見出し画像

存在論的コミットメント(W. V. O. クワイン)

ソクラテス:本日は、20世紀の著名な思想家、ウィラード・ヴァン・オーマン・クワインさんとの対話に臨むことができ、大変光栄に思っております。クワインさんは、論理実証主義を超えた現代分析哲学の発展に大きな影響を与えた人物です。特に、「存在論的コミットメント」に関する彼の見解は、哲学だけでなく、数学や言語学においても重要な議論を引き起こしました。クワインさん、あなたの考える「存在論的コミットメント」とは何でしょうか?

クワイン:ソクラテスさん、このような機会を与えていただきありがとうございます。私が言う「存在論的コミットメント」とは、ある理論が暗黙のうちにまたは明示的にコミットする、つまり「存在する」と見なすもののことです。この考え方は、私たちが使う言語や理論が、何を存在するかについての私たちの見解を反映しているという考えに基づいています。例えば、数学者が「数」の存在を前提とするように、科学者や哲学者も彼らの理論において特定の存在を前提とします。

ソクラテス:なるほど、非常に興味深い考え方ですね。では、あなたはどのようにして、ある理論が特定の存在を前提としているかを判断するのでしょうか?

クワイン:私の考えでは、我々は「我々の理論を信じる」とき、つまり我々がその理論を採用する際に、その理論の中で扱われるすべてのエンティティーに対してコミットメントを持つことになります。理論が扱う言語、その言語の中で使われる名詞や量化子(例えば、「すべて」や「いくつか」)が、何に対してコミットメントを持っているかを分析することにより、その理論の存在論的コミットメントを明らかにすることができます。

ソクラテス:興味深いアプローチですね。しかし、理論が言及する全てのものが、実際に存在すると考えるのは、少々乱暴ではないでしょうか? 例えば、神話やフィクションに言及する文学作品は、それらの物語に登場する架空の存在に「コミット」していると言えますか?

クワイン:その点については、確かに注意が必要です。私の考えでは、重要なのは理論の実用性とその理論が提供する説明の力です。文学作品や神話は、私たちの世界を理解するための道具としては用いられていませんので、そのような文脈で言及される存在に対して科学的なコミットメントを持つ必要はありません。しかし、科学理論においては、その理論が成功裏に世界を説明し予測するために必要な存在に対して、私たちはコミットメントを持つことになります。

ソクラテス:では、存在論的コミットメントの範囲をどのように限定するのか、という問題が生じますね。あなたの理論によれば、私たちはどのようにして、ある存在が実際に必要であるか、あるいは単なる理論的便宜上のものであるかを判断すべきですか?

クワイン:その問題に対しては、私の「存在論的相対性」という考え方が応答します。存在論的コミットメントは、採用されている理論に依存します。つまり、どのエンティティが存在するかは、我々がどの理論を採用するかによって異なります。そのため、重要なのは、特定の理論の下でのコヒーレンス(一貫性)とその理論がどれだけ効果的に世界を説明し予測できるかです。理論が変われば、我々の存在論的コミットメントも変わり得ます。

ソクラテス:非常に示唆に富む考え方です。しかし、あなたの立場は、ある理論が別の理論に取って代わられた場合、以前コミットされていた存在が「存在しない」ことになるという、少し困惑する結果を招くのではないでしょうか?

クワイン:確かに、そのような困惑を感じるかもしれません。しかし、この点に関しては、科学的な実践における理論の進化を考えれば理解できるでしょう。科学理論は常に進化し、改良されています。新しい理論は、より多くの現象をより正確に説明し、予測する能力を持っているために採用されます。この過程で、以前の理論で前提されていた存在が、新しい理論では不要となることがあります。これは、我々の知識が進歩する過程で自然に起こることです。

ソクラテス:クワインさんの説明を伺い、私たちが理論を通じて世界をどのように理解し、それに基づいて何を「存在する」と考えるかについて、深い洞察を得ることができました。しかし、私たちの理解が常に変化する可能性があるならば、存在論的コミットメントに永続性はないということでしょうか。また、私たちはどのようにして、より信頼性の高い理論に向かって進むことができるのでしょうか。これらは、今後の課題として残ります。クワインさん、本日はこのような有意義な対話をありがとうございました。

主要ソース

関連エントリー


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?