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メネフネの見える夏



 随分と昔から、祖父には湿気の多い雨の日に死んでもらおうと決めていた。だからこそ、カラッとした晴れの日に息を引き取るのは予想もしていなかったことで、祖父は最後まで自分勝手な人間だったのだと気付かされる他無かった。

 久々に聞く蝉の声は、煩いというより懐かしい気持ちが大きい。大阪でも田舎町では蝉が鳴く。祖父が危ないと聞いて東京から帰省した時、鬱々しい気持ちの中には確かに少しだけ安堵が混じっていた。半分は暫く仕事を休めることで、もう半分は、これで祖父を憎まなくても良くなるという気持ちだった。
 さっきからスマートフォンが頻繁に鳴る。忌引きを使って休んでいるのに、後輩は容赦無く業務の連絡をしてくるのだ。普段は休みでも関係なく返すところだが、流石に返事をする気になれなかった。東京から離れることで、仕事への憂鬱が具体化したようにも思えた。物事というのは近すぎると焦点が合わないものである。

「辞めちゃおうかな」

独り言は、祖父にしか聞かれていない。祖父は勿論、返事をしない。祖父の枕元では蝋燭の火が繊細に揺れている。

「マヒナ、お母さんちょっとお客さんの髪切ることになったんやけど、じいちゃんの遺影選んどいてくれへんか?」

 病院から家に戻ってきて六時間のことだ。居間で横たわっている祖父の亡骸は、血色こそ悪いが眠っているようにも見える。ただ無機質な空気の中に線香の匂いが漂っていて、それで祖父が死んだのだと実感した。
 ぼんやりと見ていると、母は静かに襖を開け、身体を少し乗り出すように私に声を掛けてきたのだった。

「なんでこんな時に髪なんて切るん? それに遺影選ぶなんて大事なこと、お母さんがやった方に良いに決まってるやん」

「そんなこと言うたって、原間さん今から娘さんとこの顔合わせある言うから、切ってあげたいやんか。じいちゃんが作った理髪店を大事にするんが一番の孝行やわ」
 母の意見は、こうなると覆すことが困難である。母はアルバムを持ってくると言って、大きな足音と共に二階へ消えていった。

 祖父が始めた理髪店の名前は『カノア』といって、祖父が引退してからは母が継いで経営している。母が理髪店を継ぐと聞いた時、私は大変に驚いた。カノアは一代で畳むべきだと心から思っていたからだ。
 今日だって、母は祖父の顔をあまり見ない。母も本当は、祖父のことを憎んでいるのでは無いだろうか。私は祖父を憎んでいるということを、母にも言えないでいる。

 祖父は多分、随分長いこと不倫をしていた。

カノアは時代に合わないハイカラな名前で、小さい頃はその名前をただ可愛いと思っていた。そんな家で育ったので、私は自然と美容師になるのが夢だった。
 その頃は母と一緒にカノアをやるのも良いと思っていた。常連たちは皆髪を切ってもらって嬉しそうな顔をしていたからだ。それが高校生の頃、開けっ放しに置いてあった祖父の財布からうっかり見つけてしまったのが一枚の写真である。

 祖父と、知らないダンサーの写真。

大事そうに、透明のフィルムに覆われていた。モノクロだったが、見なりや持っている人形からハワイらしい風景であることは分かった。右下に『kanoa』と書かれていて、それが彼女の名前だと知った。

 写真をみた瞬間『そういえば』と思い出したことがあった。理髪店のレジ横には昔から不思議な人形が飾ってあった。黒髪のハワイアン風な女の子と、白髪の老人に見える男の人形。台の上に立っているプラスチックで出来た人形だ。それが写真の中で、カノアの右手と祖父の左手に持たれていた思い出の人形だと知った。
 私は人形を指して「気持ち悪い」と言った。祖父は悲しそうな顔をしていたが、私の前では口角を上げ、無理に笑っていた。次の日からその人形を一度も見ていない。バツが悪くて捨てたのだろう。

 祖父は不倫相手の名前を、人生を捧げる理髪店の名前にしたのだ。祖母は私が小学生の頃に亡くなったので、店名の由来を知っていたのかは直接訊けずじまいだった。素朴な顔をした祖母は、私の記憶ではいつも優しく、幸せそうな顔をしていた。そんな祖母の写真は家に沢山置いてあるのに、祖父はその派手な顔立ちをしたダンサーの写真を、肌身離さず持っていたのだ。
 それきり祖父とは上手く話せなくなってしまった。思春期だった私にとって、祖父を憎むには充分過ぎる理由だったのだ。

 だから、祖父の死ぬ日は湿気の多い雨の日だと決めつけていた。祖父の大好きなハワイとは真逆の、日本らしいジメジメした気候。私が願うことの出来る唯一の反発心だった。

 どん、と畳の床に振動が響いた。母は数冊の分厚いアルバムと封筒を私の目の前に置いて、額を拭った。

「最近の写真なんて全然残ってへんから、髪の毛ある写真使うしか無いかもしれんなあ」

私はどうしても遺影を選びたく無かった。憎しみの気持ちを持っている私が選んでしまったら、実家に帰る度写真に睨まれるに決まっている。私はもう一度母に断りを入れてみたが、母も揺らぎはしなかった。

「お母さん、じいちゃんの写真なんてよう選ばんわあ」

一瞬、母の眉が潜んだ気もした。悲しみなのか、深くに眠っている恨みなのかは読み取れなかった。

「じいちゃんは死ぬ直前までマヒナのこと気に掛けてたで。アンタのこと可愛がってたんやから。ほら、名前やってじいちゃんが付けてくれたんやんか」

 心に抉られるような傷が走った。名前は呪いだ。私の知らない間に付けられたマヒナという名前は、ハワイ語で月の光を指している。無邪気に笑えなくなったあの日から、手が届かない背中の真ん中に画鋲で押されたように、名前がずっと張り付いている気分である。祖父の、不倫相手が考えたに決まっていた。祖父はあの女のせいで、ハワイに魅了されてしまったのだ。

 私は母が羨ましかった。母は名前を『なお』と言った。祖母が付けたと聞いたので、あの不純な写真を撮ったのは母が生まれたずっと後だと思う。

「お母さんは、なんでおじいちゃんの理髪店を継いだん?」
「そりゃあ、じいちゃんの理髪店に来るお客さんはおったからね。それに、あの店は…はいはい!」

理髪店を繋ぐ台所の方から母を呼ぶ声がして、会話は中断された。原間さんの声だった。母は多分、祖父の話を原間さんにしていない。『自分の不幸より他人の幸せを優先すべき』という、母のそれらしく繕われたモットーである。

「マヒナ、じいちゃんの蝋燭消えんように見といてよ」

 祖父の枕元には絶えず蝋燭が揺らめいている。母は実の父が死んだというのに、本当に原間さんの髪を切りに行ってしまった。仕方が無いので手元にあるアルバムをパラパラとめくる。時系列もめちゃくちゃで、とりあえず差し込んである写真の数々。こんなにたくさん写真はあるのに、レジ横にあった男女のプラスチック人形も、ハワイの女もどこにも映っていない。誰にもバレないように、財布に隠し持っていたのだ。
 決まった友人はいるようだが、祖父の写真はどれも笑っていない。後ろに手を組んで、真顔でカメラを見ているだけだ。やっぱり笑っているのは頭から消えないあの写真だけ。ハワイの、人形を持った女の隣で、屈託のない笑顔をしていた。
 恋をしているから、あんなに笑っていたのだ。

 ポケットに入れていたスマートフォンから電話の通知音が鳴った。東京の職場からだった。緊急の用事かと思い電話に出ると、四年後輩である笹岡の声が電話先から響いた。

「お疲れ様です。シフトなんですけど、今日から五日間お休みということは誰か代わりに出た方が良いんでしょうか? 今聞いてみたんですけど他のスタッフで出れる人が居なくて、ヘルプを出そうかって話になって」

 シフトに穴が空いて出勤するのはいつも私だ。だから、私が休んでシフトに穴が空くのは当たり前のことだった。モヤモヤとした気持ちを抱えながら後輩に謝罪の言葉を入れ、遠慮がちにヘルプの要請を頼んだ。

 電話を切った瞬間、私はたまりかねて大きなため息をついた。母に理髪店のことを聞いてしまった自分に嫌気が差す。理髪店を続ける理由を聞いてしまったのは、祖父のことだけでは無い。母は一度も理髪店を辞めたいと口にしたことが無かったからだ。私は今、東京の美容院を心底辞めたいと思っていた。学校卒業と共に飛び出して五年も働いた、全国展開の美容院だった。

 祖父が作った理髪店『カノア』は古臭くて決まった客しか来ないようなこじんまりとした店である。私はカノアへの反発心を違う方向に捻じ曲げて、とびきりお洒落な美容院へ就職した。全国展開する大規模な美容院『Amelie 表参道店』だった。田舎町とは店員も客も違う。みんなが自分の色を知っているように、個性を髪に出していた。私も負けじと髪を染めた。緑もピンクも紫も、どの色に染めても違和感があった。どれだけ周りに合わせても、どこかで無理をしているのが見透かされているような気持ちだった。


「マヒナさん、次の店長候補だって噂されてましたよ」

遅番で閉店作業をしていると、二年後輩の武田が話し掛けてきた。武田は深めのブルーアッシュがよく似合っている。腕前は他スタッフに比べると優れていると言えないが、コミュニケーション能力には人一倍長けていた。

「武田君こそ、シャンプーの販売成績良いらしいじゃん」

 バレないように、嫌味を言ったつもりだった。彼の接客は滅茶苦茶で、押し付けがましい販売はいつクレームが来てもおかしくない勢いだ。接客業はそんなことではいけない。一人一人寄り添って、一緒に答えを出すべきなのだ。
 私の考えはずっと変わらなかった。武田のような愛嬌は持ち合わせていなかったが、店長ともそれなりに上手くやってきたつもりだった。

「それにしてもマヒナさん、思い切りましたね。ほら、あの大学生の子。店長困ってましたよ」

笑いながら話す武田の言葉に心がざわついた。彼のいう大学生の子、が横山奈々美ちゃんの話であることはすぐに分かった。大学一年生で、親子同じ美容院に通っている。毎回親子一緒にやって来ては奈々美ちゃんの髪型を一緒に決める過保護な母親で有名だった。男性が苦手な奈々美ちゃんは随分昔から私を指名してくれている。高校を卒業して、ようやく一人でここへ来るようになって、彼女は意を決したように私にオーダーしてくれたのだ。

「夏休みだから、髪をうんと明るくしたいんです。韓国アイドルのクゥちゃんみたいな、オレンジ色に近い茶色が良くて」

勿論私だって、彼女の母親の顔は頭をよぎった。

「クゥちゃんみたいな髪色にするなら、ブリーチを二回しなきゃいけないよ。それでも良いの?」

奈々美ちゃんは下唇を少しだけ噛んで頷いた。母親のことを一番よく知っているのは彼女だ。考えていないわけがない。

「じゃあ、染めちゃおうか。折角の夏休みだからね」

私は心の中で彼女の勇気に拍手して、彼女の髪をオレンジ色にすることを選んだ。母に決められていた黒髪よりも、彼女の顔がパッと明るく見えた。
 オレンジは奈々美ちゃんにぴったりだった。私も嬉しかった。私が美容師として成し遂げたいことは、こういうことなのだ。
 それなのに店長は、そういう接客を嫌がる。元からそういう人柄だったわけではない。店長になってから、彼はとことん保守的になった。

「大きな美容院ですからね、店長も色々考えちゃうんじゃないですか」

ここにいる人たちはみんな、割り切るのが上手い。割り切るのが上手いということは生きるのが上手いということだった。


「上原さん、いらっしゃるかね?」

玄関の方から声がしてハッとした。カノアではなく、上原家に用があるということは、祖父の知り合いであることに間違いなかった。玄関の方へ出向くと、見覚えのある顔が立っていた。理髪店にもよく来ていた村内さんだった。

「やあやあ、マヒナちゃんやんか。大きうなって。この度はほんまに、残念なことやったなあ」

村内さんとしっかり話したのは小学生振りだった。村内さんの中では、私はまだ祖父のことを大好きで、今回のことを残念だと思っているのだ。差し障りのない返事をしていると、村内さんは紙袋を差し出してきた。

「実はな、もう随分昔に誠二郎さんにこれを預かってたんや。死んだら棺桶に入れてくれ言われとってな。体調崩してから、もう一回念を押してきてん。私が先に死なんで良かった。約束を果たせたわ」

紙袋から覗く頭にギョッとした。村内さんが持って来たのは、昔私が「気持ち悪い」と言ったレジ横のプラスチック人形だったのだ。あれは祖父が捨てたと思い込んでいた。

「これは、受け取れません。棺桶には入れられません」

半ば反射的な言葉だった。村内さんは驚いていた。

「いや、でもな。誠二郎さん…マヒナちゃんのじいちゃんはこの人形を本当に大事にしとったんやで。カノアにも飾っとったくらいやし、相当思い入れがあると思うんねん。私からのお願いや。受け取ってくれへんか?」

村内さんの善意を無駄にする程の勇気は無かった。私は受け取らず、村内さんを祖父の枕元へ案内した。

「直接渡してやってください」

村内さんは祖父の顔を見ると、泣くでもなく落ち込むでもなく、穏やかに語りかけた。

「誠二郎さん、ずっと奥さんの側に居たい言うとったもんな。良かったな、これでまた一緒や」

村内さんの言葉に不覚にも涙が出そうになった。同情なんかでは無い。祖母が不憫だったのだ。祖父が祖母に会いたいという気持ちが例え本音だとしても、祖母は果たしてそうだろうか。村内さんは、祖父がしたことを何も知らないのだ。

 私は不意に祖父の枕元の蝋燭を消したくなった。あの蝋燭が無ければ、天国へ行く道のりも途絶えるかもしれない。祖母は祖父に会わなくても済むでは無いか。

「マヒナちゃんは、あの人形がまだ怖いんか?」

無言で蝋燭をじっと見つめている私に気を使ったのか、村内さんはいつの間にか私の方を向いていた。

「怖い、ですか」

村内さんは紙袋から人形を取り出して、祖父の側に置いている。祖父を見守るように立っている男女の人形。その人形を怖いと感じたことは一度もなかった。どちらかというと、目がキョロっとして可愛らしい風貌だ。

「あんた覚えてないんか。昔この人形を怖い言うて、じいちゃんはうちに持ってきたんやで。大事な思い出や。捨てれんかったんやろ」

 祖父は、私があの人形を怖いと思ってレジ横に置くのを辞めたのだ。
 やっぱり村内さんが帰ったら蝋燭を消そう。

 葛藤の中、母は原間さんの髪を切り終えたようで部屋に戻ってきた。

「原間さん、じいちゃんが亡くなった言うたら驚いてはったわ。随分長いこと会ってへんかったもんなあ…あらあら、村内さんやないの、元気にしてはりました? 線香あげてやってくださいな」

村内さんは母の顔を見ると安堵したようにも見えた。やはり長年会わなかった私には気を遣っていたのだろう。

 母は美容師なのに、身なりを全く気にしていない。それでも取り繕っている私より余程自然で似合っている。

「マヒナ、じいちゃんの写真選んでくれたん?」

「やっぱりお母さんが選んで。私には選ばれへんわ」

もしも私の名前を祖父以外の誰かが付けていたとすれば、私は祖父をこんなに憎むことは無かったかもしれない。母が少しも祖父への憎しみを表に出さないことは不思議だった。常に側に祖父がいて、憎む暇すら無かったのだろうか。それとも名前という枷もなく、母は自分自身と祖父を切り離すのが上手かったのかもしれない。

「それやったらマヒナ、カノアに置いてるじいちゃんの梳きバサミ持って来てくれへんか?棺桶に入れたろう思ってるんや」

 いつからかカノアは母のものになって、それでも私はあまり立ち入らなかった。村内さんも線香を立てると帰り支度をし始めたので、私は渋々台所を通ってカノアに向かった。カノアの入り口と家の入り口は別々だったが、家に用事がある人がカノアから入ることもあったし、逆も然りだった。祖父が亡くなっても、思い出のあるカノアは生き続けている。不思議だった。

 客の居ないカノアは薄暗い。なんだかこの空間だけがセピア色に感じた。いつから時が止まっているのだろう。ふと祖父が現れて、客の髪を切り始めても不思議では無かった。
 二つしかない鏡は今もピカピカだった。母の手入れが行き届いているのだろう。なにせ何十年も使っているので、客の容姿を少しでもよく見せる照明や湾曲の工夫などは一切施されていない。母と同じ世代の常連が途切れれば、新しい顧客が獲得できないのは明らかだった。
 例えばこの店も白を基調に壁紙を貼り替えて、白熱灯で部屋を明るく照らせば見栄えだって良くなるし、祖父が遺した古臭い小物も『レトロ』や『アンティーク』と言い換えられるようになるだろう。母は腕が良い方だ。しかし知識がない。祖父が作った理髪店だと思えば憎いが、母が継いだ理髪店と思い直せば残念な気もした。

 年季の入った鋤きバサミを手に取って眺めていると、スマートフォンの通知が鳴った。今度は店長からだった。

「大変な時にごめんね。僕だけでもお葬式に行こうかなと思ったんだけど、明後日の何時からだったかと思ってね」

私は店長の提案を丁重にお断りした。しかし彼は引き下がらなかった。

「上原さんとは長い付き合いだし、それに君にとってはおじいさんはお父さん代わりだったんじゃ無いのかい」

「遠方ですし、本当に大丈夫なので」

 店長の言葉に引っかかる点は幾つかあった。しかし『長い付き合い』という言葉には、今までだけでなく、今後の意味が含まれている気がして複雑だった。店長はほんの数ヶ月前、私に退職を促した張本人なのだ。


 Amelieはシフト制なので全員が出勤する日は殆ど無いが、ミーティングが行われる際には事前に全員が出勤を促されることがあった。武田が言っていた噂の話は専ら雲を掴んだような話ではなく、ある日の閉店前、表参道店のスタッフが全員集結した。

「本社からの通達で、吉祥寺店に異動してもらうスタッフが決まりました」

皆チラチラと私を見ていた。噂話があったということは、吉祥寺店で店長として選ばれるに違いない。私は心から店長になりたいわけではなかった。しかし店長になるには相応しい時期という点で焦りはあった。店長が一呼吸置いている間、心臓が大きく鳴るのが自分でも分かった。

「吉祥寺店には武田君に行ってもらいます」

 よりにも寄って武田だった。誰も騒がなかったが、一瞬冷たい空気が流れたのは私にもよく伝わった。焦りや鼓動の理由は店長になれないことに対しての恐怖では無かった。選ばれなかったことで皆が感じる、私への憐れみの恐怖だった。
 解散後、私のことはまるで触れてはいけないかのように、武田の周りに皆が集まった。祝福の言葉が浴びせられている。夢でも見たくない、私が一番恐れていた光景だ。私は静かに帰る準備をしていると、そっと店長に呼ばれた。

「武田君の異動は店長候補では無いよ」

店長は耳打ちするように小声で話しかけた。

「だけどいずれは、上原さんより先に店長になると思う」

驚きはないが、いざ他者から言われると心に刺さるような傷は感じざるを得なかった。私と武田の違いには、明らかな点がひとつある。

「業績ですか」

店長は頷いた。

「武田君はAmelieのような全国展開向けだ。営業力はあるし、腕こそ劣るがオーダーは無難に受ける。君は真逆だ。無理にお金を取らないし、お客さんの理想を叶えることに尽力する。悪いことじゃ無いんだよ。僕が言いたいのは、上原さんはチェーンの美容院に居るのが勿体ないんじゃないかと思うんだ」

店長のいうことは尤もだった。どれだけ馴染もうと必死に髪色を染めても浮いてしまうように、私はこの店に合っていないのだ。しかし店長に言い当てられたことが酷く悔しかった。

「勘違いしないで欲しいが、辞めろと言っているわけでは無いんだよ。上原さんがこれからも続けてくれるなら、僕にとっては一番嬉しい」

「辞めます」と言えたら良かった。脳裏には田舎くさい一つ結びをしたままの母がいて、私はお洒落な美容院から離れる勇気が無かったのだ。

宙に浮いたまま働き続けることに苦しさを感じていた頃、祖父が危篤になった。

 あの美容院を辞めるなら、いっそ美容師を辞めた方が良いのかもしれない。私が求めているものは、此処には無い。


 カノアから部屋に戻ろうとした時、ふとレジが視界に入って二度見した。昔から使っている古びたレジ横の、例の人形が置いてあった場所に、祖父とダンサーの写真が飾ってあったのだ。私は思わず写真を手に取り、母の元に駆け出した。

「お母さん、これ…」

言いかけて、言葉が詰まった。アルバムを見ている母が泣いていたのだ。

「お母さん、泣いてるん?」

母は目元を拭った。

「写真見るとやっぱりあかんわ。分かってたことやし覚悟は出来ててんけどね、元気やった頃のじいちゃんと目の前にいるじいちゃん、全然違うから寂しさを実感してまうねん」

母が泣いた。私はこの時ようやく気が付いた。母は祖父のことを憎んでなんかいないのだ。手元にある写真を思わず隠そうとした。今、母にこの話をするべきでは無かったのだ。

「それ、じいちゃんとばあちゃんの写真やんか、どうしたん」

「…じいちゃんと、ばあちゃん?」

「そうやで。流石に遺影にするんは古すぎるんちゃうかな」

私は手元の写真をもう一度見直した。やはり、派手な化粧をしたハワイのダンサーに違いなかった。

「マヒナ、もしかして知らんかったん? ばあちゃん昔ダンサーやったんやで。ばあちゃんあんまり言いたがらんかったもんなあ。写真もこれしか残ってへんねん」

母が当たり前のように話す言葉が、暫く理解出来ずにいた。あの素朴な顔をした祖母とダンサーが、あまりにかけ離れていて別人だったのだ。
 母は目を赤くしながら、まるで自分が知っているように話し始めた。

「ばあちゃんはハワイが大好きで、でもそれ以上にじいちゃんが好きやったんや。ばあちゃんにとってハワイに勝てるものはじいちゃんしかおらんかったんちゃうかな」 


 祖母は十九歳の頃、テレビで初めてハワイの海を見てからずっとハワイに憧れていた。当時は二十歳というと結婚を意識するには充分すぎる年齢で、親からは酷く反対される中二十四歳の時ようやくハワイへ飛び立つことが出来たのだ。
 祖母はハワイが大好きだった。ハワイの人は気候と同じで皆温かく、外国人だということも全く支障が無かった。日本には帰らず『lei』という芸名を名乗って、一生ハワイで生きていくつもりだったという。結婚するつもりもなかったのだ。そんな時に出会ったのが、日本から訪れた祖父だった。

 祖父はその頃、夢だった理髪店の経営に足を踏み込めずに居た迷走期だった。逃げるようにハワイを訪れたのが二十六歳の頃である。祖父は初めて訪れたハワイの地で、カノアと名乗る女性に一目惚れをしたのだった。

「じいちゃんは、ばあちゃんの容姿に惚れたんやなくて、自分の意思で生きる強さに惚れたんやないかって思うんよ」

 母は話を続けた。祖父は祖母と暮らすため、ハワイに二年間移住をした。祖父がぼんやりと、このままハワイに住む決意をした頃、祖母は突然父に向かってお願いしたのだ。

「誠二郎さん、私日本に帰りたい」

 祖父曰く、あれは宙ぶらりんになった祖父の夢を叶える為についた嘘だった。当時はそんなことを微塵に思わず、祖母の願いを叶える為に日本へ帰国をした。祖母はそれ以降、一度もハワイに行きたいと言わなかったらしい。祖母には大きな覚悟があったのだ。帰国してすぐに念願の理髪店を始めたとき、祖父は迷わず大事な店に『カノア』という名前を付けた。


「似てるんよ、メネフネとばあちゃんはなんとなく」

 母は村内さんが置いていったプラスチック人形を見つめていて、それがメネフネと呼ばれることを初めて知った。確かに黒髪で化粧気の無かった時の祖母は、顔つきがメネフネに似ている。私は母の話を聞きながら、自然と涙を流していた。祖父の死への悼みでは無かった。勘違いで人を恨み続けていた罪悪感だった。

「メネフネは小人やけど、人間の願いを叶えてくれるっていう伝説もあるねん」

 母は祖父の顔を見つめた。祖父は静かに眠っている。まだ間に合うんじゃないかと錯覚する程に眠っている。

「じいちゃん、ごめんな」

言葉にした瞬間、堰き止められていた涙が込み上げ、私は子どものように声を上げて泣いてしまった。何年も冷たくしてしまった態度も、勘違いで思い出の人形を遠くへやってしまったことも、全部手遅れだ。

「マヒナ、じいちゃんの遺影の写真選んだって。じいちゃん喜ぶと思うで」

取り返せないことは分かっていても、母の言葉を信じる他無かった。数々のアルバムを開いてみるが、若い頃の祖父ばかりで遺影に出来るものは無い。何より、あの写真よりも良い笑顔をした祖父は見つからない。

「ばあちゃんと一緒に映った写真より良い顔してる写真は無いよなあ」

母の言う通りだった。祖母が亡くなってからの写真は、どれも口が真っ直ぐで退屈そうだ。せめて口角の上がった写真を探してやりたかった。三冊目のアルバムを開いたとき、私はふとページをめくる手を止めた。

 何年前だろう。カノアの前で佇んでいる写真。祖父がほんの少し笑っていた。

「これが良い。これを遺影にしよう」

母も頷いていた。

「ばあちゃんの十七回忌の時の写真やね。良い顔してるわあ」

やはり、祖父は祖母の前でしか笑わないのだ。

「お母さんは、カノアを継いだ理由に常連さんが居るからやって言うたけど、もう一つあったんやろ」

原間さんの声で中断された言葉の続きが、今なら分かる。

「マヒナも、戻ってきても良えんやで」

母はきっと何かを勘づいていた。ただ一度呟いただけで、それからお互い無言になっていると、遠くの方から母を呼ぶ声が聞こえてきた。

「なおさん! あんた表の駐車場いっぱいで停められへんかったわ」

あの声は典子叔母さんに違いなかった。これからもっと親族が集まって、この部屋は騒がしくなるのだ。
 母がバタバタと玄関へ向かって、祖父と私は二人きりになった。

「おじいちゃん、もしかして私を此処に呼んでくれたん? 」

祖父は涼しげに眠っている。祖父は死が怖く無いのだ。
 玄関からやって来る足音は騒がしい。とても今から葬式の段取りが組まれる雰囲気では無かった。

「なおさん、あんた一人で大変やったやろ」

「マヒナがおったから、ここ数日はそうでも無かったんやで」

 私はふと、何故母の名前は『なお』なのか気になった。スマートフォンを開いて『なお』という言葉を調べると、ハワイ語でさざ波という意味だった。私は母と繋がっていた。カノアは私たちを繋げている。

「ところでなおさん、棺桶にハサミなんて入れても良えんか?」

 誰かが死んで葬儀までの空白の時間、不思議と周りが明るくなる。その明るさは一瞬だけ付いてはすぐに消える線香花火のようで儚い。
 遠くで蝉が鳴いていた。クマゼミはまるで自分の生を自覚するかのように、一生懸命鳴いている。私はそのまま手に持っていたスマートフォンの電源を切った。その静けさは死では無い。生きるための静けさだった。



この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』に寄稿されています。文活では生活に寄り添う物語をおとどけしています。作品は全文無料で読めますが、マガジンを購読いただくと作品ごとの「おまけ」が受け取れます。

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