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私を 想って 第九話

 気がつくと朝になっていた。カーテンの隙間から勢いの強い日差しが床を照らしている。
「痛っ」
 立ち上がろうとして思わず声がでた。
 膝を抱えた格好のままだったから、背中が痛い。眠っていたのか、それとも起きていたのか。視界も感覚もぼやけていてよく分からない。
 家の中は、静まりかえっていた。
 狭い借家にいたときもそうだが、広い家に一人でいると、よりいっそう自分が一人ぼっちなんだと感じる。
 昨夜、涼花さんから連絡が来たのは十時過ぎだった。

『とりあえず命の危険はないから安心してね。でも、明日からもっと詳しく検査することになったの。このまま入院になるから、検査の結果しだいだけど、明日以降に長期入院施設のある病院へ転院になりそうで。今日は、和さんに付き添って、病院に近くに泊まるね。一人で大丈夫? ごめんね。念のために戸締りはしてね』

 涼花さんの声を聞きホッとして部屋に向かったことまでは覚えている。また連絡が入っているかもしれない。周りを見渡したがスマホは見つからなかった。
 昨夜は、あれから台所を片付ける気持ちになれず、お風呂にも入らず部屋に閉じこもっていたんだった。布団の上で膝を抱えて、窓から外の暗闇を見た。このままずっと暗闇が続きそうで目を閉じているうちに眠りについたのだろう。

 汗でべたついた肌が気持ち悪い。
 昨夜はまだお風呂を沸かしていなかったし、シャワーを浴びるのも面倒くさい。洗面所で顔だけ洗って、タオルを首にかけたまま台所へ向かった。
 台所に昨夜のままの惨状が広がっているのかと思うと、気分がなえた。
 せめて涼花さんが戻ってくるまでには、片付けないと。
 そう思ったけれど、やる気が出てこない。
 昔読んだ絵本のように、夜のうちに小人がどこかからやってきて、片付けていてくれたらいいのに。
 現実にはありえないことでも考えないと、気持ちが何かに押しつぶされてしまいそうだった。

「鞠毛おはよう」
 台所にいくと、笑顔の篤人がいた。
「あ、おはよう」
 ぼんやりしたまま、反射的に挨拶を返した。
 え? 篤人?
 次の瞬間、私の脳みそが覚醒した。
「ちょっと、え? なんでいるの?」
「片付けだよ」
 見ると、台所はきれいに片付けられていた。辺りに漂っていたあのお茶の強烈な匂いも消えていて、そればかりか、食卓の上には、朝食まで用意されている。
「待って、何がどうなってるの?」
「ほら、昨夜、和ばあちゃんが大変なことになっただろ。だから、今朝は鞠毛は何もできないだろうからって、代わりに家の中の片付けをしてこいって、父さんから言われたんだ。しかもそれ、朝五時半だぜ。ついでに食事も持って行って、一緒に食べてこいってさ」
 涼花さんから、戸締りをしろと言われたのに、何もしていなかったことに気づく。
 ここに住んで四か月。
 鍵を掛けないというこの地域の習慣に、私もいつの間にか染まっていたらしい。

「早く飯食おうぜ。朝から動いていたから、もう腹ぺこでさ」
 壁に掛けてある時計は七時過ぎを指していた。
「ほら、ここに座って」 
「ダメ! こっち来ないで、離れて」
「なんで」
「とにかくダメ。お風呂にも入ってないし……」
「そんなことを気にしているのか? 汗の匂いくらい気にしないって」
「こっちは気にするの。だからダメ」
「鞠毛の汗の匂いなら、大丈夫だって。そんなに匂わないから」
「そういう問題じゃないの。っていうか、そんなに匂わないって、どういうこと?」
「だっていつも汗かいてるじゃん」

 篤人と話しをしていたら頭が沸騰しそうになった。

 とにかく台所から決して出ないように! と何度も言ってから急いで引き返し、シャワーを浴びた。本当ならお風呂につかってしっかり体も洗いたかったけど、篤人がその時間まで、おとなしく待っているとは思えない。
 服が濡れない程度に髪を乾かしただけで、台所に戻った。

「なんだ、はやいじゃん。もっとゆっくり入ってくれば良かったのに」
 篤人が居間から顔を出す。背後からテレビの声が聞こえている。
「台所から出ないでって言ったでしょ」
「そうは言うけど、暇だったんだよ」
 台所を片付けてもらった借りがあるからそれ以上は何も言わないでおいた。
 どうやら私は、お腹が空いていたらしい。用意されていた食事は、多すぎると思っていたのに、あっという間に完食してしまった。よく考えたら、昨夜は夕食の途中だったんだ。お腹が空いていたことに納得した。

「このあとさ、オレの家に来いよ。何もないと思うけど、今この家に鞠毛が一人だけだって、近所の人間なら誰でも知っているし。万が一何かがあるといけないから、必ず連れてこいって、母さんから言われた」

私はいつだって一人だから大丈夫だよ、と口からでそうになったが今は篤人の言葉に甘えることにした。二人で朝食の片付けをし、 
今度はしっかり戸締まりをしてから家を出て、二人で篤人の家に向かった。

「それからこれ、玄関に置きっ放しになっていたぞ」
 私のスマホを、ほいっと渡してくれた。
 自分が思っている以上に動揺していたんだな。
 昨夜の記憶はとても曖昧だった。
「朝早く、涼花さんから鞠毛のことを心配しているメールが入っていたから、朝飯を食べたら、オレの家に連れて行くよって返事しておいたよ」

 驚愕の事実を篤人が述べた。
 返事しておいた?
 それって。
「親切なオレに感謝してもいいんだぞ」
ふふんっと腕を腰に当て、得意なそうな顔をしている篤人を凝視した。
「……無神経すぎる」
 勝手に人のスマホを見るなんて!
 しかも、メールを見て、涼花さんに返信までするなんて! 
別に誰ともやりとりはしていなから見られても平気だけれど、それでも、なんだか嫌だった。何をどう言っていいのか、怒りの言葉が出てこない経験は初めてだ。
 篤人だからなのか、地域性なのか分からないけど、この感覚には全然慣れる気がしないし、慣れたいとも思わなかった。人に自分の心を預けるなんて私には出来そうもない。
 ムッとしている私に何かを感じたのか、篤人も急にしおらしくなり無言のまま歩いていた。

 篤人の家には何度か来たことがあったが、中に入るのは初めてなので、緊張の気持ちが増えていき怒りの気持ちが少し薄らぐ。
「鞠毛ちゃんいらっしゃい。もう少ししたら、うちの父さんも帰ってくるから、そうしたらまた声かけるわね。それまで自分の家だと思ってくつろいでね」
 篤人のお母さんが出迎えてくれた。
「どこか出かける用事があるんですか? もしそうなら、私は家に戻りますけど」
「違う違う、何か用事があるんじゃなくて、和さんの病院へ行こうと思って。父さんには、妙さんを迎えに行ってもらってるの。まだ足首が完全に治ってないみたいだから、無理はしない方がいいでしょ。ほら、今日は涼花さんお店開ける日だし。困ったときはお互い様だから」
 篤人のお母さんはそう言って笑った。

「たった一日って思うかもしれないけど、一日でもお店を閉めるって、売り上げに大きく影響するから。だから、私たちにできることがあれば、やろうと思ってね」
 篤人の家は養鶏場を経営している。家と川を挟んだ反対側が、養鶏場になっていた。朝になると、毎日篤人のところの鶏の声が聞こえてくる。鶏の声が風にのって聞こえてくることが不思議で、最初の頃はびっくりしていた。
 篤人のお母さんは、私にはわからない経営の厳しさを知っていて、親切にしてくれるのだろう。
「ありがとうございます」
 頭を下げると
「いいの、いいの。あそこの部屋でゆっくりしてて」
 そう言って忙しそうに他の部屋へ消えていった。
 案内された客間の奥には、仏壇が置かれていた。客間の空気は、かすかに線香の匂いがして部屋の隅では、扇風機が首を振っている。障子の向こうから、篤人の妹と弟の声と、走り回る足音が聞こえてきた。
「怪我をしないように、気をつけなさいよ」
 篤人のお母さんの声を聞いて、ふと遠い昔の記憶が思い起こされ絵梨ちゃんのお母さんを思い出した。
 絵梨ちゃんは、小学校五年のとき、同じ並びの借家に越してきた一つ年上の女の子だ。絵梨ちゃんには、小学一年生の弟がいた。たぁくんと呼んでいた。
 絵梨ちゃんが来てからは、放課後や休みの日はたぁくんもまじえて、よく一緒に遊んだ。
 絵梨ちゃんの借家も、私の家と同じ造りだった。台所の他に、二部屋しかない。その家の中を走り回り、タンスによじ登っては飛び降りたりした。
 一度、悪ふざけが過ぎて、襖に大きな穴を開けたことがあった。
「怪我しなかった? 気をつけて遊んでね」
 そのとき絵梨ちゃんのお母さんが言った言葉だ。
 借家の襖を壊したのに。本当なら叱られて当然のことだろう。弁償しろと言われてもしかたない状況だった。それなのに、子供の怪我の心配しかしていなかった。
 絵梨ちゃんの家は、いつも笑い声にあふれていた。
 絵梨ちゃんのお父さんも、私たちが何をしても叱ることはなく、危険なことをしようとしたときだけ、真剣な声で注意しただけだった。
 篤人の家も、あの頃の絵梨ちゃんの家を同じく、笑い声に満ちている。
 家族みんな優しくて、家族でいることが楽しそう。
 ……羨ましいな。
 そう思った自分を、醜いと思った。
 きっと篤人は何の不満も、不自由もない。素敵な両親に見守られ、愛情を注がれすくすくと育ってきたのだろう。今の篤人を見れば簡単に想像できる。
 私にはないもの。本当は欲しかったものをみんな持っている。
 ……こんなこと思うなんて、どうしたんだろう。
 寂しいとか、羨ましいとか、思いたくない。こんな感情なんていらないのに。全部、私の中から消えてしまったはずなのに。
「これ、暇してるかなと思って、本持ってきた。鞠毛、本好きだろ。でも何がいいか分からなかったから、適当に選んできた。文句は言うなよ」
 何冊もの本を抱えた篤人が、器用に足で障子を開けた。
「なんだよ、オレが本を持っていたら変か?」
「そんなことないよ」
 人の気持ちが全く分かっていないはずなのに、どうしてこういうときに、嬉しくなることをしてくれるのかな。私が本が好きとか、いつ知ったのだろう。
 絶妙なタイミングと、あり得ないタイミングの両方を持っているから、きっと篤人はタイミングの神様に遊ばれていると思う。
 きっとこれからも、篤人はいい感じの人のまま、大人になっていくんだろう。

 篤人が持ってきた本をパラパラとめくっていたら、妙さんが到着した。
 挨拶もそこそこに、篤人も一緒に、篤人のお父さんの運転で家に戻った。涼花さんと妙さんがしっかり連絡をとりあっていたからか、和さんの入院に必要なものリストは既にできあがっていて、家に着くと妙さんの指示を聞き、みんなで手分けして必要なものを用意した。
 荷物を車に積み込み、みんなで病院へ向かった。行き先はここから少し遠い松方病院で、認知症外来と入院施設をもつターミナルケアの病院らしい。昨夜高瀬市の救急病院に搬送され、今朝からこちらの病院に移ることになったみたいだ。
 病院に着くと、私と篤人は車の中で待っているように言われた。
 和さんに会えないのは残念だったが、同時に安堵もしていた。倒れて動かなくなった和さんの姿と、その前の眉をつり上げた和さんの顔が今も頭にこびりついていたから、どんな顔をして会えばいいのかわからなかった。
「鞠毛は、明日の祭り、どうする」
「えっ?」
「森宮祭り、鞠毛も行くだろ」
 私が和さんのことで心を痛めているというのに、篤人は本当に空気を読まない。というか、読めないのか。
「行く予定はないよ」
「なんで? 行こうぜ。地区の祭りは、初めてだろ。竜神太鼓も来るし、手筒花火もやるんだ。絶対行った方がいいって」

 森宮は、今住んでいる地区の名前で正式には南芦原町森宮。初めてこの町に来たとき、山や森ばかりで名前のままだなって思った。
今いる高瀬市から北に向かい山を越えた所にある小さな田舎町の南側が桑原地区で、北側が森宮地区だった。
 森宮には、割と大きな神社がある。訪れる人はほとんどなく、寂れた感じの神社に感じていた。引っ越してきた当初、周辺の地理を把握しようと、自転車で辺りを走り回ったときに見つけた。
 それ以来、神社のことは存在すら忘れていた。
「和ばあちゃんが、入院しただろ。祭りには厄払いの意味もあるっていうから、行くべきだと思うな」
 天真爛漫な様子で、熱心に勧めてくる。

 たぶん涼花さんは、篤人のお父さんやお母さんのお陰で、今日も明日もお店をあけると思う。そうなると、あの家で一人で夜を迎えることになるんだ。なぜだか今日はどこまでも寂しい気持ちが追いかけてくる。一人が寂しいなんて。そう思う自分が弱く感じた。
 それなら、お祭りに行く方がいいかも、色んな事を考えたくない。

「……お祭り、行こうかな」
「それがいいって! それじゃ明日は六時に橋のところで待ち合わせな。もっとも、明日も親から家に連れてこいって言われるかもしれないけど」
 祭り、祭りとはしゃぐ篤人の顔を見ていると、それだけで何かの厄が払われていくような気がした。




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