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感情の置き場所をどこにするのか。

Wスタンダードとか両A面とか、二面性とか表の顔&裏の顔とか。

私がそう望んでいる訳ではないのですが、そんな立場にいるような錯覚を覚えることが多いこの頃。脳みそに負担をかけているだろうかと考えても、答えは出ないので、しばらくこんな感じなのかなぁ。

良い悪いじゃなくて、どんな考え方もありですからね。

混沌とするのって、どこを目指しているかが曖昧になったときに、不幸にも起きる気がしますね。精進ですね。

さて。とりあえず眠いです。

若い頃は「何が分からないかも分からない」という状態が長く続くことが多かった気がします。今は、難しいことに直面しても、大体こうすれば解決につながるかなぁ、といった漠然とした光を見ることができるようになった気がします。

簡単に言うと、周りを巻き込むことができるようになったことが大きい。

若い頃は遠慮もあってか、聞きたくても聞けない状態が長く続く気がしますね。遠慮なんですかねぇ。プライドっていう場面もあったかもしれないけど。「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」と頭で分かっていてもできない気持ち、分かりますけどね。

まぁ、時間がないからな、我々のような中年層には。

根回しはしますけどね。

できる限り俯瞰して見て、思いやりをどこまでも広げていこうとする姿勢。

「あの人は○○だからダメだ」「あの人とは意見が合わない」で、終わるのは簡単ですからね。

ま、どこまで行っても話の通じない人は確かにいますが。

感情の置き場所をどこにするのか。それによっても大きく結果は異なるだろうなぁ。

ワクワクの境地って前に書きましたが、喜怒哀楽の喜と楽だけじゃない感じがしています。怒と哀になるようなことも(哀はかなり難しいけど)、ワクワクに変えていけるようなものなんだな。

目先の感情は、要らないというか。あくまで自分の話として。

目の前の人を笑顔にしようと思いながらも、建設的な意見に徹するというか。説明するの、難しいなぁ。

相手が「何と戦っているのか」を見つけて、その不安を解消するにはどうしたら良いのかという視点で考えるという感じかなぁ。

私たちのために、外の世界と勇猛果敢に戦ってくれている人のことは尊敬といたわりの念で接して。

例えるのはおこがましいですが、まるで自分がお釈迦様になったつもりで相手と接する感じですかね。神様じゃなくて、お釈迦様。

あれ、それって悟りの境地って言うのかな・・・笑。

失礼いたしました。



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