動いてしゃべるマトリョーシカ。
個室のトイレを使った。
用を足して個室から出ようと思ったとき、その個室トイレの天井付近の「角」が目に入った。
「あっ」と思って、すぐに写真を撮った。
ここを見たときに思ったこと。
「あ、おれは今、立方体の中にいるな」
立方体というと正四面体だから、厳密には直方体ってことになるんだけども、とにかく思ったのは
「いま私がいる個室トイレというのは、
とある立体構造物の内部なんだな」
ということである。
さらに思ったのは、
「マトリョーシカの内部っぽいな」
だってこのトイレは、立体の建物の中に作られた立体だから。立体の中の立体の中の立体。
マトリョーシカっぽいじゃん。
つまり、閉じ込められている。
日常生活を送っていて、どこかに閉じ込められるって経験はなかなかないけど、だけど考えてみれば、家にいるときも閉じ込められているってことになる。
どこかに閉じ込められていると、行動が制限される。その内部でできる行動には限りがある。せまい立体の中ではドッヂボールはできない。
ところがどうだ。
外に出ればどこにも閉じ込められていない。
上空に広がるのは空である。
前後左右には壁がない。
行動は自由だ。
つまり、
この身体はいつだって自由だ。
…
ならば、
我が心はどうだろう?
この心は閉じ込められているだろうか?
企業に属していると、目に見えない立体に取り囲まれている。どこかの組織やコミュニティに属していてもそうだ。
規制やルールは目には見えないけれど、立体の形を成して私たちの行動を制限しているわけだ。
社会に出て生きていると、目に見えない立体のオンパレードである。私たちが生きるこの世界は、マトリョーシカのように二重にも三重にもなった見えない立体構造になっている。
あれをするとダメ。
これをすると角が立つ。
あんな表現をしたら誰かを傷つける。
あの人はいつも自由そうでうらやましい。
なにか行動に移したくても、
失敗を見られるのが恥ずかしい。
目に見えない立体の檻だ。
私たちは毎日どこかに閉じ込められている。
何が言いたいかというと、
せめて、
自分の心だけは、
なににも閉じ込めず、
可能性を自らせばめず、
自由な外に置いておきたいものだね。
と、思いながらトイレを出た。
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