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常に自分へ問いかけられるかが必要な能力ではないのだろうか

何年も前から、正解を出せる人間よりも問いを作れる人間の方が今の時代は求められていると言われるようになった。
決まりきった仕事で正解通りに仕事をするのではなく、不確かな世の中において新しいことを求め常に常識さえも疑い「なぜ? どうして?」を世の中に問いかけながら新しい何かを追い求める人が貴重なのだ。
それほどに、今の時代は正解が曖昧になったとも言える。いや、正解が出てるような事柄の価値が薄れたというべきか。
だからこそ、Aと言われたらBをすればいい、Cを問われればDと答えればいい、のではなく、本当にBで満足? 本当にDが正解なの? と問いながら、実はEやFという誰も気が付いていない答えがあるのではと模索するようにしてないといけないのだ。

とはいえ、それができてる人はどれだけいるだろうか?
ましてや、ある程度の年齢を重ねて経験豊富な人ほど、今までの成功体験があるゆえに自分が持つ古びた正解がいつまでも正しいと思ってしまいがちではなかろうか。既にそれが不正解になったり、不正解とはいかないもののもっと効率のいいやり方が出ていたりなど、新たな手法が生まれているかもしれない。それに気がつかずに、いつまでも自分のやり方が唯一の正解と思い込んでいたら厄介なものだ。
そういう人ほど、「本当にそうなんですか?」と問いかけたところで柔軟に考えを変えてくれることはないだろう。
とはいえ、そういう人ほど、やたら前に出てきて人に指図したりするものだ。


ちょっと前に、まさにそういう人を目にしてしまった。
とある場所に出向いたらエンカウントしてしまったのだが、やたら「〇〇は△△するべきだ!」と熱弁を振るっていた。熱弁を振るうくらいにその事柄に熱意を持っているようだ。それはいい。熱意を持って取り組んでくれる人は本来はありがたい。
しかし、どうもその人の考えは少し首を傾げるそれであった。
しかも、厄介なことにどうも色々と方々に口出ししているみたいなのだ。それが自分が上に立つ組織や、自分の研究分野ならまだわかるが、どうもそうでないらしい。にも関わらず、「〇〇は△△しろ!」と熱弁を振るっちゃってるらしい。
これには驚いた。

先に書いた通り、今や正解のない時代なだけに「〇〇は△△だ!」と断言しにくい世の中になっている。だからこそ、常識を疑い、常に「本当にそうなのだろうか」と問うことが重要になっている。「〇〇は△△だという人が多いが、本当にそれがベストなのだろうか? 時代の流れがいつの間にか変わっていて、別の何か(サービス)を使えばより良い方法が編み出せるのではないだろうか?」と常に問いかけることが大事なのである。時代の流れにより、そもそもの問いかけが変化してる場合だってある。
この人が方々に言いまわっていることもそうなのだ。本当にそれが正しい行為なのかと一度は疑わなくてはならない。
ましてや専門家でもないのだ。居酒屋の会話ならともかく、断言口調・命令口調で関わってる人に指図するのはもってのほかだ。「こういう案はいかがでしょう?」「こういう風にやってみたらうまくいくと思うのですけど、どうですか?」みたいな提案レベルなら許されるが。
こういう人が自分の前に現れたことには、正直困ってもいる。
イチイチ反論するのも煩わしい。

おそらく、他にもこの手の人は多くいて、色々と文句も言っているのだろう。
そう考えると、本当に特定の力がある人というのは色々難しい立場にあるのだなと他人事ながら嘆息してしまう。

改めて書くが、常に問いかけることが重要なのだ。
最近ではChatGPTなどの思考を補助してくれるAIも登場してる。
政治的な問題から仕事、私的な問題まで、「なぜ、どうして?」「そもそも必要?」「もしかして、根本的に間違ってない?」と問いかける癖をつけてみよう。

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