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2024/05/07

 久々にブログでも。
 身近にnoteを書いてる人が2人いて、なんとなく触発されて書こうと思った次第。

 4/29と5/3にライブがあった。どちらもかなり前から決まっていたことで、準備したりワクワクしたりしていた。どっちも昼からのイベントで、前者はCDを出したりツアーを回ったりしている人たちがちらほら、後者は大半がコピーバンドで初めてライブハウスに出る人もいたりした。どっちがいい悪いじゃなく、どちらにもとても刺激をもらった。良いライブとはなんだろうか。たくさん人がいたらそれは良いライブなのか。お客さんが暴れていたら? 物販が売れたら? 誰かが感動の涙を流していたら? 目に見えることだけが全てじゃない。フロアの後ろの方で腕を組んで観ていても、心を震わされることがある。演奏が終わった後に何かしらのアクションを起こしたくなるのが良いライブと言えるのかもしれない。

 みんな必死に生きている。ステージで暴れて暴言を吐く人、電車でちょいゲロをして人に引っ掛けて謝らない人、企画をすっぽかして散々人に迷惑をかけても平気な顔の人、自分を守ることに精一杯で人に当たり散らかす人、盲目的に何かを愛し周りが見えなくなってる人。たくさんの人がいて、それぞれの事情で生きている。見放すことは簡単だ。関わらない方が楽ではあるだろう。だがしかし、人と繋がることでしかできないことがある。人と分かりあうことが何よりも喜ばしいことだ。世界は人が作ったものばかり。人と繋がる為の仕組みだらけ。ある人は「出会うことから全てが始まる」と言い、またある人は「出会ったことで人生救われた」と言う。

 自分の為にはもうあまり頑張れないけど、誰かの為にならまだまだ頑張れるとよく思っている。胸に熱い想いもまだある。叶えたいようなことも少しはある。平和な日々を楽しめる余裕もある。全てをぶっ壊してしまいたいような夜もある。

 流れのままに生きてみたり。ちょっと自分の行きたい方に行ってみたり。その場その場でできることは精一杯やる。そうじゃないと勿体無い。やり切らないと悔いが残る。だからやりすぎてしまったり、力を抜ける人はすごいなーと思ったり。

 今は余生を過ごしているような感覚。前後半終わったアディショナルタイムと言うのかな。いい意味で何も考えてないし、それでも日々思うことは多々あるのだ。本を読むのは好きだし、よく買ったりしてる。でもそのほとんどは最初の何十ページかで満足して積読してある。読んでるうちに何か行動したくなってしまう。そういう読み方もありだと思う。時間は有限だから、全ての本を読み切ることできない。それよりも何かを吐き出す方が大事なんじゃないかと思ったりする。

 僕は幸せになれないと思っていた。でも今は幸せな瞬間も時折あったりする。30才になったら死ぬと思っていたけど、なんだかんだそこから6年以上生きている。40になるとか全く考えられないことだけど、このまま健康に気をつけて生きてたらその日を迎えるのだろう。

 思い通りになんて全く行かないから、その場その場のアドリブで即興的に生きるしかない。未だにバカみたいなミスもするし、子供みたいにワガママを言ったりもする。でも昔と明らかに違うのは、人の為に何かをできるようになった。昔はあまりにも自分本位で、人のことなんて蔑ろにしていた。それじゃあダメだと気付いたのは30を過ぎてからだ。大切なことがわかってきたのはわりかし最近の話。日々学びの連続。もう死のうなんて思わない。40過ぎてからも新しい発見がたくさんあるのだろう。

 手の動くままに感覚で書いている。僕は左利きだ。頭の中はふわふわしたイメージしかないから、こうやって文字にするの自分のことがなんとなくわかる。こういうことをもう20年以上続けていて、未だに自分のことはよくわからない。だから書く。何かを残す。音楽をやったりもする。

 またいつか小説を書きたい。日々日記を書くのはそれの練習な気もする。難しい文章は書けないけど、ずーっと書き続けることはできる。それは毎日のように文章を書いているからだろう。

 気が向いたらまた。


2024/05/10

 好き勝手にみんな生きている。自分だってそうだ。人を傷つけながら生きる人がいる。自分だってきっとそうなのだ。

 自分の為に生きていてもなんだかつまらないとわかった昨今。自分の為にはもうあまり頑張れないけど、人の為ならずまだ頑張れると思う。自分の幸せが誰かの不幸になるならばそんなもんはいらない、なんて本気で思ったりする。だからなるべく幸せだなんて言いたくない。全部さらけ出せばいいってもんじゃない。隠れてひっそりと、誰にも言わないでおくべきことはある。

 なんて思うけれど、全部ぶっ壊してしまいたい夜もある。あまりにも身勝手な人間の何かを目の当たりにしてしまった時。なかなか進まない物事に辟易してしまった時。自分なんて本当にクソだと思うこともあるし、まじで天才なのかもしれないなんて思うことも。ステージの上では全てさらけ出してしまいたい。誰にも負ける気がしないし、裸になってでも剥き出しでやりたい。ステージから降りたら普通の人、一般人。人気者は頭がおかしくなるだろう。日常ではクソミソに扱われることがあるのに、ステージでは持て囃される。ギャップにやられる。僕は人気者になったことがないから、そこで病むことはない。

 ライブのノルマがどーのこーの。そりゃタダでライブできたらいいよな。でもライブハウスも商売だからお金を取らないとやってけない。お客さんをちゃんと呼べれば全て解決。しかしそんなポンポンと人を呼べるバンドばかりではない。じゃあお客さん呼べるようになるまでライブをしなければいいのでは? ではお客さんを呼ぶ為にはどうしたら? この辺りで壁にぶち当たるのだろう。昔はライブをすることでファンを会得し、物販で音源を売り、少しずつ少しずつ広めて行くのが主流だったのだろう。そしてレーベルの人の目に留まり全国CDデビューをし、フェスなどに出て、トントントン。今はSNSでの運営が主流なはず。上手いこと人の目を引くようなことをして、動画やらTikTokなどでバズり、今までではありえないような速度で広まっていく。SNSをうまく使わなければいけない時代なのか。地道に腕を磨いてお金を払いながらでもライブをやって行くのか。以前とは状況がかなり変わりつつある。それでもやっぱりいいライブをしいい音源を作ることに越したことはない。本当に素晴らしいことをやっていればいつかは報われる? でもその素晴らしいってのは誰が決めることなんだ? 堂々巡り。しのごの言ってないで人を呼べばいいのだ。結果だ数字だ、と外野は言うだろう。そんな簡単な話でもない。しかし何かしら努力することはできる。趣味なのかガチンコなのかその間なのか。わからない。けれども自分の中の音楽は捨てたくないという葛藤。みんな好き勝手生きている。それぞれの立場でそれぞれの意見がある。SNSはちょっと色んな声が多すぎる。そして声が大きいやつが正しく見えるものだ。

 生きてりゃ病むし、死にたくなる。それはたぶん正常なこと。そうなってもなんとか奮起して、自分の機嫌を取らなければならない。そこに音楽があったり、youtubeがあったり、友人や恋人がいたりする。人は人に悩まされて、人に救われるものだ。結局は人。何をするにも人。どこに行くにも人。どう足掻いても人。「一人で生きていくんだ」なんて息巻いてる人でも、誰かが作った物を羽織り、誰かが作った建物に住み、誰が行った表現などを楽しみ、誰が作った食物を口にする。そしてみんな誰かの子である。いつか誰かの親になるのかもしれない。「結婚子供なんて考えられない」なんて言ってる人でも、時が経てばまるっきり別人になったりする。基本的にはみんな心も身体も丸くなる。昔では考えられなかったような行動に出たりする。何かに抗わなくなったらどんどんと普通になっていく。何かに抗ってようやく何かを保てたりもする。あー、何が言いたかったんだっけ。結局生きている限り人と関わり続けるってことか。

 結局は死んでしまうから、なるべく楽しく生きたいもんだ。誰とも争いたくなんかないし、仲良くヘラヘラとやっていたい。困っている人がいれば助ければいいし、苦しんでいる人がいれば救ってやればいい。まずは目の前の人から。余裕があればもっと広げていく。全ての人に直接会うのは無理だから、その為に音楽や文章、お笑い、絵や映像などの表現がある。たくさんの楽しませたり救ったりするには、これらが不可欠だと思う。食べ物のようになければ死ぬような物ではないけれど、これらがなければなんてつまらなく色のない世界になってしまうことか。だから作れる人はすごいし偉いんだよ。誰しもができることではない。少しでも自信や誇りを持ってほしい。たくさんの人に届かなくとも、誰か一人の心を少しでも動かせたら、それはやった価値があるということ。大切な友人なんて片手で数えられるほどでいいだろう。恋人や生涯のパートナーは基本的に一人しか選べない。だから数じゃない。お客さん一人呼べることがどれほどすごいことか。人の人生はただの数字じゃない。それぞれ一つに重みがある。だから人の為に生きるのは楽じゃない。でもそれでもやっぱり人に繋がっていたいんだ。

 そんなことを考えながら、近所の川辺を走る。


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