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フードロスに取り組む人が増えても、フードロスが解決しない理由。

最近、フードロスに取り組んでます!余った食材や規格外野菜を食べるイベントやります!という人が増えた。特に若い世代の取り組みとしては、気候変動マーチ(行進)、脱プラスチックに次いで、多いのではないだろうか。

日本に限って言えば、この動きは昨年くらいから急加速した。フードロスに取り組むベンチャーにVCの資金がつくくらい、まるで「成長分野」のような空気がある(成長しちゃイカンだろw)。

しかし、僕としては「なんで今ごろになって急に?」という感覚が拭えないのだ。

農水省が、ロスゼロ、ロスノンなんて掲げて、1/3ルールの見直しなどを提唱していたのは7〜8年前だろうか?農産物の可食部ロスが30%(流通で15%、家庭や冷蔵庫内で15%)、食料廃棄量が世界第2位なんて不名誉なデータもかなり前からあった。フードロスを構造的な現象として研究している先生、テーマとして追いかけているジャーナリストも今よりも多かったくらいだ。

もっと言うと、いわゆる規格外品を集めてジュースやジャム、ピクルス、お菓子、漬物にするという加工事業者は、大手企業や古参企業を含めて星の数ほどある。ピーチネクターや〇〇代表などの贈答用フルーツジュースも、実はハネモノがメインの原料だ。そこに加え、農水省がゴリ推しした6次産業化政策で、生産者自身が未出荷品や規格外品を加工する零細事業者化したのも2011〜2014年だ(今や死屍累々だが)。

世界に目を移してみよう。

アメリカの西海岸でファーマーズマーケットやフードバンクがにわかに脚光を浴びたのも2008〜2010年頃だった(もちろん、その前からずっとあったのに)。
背景には、アメリカが深刻な干ばつに襲われ、穀物や野菜の価格が高騰し、農業&食料不安が起きたことがある。政府、研究者、金融機関、企業、NGOに至るまで、全員がこぞって「農業と食料、むっちゃ大事じゃね?ヤバくね?」みたいな、いわゆる「issueとしてのブーム」があった。

そこからはもう、カオス。

農業の持続性大事→農薬(モンサント)がワルモノ→オーガニック最高、みたいな話に飛躍したり。アグリテックのベンチャーが乱立→お金集まる→事業にならず死屍累々。食料足りなくなるかも→農業は成長産業だ→補助金つけて若者を誘致→定着せず死屍累々。

そして、日本でもアメリカから5年以上遅れて、同じようなカオスが起きた(今もまだこの渦中にある)。

一周かニ周まわって、今ようやく日本で、しかも都市部の若い世代の中で「フードロス」や「生産者支援」がホットなアクションになっているのを見ると、どうしてもタイムラグを感じてしまうのだ。

もちろん、SDGsが「世界最大のキャンペーン」となり、昨年来、各国の政策レベルにインストールされ始めたことが大きいのだろう。

フランスでは、スーパーにロス(廃棄)ペナルティが課せられる法律が可決された。世界中で、ロスを出さないレストラン、量り売りの店、包装資材を使わない店が「時代の寵児」としてモテ囃され、メディアに出ない日はなくなった。今を生きる世代が取るべきアクションであり、またその方向性が政策的にも裏付けられている格好だ。

そして、そもそも論なのだが、

食べ切るという行為や姿勢は、社会インパクトや課題解決以前に、美しく、尊い。

こんなに分かりやすく良いことはないし、むしろ個人のレベルではやらない理由を探す方が難しい。

しかし、あえて言う。

フードロスに取り組んでいます!というサービスやアクションの中で、

本当にフードロスに取り組んでいると思うものが「ほとんどない」のだ。

フードロス削減プロジェクトの多くは、大別すると、

①冷蔵庫や家にある余剰を料理/保存して食べよう、残さないようにしよう
②お店で出てしまうロスを食べよう、格安で料理を流通させよう
③規格外/未出荷/未利用の食材を流通させよう、加工や料理をして食べよう(使おう)

の3つに、あらかた集約される。どれも共感しかないし、僕個人もこの3つの体現者(実践者)だとの自負がある。

だけど、これではフードロスは解決しない。それどころか、本質的な課題に向き合ってすらいないのだ。

経済学を学んだ人や、需給バランスにまつわる理論をご存知の方にとってはアタリマエの話なのだけど、

余剰なものを食べるということは、そのぶん新しいものを食べなくなる(食べられなくなる)ということ。つまり、次の余剰のタネになってしまうのだ。聞き慣れない人もいるかも知れないが「カニバリゼーション(文字通り、食い合うの意味)」が起きる、ということだ。

誰かが余剰分を売ったら、他の誰かの分が売れなくなる、これは競争だよね、と片付けてしまうのは簡単なんだけど。余剰流通はそれにとどまらなず、さらに悪い知らせがある。食べ物に限らず、余剰品を安く流すほど、通常価格のものがそのぶん売れなくなり、経済は縮小していく。それが適正サイズの経済規模ということもできるが、短期的には「まともな値段では売れなくなっていく」ことで、生産者全体をかえって苦しめることにもなるのだ。

よく、市場や流通事業者が食べ物を捨てている悪者だ、と批判する人がいる。それは見当違いも甚だしい。彼ら流通事業者は「余剰の廃棄は必要なこと、生産者のためにも良いことだ」と理解した上で、流通量と生産者価格をどちらも高く維持するために、あえてそうしている。

だから、「せっかく作られた食べ物を捨てるのモッタイナイ!」「捨てるのは悪いことだ!」と感情的に叫ぶ市民と、そんなものは百も承知で、ある意味、使命感と合理性で動いている企業や市場の溝は、なかなか埋まらない。

少なくとも言えることは、「余った時点で、社会全体としては負け」で「フードロスは、出てしまう(出てしまった)」のだ。出てしまった余剰を食べることは「おままごと」で、生産者や食料の持続性には寄与しない。

結論、

最大の課題は、「オーバーサプライ(過剰供給、過剰仕入)」であること。

これに尽きる。

人参もイモもほうれん草もコメも、作り過ぎ。魚も、獲り過ぎだ。人が食べる量よりも作り過ぎて、輸入までして流し過ぎるのだ。だから余る。

買う側も、日持ちしないものをまとめて買う。特にお店は売り切れが気になるから、余剰に仕入れ、余剰に仕込む。だから余る。

フードロスは、ロスに至る「余剰が起きる仕組み」の方に課題があるのだ。

そして、これは僕が考えた整理なのだが、余剰には「4つのタイプ」がある。

①地理的余剰
ある地域(国、都市、家の中など)において、消費よりも供給が多いこと。反対に、足りない地域もある。
(例:日本では余ってるが、中国では足りない。九州では余って安いが、北海道だと足りなくて高い。など)

②時間的余剰
ある時期(豊作の年、収穫最盛期、曜日など)において、消費よりも供給が多いこと。反対に、足りない時期もある。
(例:冬は柑橘が余って安いが夏は手に入らない。月曜は仕入れすぎて、金曜は売り切れ出してしまった。など)

③品目的余剰
複数の品目がある中で、ある品目において、消費より供給が多いこと。反対に、足りない品目もある。
(例:ホウレン草は余って安いが、ルッコラは足りなくて高い。など)

④用途的余剰
品目的余剰に似ているが、ある用途において、消費より供給が多いこと。反対に、別の用途では足りないことがある。
(例:お浸しに向く野菜は種類も量も沢山あるが、飾りに使えるカラフルな野菜は少ない。など)

この4つを同時並行的に解決していくことで、フードロスの「発生」自体を解決することができる。しかし、このテーマは「生産と流通全体をデザインし直す」ということだから、それを手掛けるプレーヤーは残念ながら殆どいない、というのが先程の僕の感想だ。

かつて、この需給ギャップを解決するために存在したのが市場や商社だった、とも言われている。しかし僕は違うと思っている。(だからSENDを作ったし、成長する余地があったわけだけど。)

国内の市場も商社もこの数十年、「余剰」を最適化するのではなく、「不足」を補うために外部から調達する機能であった。だから実は、市場も商社も国内の食べ物が余っていて、かつ、それを捨てることが悪のように言われる状態は「経験がない」分野なのだ。
実際、地理的調整(例えば、国産品の輸出)、時間的調整(例えば、加工保存)、品目的調整や用途的調整(例えば、輸出戦略作物や高需要作物への生産切り替え)などは、まだまだ手探りな状況が伺える。

こうした大手すら手探りだからこそ、若者がスタートアップして一気に社会の仕組みを変えるチャンスだと思う。それには、高度なデータテクノロジーはもちろん、生産、物流、商流などへの深い理解も必要だ。

そんな社会インフラ作りみたいな重たいことはやりたくないよー、スタートアップなんてめんどくさいよー、フードロスを美味しく食べるっていうが今はイケてるの!という感情が渦巻いていることも、知っている。

だけど、フードロスに限らず、社会課題と言われるバズワードについて思考停止にだけは、なっちゃいけない。

しっかり考え、自分ごととして中長期で取り組む次世代を増やすために、僕も及ばずながら力になっていきたいと思っている。

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