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東日本大震災での実体験。障がいのあるお子さんやご家族の避難生活は?

災害への備えはだれにとっても大切。でも、もし病気や障がいのあるお子さんを守る立場だったら、なおのことかもしれません。今年開催11年目を迎えた「障がいのある子と家族のための サバイバルキャンプ & 防災ワークショップ」。一般社団法人みらいTALKさんが主催した、障がいのあるお子さんや医療的ケアの必要なお子さんとそのご家族のための、一泊二日の防災訓練です。
 
防災訓練の全体像については、先日こちらの記事でレポートしました。今回は、プログラムの一つである「防災シンポジウム」の内容をご紹介します。東日本大震災で障がいのあるお子さんとともに被災された二家族の貴重な体験談について知ることができます。
 
司会は主催者代表の宮本医師。体験談をお話してくださったのは、笠間さんと松川さんのお二人です。震災はすべての人にとって大変な出来事ですが、障がいのあるお子さんはとりわけ特別なケアや配慮が必要な場合も多く、避難生活に不安をもっている保護者のかたも多いことと思います。今回のシンポジウムでは、笠間さんと松川さんが詳細な実体験を教えてくださり、人とのつながりの大切さ、ふだんからしておいたほうがよい備えについてなど多くの学びを得ることができました。
 
 
笠間真紀さん

福島県いわき市在住。五人の息子さんのうち、双子のお子さんのお一人に重症心身障害があり、医療的ケアを行っている。障がいのあるお子さんが生後5か月のときに被災。NICUを退院してまもなくのことだった。令和元年東日本台風の際も水害に遭う。現在、重症心身障がい者のための施設を運営。
 
松川浩子さん

被災当時は宮城県女川町在住。当時女川町で会社も経営しており、自宅・会社ともに津波の被害に遭う。障がいのある息子さんが特別支援高校2年生のときに被災。息子さんは自閉スペクトラム症(ASD)、知的発達症(知的障がい)、てんかんがある。

Q.被災した直後の状況について教えてください。

笠間さん:双子の息子の定期健診で、中1の息子とともに病院に来ていたときでした。待合室にあるテレビで緊急地震速報が流れたと思ったそばから大きな揺れにおそわれ、壁には亀裂が入り、天井の蛍光灯が次々と落ちてきました。警備の方の誘導で駐車場に出ていったんは落ち着いたものの、すぐにほかの家族のことが気になりました。なんとか車を出し、学校で待機していた小5の息子のところ、一人暮らしをしている祖母のところ、そして母のところへと回っていきました。あちこちアスファルトやマンホールが壊れていて、ふだんは5分で行けるようなところも渋滞がひどく2時間かかるなど、混乱していて移動が大変でした。母の家は停電していなかったので、その日はみんなで母の家に泊まり、翌日自宅へ帰りました
 
松川さん:その日は息子がプールに行きたいと言っていたので、午前中から石巻のスポーツ施設に行っていました。途中、職員のかたが息子をみていてくれたので近くに用事をしに出て戻って来たところで揺れに遭いました。その瞬間は車が宙に浮いたように感じました。急いでプールへ向かうとあちこちガラスが割れて散乱している状態。息子はまだプールには入っていなかったので、水着のまま車に戻りました。すぐに女川に戻りたかったのですが、途中にある病院の付近が大変な渋滞になっていて、警察官からも女川に行ってはいけないと言われて足止めを食らってしまいました。どうしたものかと考えていたとき、石巻の特別支援学校の小学校が卒業式で、そこへ行けば知り合いの先生方や保護者がいることを思い出し、向かいました。特別支援学校は避難所に指定はされていなかったのですが、校長先生のご判断で自主的な避難所とすることになったため、そのままそこで3日間過ごしました

Q.お二人とも、出先で被災されたんですね。防災リュックなどを持ち出すこともできなかったと思いますが、障がいのあるお子さんのための荷物や薬、医療的ケアのための道具などは不足しませんでしたか?

笠間さん:普段から子どもの荷物は多めに持っているほうで、スポーツバッグに着替えやおむつ、医療的ケアに必要なチューブやシリンジ、薬など、一通りのセットとその予備を持ち歩いていました。さらに車の中にも予備を1セット、デイケアなどふだん行く先々にも予備を1セットずつ置いてあります。日ごろの外出時でも忘れてしまうと出先で調達するのが難しいので、あちこちに予備を用意していました。あとは自宅に戻った時に、散乱している中を何とか薬などを優先して取り出してきたという形です。
 
松川さん:薬はないと困るので、かばんや車の中などあちこちに分散させて置いていて、1週間分は手元にありました。ただその後、薬がなくなってしまったときに病院に行ったときはすごい混雑でした。すぐに手当てが必要な患者さんも大勢いらして待ち時間も長かったので、できれば薬は多めにもらってあると安心だと思います。ちなみに自宅で被災した人でも実際には防災リュックなどを持ち出す余裕はなく、着の身着のままで逃げてきたというのが現実だったと思います。

Q.地震の翌日からはどのように過ごしましたか?一般の避難所には行きましたか?

笠間さん:避難所のことは一瞬頭に浮かびましたが、行くという選択肢はありませんでした。5か月の双子はとてもよく泣く子どもだったので、周りに迷惑をかけてしまうと思い、自宅で過ごしました。こういうとき命が最優先のはずなのに、どうしても子育てしている中で周りに迷惑をかけてはいけないという考えになってしまっている。本当はそれではいけないと思います。福祉避難所のことも知ってはいましたが、NICU退院後の感染症などを気にしていたこともあり、福祉避難所にも行くことは考えませんでした。数日後に埼玉の妹家族と連絡が取れ、そちらに避難できる状況になったため妹に迎えに来てもらって埼玉へ避難しました
 
松川さん:石巻の特別支援学校では、息子は2日目の昼くらいまでは車から出ることができませんでした。その後は何とか車から出て過ごした後、4日目に女川の避難所にいた夫と娘と何とか連絡が取れ、迎えに来てもらいました。そこから仙台の母の家に避難し、仙台を起点に女川へ通う毎日。女川の避難所を回って社員を捜索したり、中国からの研修生の帰国の手続きをしたりと必死でした。あらゆる避難所を回りましたが、混雑していて、横になって寝られない、トイレが使えないといった状況はどこも同じでした。石巻の特別支援学校はプールの水を使ってトイレを流すことができていたのですが、そうしたケースはほとんどないと思ったほうがよさそうです。

Q.避難所に行くことを考えるのが難しい状況だったようですね。避難生活で障がいのあるお子さんやご家族の体調をくずされたりといったことはありませんでしたか?

笠間さん:体調を大きくくずすということはありませんでしたが、お兄ちゃんたちは本当にがんばって双子の面倒をみたり、おばあちゃんたちのために水くみなどして働いたりして大変だったと思います。一生懸命弟たちの面倒をみてくれるので、逆にこちらがお兄ちゃんたちの負担になっていないか気をつけるようにしました。それと、妹家族のいる埼玉に着いて満開の桜が散るのを見たとき、それまで一切出ていなかった涙が一気に出ました。号泣したら少し心が軽くなったことを感じ、泣きたいときはちゃんと泣くというのは大切なんだと気づきましたね。
 
松川さん:病気などにはなりませんでしたが、何も食べられませんでした。お腹はすいていても、食べることができない。障がいのある息子は4日くらい何も食べられませんでした。お腹の調子が悪くなったので、支援物資の整腸剤はありがたかったです。また、笠間さんのお話と同様に、きょうだいのフォローや心のケアはとても大切です。障がいのある息子の面倒を昔からよくみてくれているお姉ちゃんですが、避難生活中もずっと息子の世話をしてくれていました。かなり精神的な負担をかけてしまっていたことに気づき、当時住んでいた東京のほうに戻ってもらうようにしました。

Q.被災したのが夏だったら何か気をつけることはちがっていたか、という質問が来ています。この方は障がいのあるお子さんが体温コントロールが難しい体質のため、夏の避難生活についてご心配されています。

笠間さん:息子も体にすぐ熱がこもる体質なので、夏だったらかなり厳しいですね。考えたくないですが…すぐ脱水症状を起こしてしまうと思うので、入院などの対応になるでしょうか。あるいはどこか緊急でショートステイできる先を探しておいたりと、つながりが多ければその分考えられる選択肢も広がると思います

Q.被災した経験をふまえて、日ごろからどんな準備や心がけが大切だと感じましたか?

松川さん:先ほどつながりという言葉が出ましたが、人とのつながりは本当に大切だと思います。緊急時だけでなく平常時でもやはり人と支え合っているから生きていられるんだと実感しています。体の健康ももちろん大事ですが、やはり心が元気でないと生きていくのがつらくなってしまいます。愛って抽象的なことですけれど、人とのつながりがあること、何かをしてもらって、自分もまた何かを人にするということ。そういうつながりが大切だし、子どもたちの存在によって私自身もいろいろな人とつながれたと思います。子どもたちが生きていてくれて感謝しています。
 
笠間さん:よく、「震災への備えとして何が必要だと思いますか?」と聞かれます。物やお金ももちろん大切ですが、「人とのつながり」が大事というのはやはり実感としてありますね。

Q.笠間さんは障がい児のための施設を立ち上げて運営されていますが、それは「人とのつながり」という、震災での経験がきっかけだったのでしょうか?

笠間さん:震災が直接のきっかけというわけではありません。もともと重症心身障がい児の預け先がないことに問題意識をもっていましたが、作ってほしいとお願いするだけではなかなか実現しなかったので自分で作ったんです。その後も行政とはいろいろな接点をもちながら連携していますが、「やってください」ではなく、「こういうことをやりたいから一緒にやりましょう」という働きかけをすると実現しやすいということを実感しています。支援を必要としていることを伝え続けることや、地域から県、県から国といったように徐々に広げていくことも大切です。2021年に施行された医療的ケア児支援法は、そうした積み重ねが花開いたものだと思います。

Q.災害時の障がい児や医療的ケア児への支援について、もっと必要だと思われたことはありますか?

松川さん:被災の体験談をまとめた冊子に載っている手記の一つでは、障がいのあるお子さんがいながらなかなか仮設住宅に入ることができず、やっと順番が来たと思ったら障がい者用の仮設住宅の玄関ドアを車いすが通れなかったといった経験がつづられていました。「どんな人も安心安全に暮らしていける街づくりが実現して初めて復興といえるのではないか」と書かれていて、共感しました。

Q.つらい経験をされた中で、避難生活から日常生活へとどのように戻っていったのでしょうか?

松川さん:初めは女川町が壊滅したと聞いて脱力し、何をしていいかわからないと思った瞬間もありましたが、避難所でがんばる保育園児たちの姿を見て、しっかりしなければと思い直しました。何かしてもらうだけでなく、自分も「何かしたい」と思う気持ちはもともと人がもっているものだと思うんです。障がいのある子どもたちも同じです。支援学校の中でも、高校生が小中学生に読み聞かせをしたいと言って図書係を自主的に作るなど、いろいろな動きが生まれました。多くの経験をすることで、それが強さや自信につながっていきます。これからも子どもたちにたくさんの出会いを作って、人とかかわりながら生きていくことを応援したいですね。

Q.障がい児の支援を含め、行政や地域の福祉サービスと連携して地域ぐるみで防災力を上げていくために、何ができると思いますか?

笠間さん:まずは地域のみんなと仲良くなりましょう。100人声をかけて、1人返してくれる人がいたら、その1人と一緒に何かやってみましょう
 
松川さん:障がいのことを知らない人がいたら、知ってもらう、わが子を見てもらう、そこからいろいろな話が始まっていくのではないかと思っています
 
 
お二人とも大変つらい経験をされている中で、ご家族を守り、前に進み続けているその姿に、大きな勇気をもらうことができました。薬や医療的ケアの道具をどのように準備しておくとよいかといった実践的なアドバイスから、「人とのつながりを作っておく」という大切なお話まで、貴重な体験談を伺うことができました。そして、お子さんたちのために行政や周囲の人に働きかけ続ける力強さとねばり強さ。こうした積み重ねが実を結び、誰もが暮らしやすい社会へとつながっていくことを願い、行動していきたいという気持ちになりました。

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