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遠心力とジブンクーロン

今年、「クーロン」リリース25年を迎えて、あらためて感じるのは「クーロン」には不思議な遠心力があるということだ。
一般にゲームでもアニメでも「人気作品」には求心力が備わる。ファンの心をぐっと引き寄せる磁力のようなものだ。遠心力はその逆を行く運動だ。

この遠心力の正体は、リリース後、かなり早い段階から散見された「ジブンクーロン」現象だ。ファンの中にそれぞれの「ジブンクーロン」が生まれ、それが今でも時間をかけて発酵し続けている──

この「ジブン○○」で、おそらく世界最大規模なコンテンツといえば「ジブンブレラン」ではないだろうか?
『ブレードランナー』の日本での劇場公開は1982年。しかし、ロードショー自体は予定を切り上げて終わってしまう。
酸性雨の降りしきる暗い未来、レプリカント──そういった世界観に時代が付いていけなかったからだ。『ブレードランナー』は、ブラウン管大画面テレビが普及し始めた1980年代後半に、もっともビデオ視聴されたコンテンツのひとつだろう。

前作から35年の時を経て公開された『ブレードランナー2049』──この作品を観て「想像とは違った」という感想は多い。
だが、映画製作者の立場になって考えると「2049」はあれで正解なのだ。
時代は「ブレラン」にすっかり追いついた。そればかりか世界中に数千万もの「ジブンブレラン」が生まれ、発酵し続けている。
中には「ブレラン」にインスパイアを得て制作されたコンテンツも少なからずあるはずだ。
これらあまねく存在する「ジブンブレラン」を震撼させるイマジネーションを追い求めようとするなら、映画事業的には天文学的なコストと果てしない時間を要するに違いない。場合によっては未完の大作、アンビルドに終わる恐れもある。

さすがにハリウッドメジャーでも、世界中の「ジブンブレラン」相手に闘いを挑むようなことは避けたわけだ。
初見時の衝撃を再び与えようと欲張るのではなく、「ジブンブレラン」のフィルターを通して観て欲しい──そういったメッセージが聴こえてくるようだ。
この場合、フィルターの厚み次第で面白さが変わってくることになるが、それは自己責任的に仕方のないことだろう。

翻って「クーロン」──「ブレラン」と比べること自体が甚だおこがましいし、規模感はまったくもって桁違いなわけだが、「ジブン○○」という構図はほぼ同じだ。

「クーロン」で何かアクションを起こすなら、ファン側に根付く「ジブンクーロン」を深慮しない訳にはいかない。すでに十分発酵して芳しくなっている「ジブンクーロン」もあるに違いない。まだ薄味な「ジブンクーロン」もあるだろう。ファンごとに発酵の度合いが異なるために、ここは丁寧な扱いが必要となる。

ところで「ジブンクーロン」を醸成する──それはファンとしてもとてもクリエイティブな作業になるはずだ。「ジブンクーロン」は自分の中の成果物、そう考えれば創作のハードルは大きく下がるだろう。
そしてアクションを起こす側には、ファンそれぞれの「ジブンクーロン」の発酵を促し、まるで酵母のような役務を果たすことが絶対的な責任として求められる。
そういった意味合い(そして自信)もあって、先日の超級路人祭では「クーロン大学大学院入学式」などとネタ振りをしたわけだ。
今後も発酵を促すような「カリキュラム」の提供を継続して行っていきたい。





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