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二十歳とパパとパパと 【ショートショート】

 黒い大理石の洗面台。ちょっと良いシャンプーの紅茶の香りが残る、びしょびしょの髪に左手の指を絡めながらドライヤーの温風を当てる。もう5回目だというのに、つい先ほどソファーで口づけも交わしたというのに、このあと行われる交合に向けて心の準備が必要で、髪が長いのを良いことにこれでもかと時間をかけて乾かす。

「お前それディスっているやろ!」

 隣の部屋から浜ちゃんのツッコミと、善治よしはるさんの笑い声が聞こえる。彼は今、何を考えているのだろうか。少なくとも大事な本番の前にテレビに夢中であるくらいには私への興味は薄いのだろう。そして私も、30も年の離れた彼を恋愛対象としては見ていない。かと言ってお金欲しさに赤の他人に処女を差し出したわけでもない。本当のパパの面影を重ねているから、私は今こうしてパパ活をしているのだ。


 ***


 レールも枕木も敷かれない街の、バス停さえも無い道をひたすら歩く。やがて足元のアスファルトは土に変わり、視界は樹林だらけ、耳に入るは渓流のせせらぎとヒヨドリのさえずり。自宅から1時間もの移動の末、ヒノキの香りが漂うログハウスの扉を開ける。

「美穂ちゃん、いらっしゃい」

 白のフリル付きブラウスにモスグリーンのロングスカート、極めつけは黒髪ボブにベレー帽。森の小さな美容室にピッタリの衣装を身にまとう香澄おねえさんの柔らかな笑顔に迎えられ、私は子ども用のスタイリングチェアに腰を、フットレストに足をかける。

「おねえさんと同じでお願いします」

 香澄さんの白く透き通る左手と、コームとハサミの感触を感じながら、眼前の鏡に映る、別のお客さんの施術をしているパパの姿に見惚れる。パパはこの美容室の経営者だ。

「将来はパパやおねえさんみたいな美容師になるの!」

「そうなったら私も嬉しい。待っているよ」

 それは13年前、7歳の私と17歳の香澄さんが交わした約束。格好良いパパと可愛い香澄さんに憧れていた私は、ボブにベレー帽を被り、二人と一緒に働くのが、行く行くはこの店を継ぐのが夢だった。そのはずだった。

 高校を卒業し、美容専門学校に通い始めた頃、パパは再婚した。相手は香澄さんだった。5歳の時に離婚したママと比べるつもりは全く無かった。しかし、扉越しに二人のイチャイチャの声を聞くだけで憧れも尊敬も消えた。それよりも、経営難でログハウスを手放し、香澄さんは駅前の大きなサロンに転職、パパは美容師さえも辞めて格好悪くなったことが、私の心を虚無にした。森の美容室で二人と働く夢はあっさり潰えた。モチベーションは一瞬で底まで低下した。

 更に1年が過ぎた。大きな変化は3つあった。私が事実上の家出により一人暮らしを始めたこと、2月の美容師国家試験に落ちたこと、そして善治さんと出会ったことだ。特に試験に落ちた絶望は大きく、快感で気を紛らすことだけを求め、パパ活のアプリを入れた。パパと瓜二つの写真を見て即決した。善治さんは顔のみならず体型、声、感触、抱きしめられる際に感じる温もりも、いつも行為の後に吸う煙草のハッカの匂いまでもがパパに似ていた。でも格好良さは善治さんのほうが何倍も勝っていた。彼をパパだと思い込むことで何とか精神の安定を保っていた。


 ***


「付き合って下さい」

 週1~2ペースで合体し続けての8回目、食事の席で私は善治さんに告白した。ある意味、愛なのだろうが、決して恋ではない。毎回3万も貰い、あまつさえ食事やホテル代まで払ってもらうことに流石に背徳感を感じたからだ。パパの温もりを感じられるなら性行為も苦ではないどころか、むしろこちらからお願いしたいくらいだ。それなら需要と供給の関係を続ける必要性も感じない。

「ごめん、それは無理。俺は最低な人間だ……」

 俯き涙を流す善治さんは「美穂ちゃんに娘を重ねていたんだ」と続ける。娘さんがアプリに掲載された私の写真にそっくりだという。その写真はカメラロールから適当に選んだやつで、まだ香澄さんに憧れていた頃の黒髪ボブにベレー帽姿だった。

「もしかして、娘さんのお名前は……」

「香澄だ」

 私は一年かけて髪を伸ばし茶色に染めたが、そもそもパパと善治さんが瓜二つなのだから、私の顔も成長と共に香澄さんに酷似するようになっていくのは必然だった。

「時期を見計らって、写真の姿に戻して欲しいとお願いするつもりだったんだ」

 善治さんは昨年離婚し、元妻が香澄さんを引き取った。不倫した元妻への未練よりも娘と会えない寂しさが勝っていた。心の穴を埋める為だけに私と会っていたのだ。


 ***


 カラコン、シミ消しクリーム、ちょっとだけ涙袋にチーク。教師にバレない程度の最低限メイクでも可愛くなれる。もちろん夜の入念なスキンケアあってのものだが。

「美容師になるにはまず自分磨きから!」

 中学生になった私は、香澄さんのアドバイスをもとに垢抜けた。体重も7kg落とした。しかし、学校では友達が一人もできず、化粧禁止の校則を忠実に守っていた女子たちに嫌われ、いじめられることもしょっちゅうだった。

 学校帰り、涙が止まらない日はいつも家ではなく森の美容室に直行した。パパは何も言わず、何も聞かず、ただ私を抱きしめてくれた。香澄さんも無言で涙を拭いてくれた。静寂と安らぎに満ちたこの空間に言葉は要らなかった。髪を切らない日でも、待合用のソファに深々と腰掛け、窓から鮮やかな若葉と木漏れ日を眺めるだけでも嫌なことの全てを忘れられた。


 ***


「美穂ちゃん、いらっしゃい」

 初めて駅前のサロンに行った。黒髪ボブにベレー帽を被った香澄さんを見るのは2年ぶりで、白のブラウスも緑のスカートも、そして私に見せる柔らかな笑顔もあの頃と同じだった。

「おねえさんと同じでお願いします」

 思わず当時と同じ呼び方をしてしまうが、「ンフフ。私もう、おかあさんよ」と返される。私はまだ香澄さんのことを「おかあさん」とは呼べていない。

「来てくれたのは嬉しいけど、どうしたの?」

「実は……あなたのお父さんから色々聞きました」

 善治さんは、香澄さんの過去を私に話してくれた。学校の授業についていけず、友達が一人もできなかった中学時代。それでも美容にだけは強い興味を抱いており、当時から美容師になるのが夢だった。その為の独学には人一倍励んだ。志望校にことごとく落ち続ける彼女を見兼ねた母親(つまり善治さんの元妻)が、思い切って中卒でも受験できる美容専門学校を薦めた。それに合格してからの香澄さんは順調で、国家試験は一発合格、就職活動も数社しか受けずして森の美容室から内定をもらったのだった。

 中学から孤独との戦いだった。私と同じものを感じた。だから会って、悩みを打ち明けようと思った。

「パパの美容室が無くなって、パパは美容師ですら無くなって、私は国家試験に落ちて……このまま美容師を目指す意味はあるのかなって思い始めて」

「………」

 しかし、香澄さんは言葉を発さなくなった。無言で私の髪を10センチ以上バッサリ切り、軽く流した上で5トーンのカラー剤で暗くしていく。たまたま他にお客さんが居なかったこともあり、店内は静かだった。あの頃を思い出す。静寂と安らぎに満ちた空間の、言葉さえも要らなかったひと時を。

「ハイ、終わったよ」

 香澄さんがようやく口を開く頃には、私の髪は彼女に憧れていた頃の黒髪ボブに戻っていた。それは自分の意志で決めたことだ。美容師を諦める選択肢なんて最初から無かったのだろう。

「あの、お願いがあります」

 いつか二人でお店を始めませんか。また森に佇む小さなログハウスで。勇気を出して言った。香澄さんは二つ返事でOKしてくれた。しかし、

「経営のことは、お父さんに聞いたほうが良いんじゃないの?」

 仰る通り。私はもう二十歳になったのだ。いつまで子どもみたいに逃げ続けるつもりなのか。そろそろ本当のパパと向き合わねばならない。素敵な美容室を投げ出し、格好悪くなったパパと。週末に実家に帰ろう。

 でもそれは、私だけではない。

「香澄さんも、善治さんともう一度話してみてはどうですか?」

 二十歳の私、本当のパパ、かつてのパパ活相手、そして“おかあさん”。まだまだ歪な人生の4人だが、それぞれが現実と向き合い、夢や理想に向かって歩き出す。今度こそ皆が幸せになる為に。

(3342字)

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