状のTYSのやり方は「代替医療」の領域を出るものではなく、なおかつその「単純さ」故に多くの支持者を得ている。さらに言うと、その「単純さ」故に、科学的検証から(少なくとも現状では)逃げ延びている。

戸塚が真に恐れていることがあるかどうかはわかりませんが、少なくとも戸塚やTYSが真に恐れる「べき」ことはあります。それは自らの手法・思想が科学的視点に晒されることです。なおかつ真に問題視されるべきは戸塚及びTYSの手法の科学性のはずです。

そして著者たちも、「「体罰の是非」などという両極端の対立構造」という仮想の舞台を設定し、真に問題視されるべき障碍児福祉の問題、そして経済の問題をないがしろにしている。果たしてそれは正しいことなのでしょうか?

参考資料

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