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くたびれた時計の話

 お待たせ。
 さっきまで喋っていたせいで熱が逃げず、こうやって雨粒のような言葉を打ち込んでいる。なにせ気分が良いから、一気に書き上げてしまいたいんだ。
 別に何か伝えたいことがあるんじゃなくて、偶々書いて、偶々公開しているだけだと思う。そこに何か伝わってしまったなら、君たち読み手が温かく抱擁してあげて欲しい。きっと、それは君を待っていたんだから。ページをめくることに愛があるっていった人がいたけど、この記事でそれが起きたのなら祝福と同時に読み手に委ねよう。なにせ僕には関係のないことだから。

 いま、机の上に止まったままの腕時計がある。
 いつ止まった、なんてもう覚えてない。なんせ1年前のことだし、朝早くに起きて向かったバイト先で気づいたことだ。今は時折それを眺めるだけで、実際に着けたりすることはない。
 その時計は大学祝いにドイツに住んでいる従姉が買ってくれた。オーダーメイドで、使い込んで馴染ませていく…という表現が似合っていた。少し赤みがかった茶色のベルトに、光沢が抑えられた金属部分、針が差す英数字、全部自分が選んだものだ。その上名前まで入っているんだから、本当に一点ものだ。
 大学にも、バイトにも、遊びにも、スペイン旅行にも、女の子とのデートにも着けていったかもしれない。スペインでは、知らん奴に「くれよ」とまで言われた、奇妙な時計だ。
 残念なことに、電池だけじゃなくて、ベルトと金属部分を結んでいる留め具の表面が剥がれている。腕と接触する部分なので、これが若干痛い。剥がれた部分を直す必要もあって、電池と併せて直そうと思っていた。けれど、そんな気分はいつの間にか忘れていて、剥がれてしまった部分も部屋の掃除で何処かにいってしまった。

 それに気づいたのがついこの間、机の上に転がっていたのが眼に入った。剥がれた部分の行き先を忘れ、さらに直す気もなくなった。外に出かける時につける、という点ではイヤホンもそれまでは一緒だった。ただ、最近になって電車の中で音楽を聞くことも出来なくなっていた。いや、したくなくなっていたと言うべきだろう。でも別にそこに不気味さとか、自分の変容だとかは感じなかった。
 けれど、もし自分が時計をつけていたら、と思うことは最近増えてきた。それはフォーマルな場に行ったとか、そういうことではなく、ふと思ったことにすぎない。それでも、僕という人間は「ふと思ったこと」が頭に残ってしまうらしく、ここ最近になって時計を直すかという気が湧いてきたのだ。僕の部屋には小さなデジタル時計しかないから、時間をすぐには把握できないし、今使っている父親の腕時計はなんだか自分の時計じゃない。
 だから、僕は時計を直そうと思う。時間に縛られ過ぎるのは好きじゃないし、時間が自分を癒してくれるとも思わない。「時間は何も解決しない」。錆びを爪で削り取ってみると、まだそこには使っていた頃の鈍い光沢がある。
 でも、きっとそれを身に付けると擦れて痛い。無くした小さな部品は、もう戻ってこない。失ったものの幻想を抱えて、転び続けるのだろうか。その反復の中で、時間が忘れさせてくれるのかもしれない。でもそれは、「ふと思い出す」一撃性を常に孕んでいる。だから、僕は時計を直そうと思う。癒されるのか、痛み続けるのか分からないけど、そういう気持ちにはなれたのだ。

 針が僕に追いついたのか、僕が針に追いついたのか分からないし、そもそも時計盤の上に僕の居場所なんてないのかもしれない。
 この文字がページを埋めるように、僕の書き綴った言葉はすぐに僕の元から離れていく。このページにすら僕はいないし、時計の針を追いかけるのもいつかくたびれてしまうのかもしれない。もしかしたら、ここに来て直さないのかもしれない。それでも、僕の時計を見つけて、僕が考えたことの一端はこうすれば残るのだから、不思議だ。
 ちょっと自分に近すぎるから、そろそろ終わろう。書くことに行き詰ってきたんだ。結局のところ、本当に雨粒程度にしかなってないけれど、それでも降ったんだから良いだろう。最後に、別の人の言葉を置いておこう。

「長い人生の中で傷だらけになり、くたびれて正確さを失くし始めた時計を見て何を思う?その答えこそが機械式時計の答えだ…
 オマエが死んで、その時計のネジを巻く者がいなくなった時、時計と一緒に私の魂も役目を終えて、オマエと共に逝くだろう…」(アレクセイ:『グリザイア ファントムトリガー vol.2』より)

それじゃ、お先に。

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