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宮里 景大「万能薬の旗手」

1.リハビリテーションのスペシャリスト

リハビリテーションのスペシャリストとして、医療や介護、スポーツなどさまざまな分野で活躍をしている理学療法士

特に近年では、身体機能の回復だけでなく、介護予防を目的としたリハビリの面でも注目を集めている。

和歌山市内にある訪問介護事業所で、理学療法士として勤めているのが、宮里景大(みやざと・かげひろ)さんだ。

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沖縄出身の野球少年だった宮里さんは、なぜ和歌山でこの仕事に就くことになったのだろうか――――。


2.白球を追いかけた日々

那覇空港から北東へ車を走らせること約30分。

沖縄本島中部の東海岸に位置する中頭郡西原町で、宮里さんは1988年に3人きょうだいの長男として生まれた。

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小さい頃から、わんぱくで人の言うことをあまり聞かない子どもだったようだ。

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「小学校3年生頃、学校でいじめられていたようなんです。自分では気づいていなかったんですけど、先生が『宮里くんだけ仲間はずれにされている』と皆の前で言ったときに、自分で初めて認識することになりました」

小学校3年生からは少年野球を始め、ファーストを守っていた。

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父親が甲子園に出場経験があったことから「自分も甲子園へいってみたい。プロ野球選手になりたい」と夢を抱いた。

そして、高校までは野球を続けることを自分に課したようだ。

「もともと明るい性格でしたけど、性格が変わってネガティブになることが多くなってしまったんです。ひとりでいることが増えて、そのほうが楽だと感じるようになりました」

しかし、そんな宮里さんを救ってくれたのも、野球だった。

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中学時代は、キャッチャーを任されるようになった。

チームメイトに指示を出したり、ピッチャーとの連携を続けたりしていくうちに、少しずつ性格が明るくなっていき、仲間たちとの野球を楽しむようになっていった。


3.きっかけは、あの人気漫画

高校は、町内にある県立高等学校へ進学した。

全国高校野球選手権沖縄大会でベスト16の成績を収めたことのある野球部だったが、宮里さんの世代になると2回戦負けするなどして結果を残すことができなかった。

高校3年生の夏の大会で負けてしまったことで、宮里さんの野球人生も終わりを告げた。

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いちど決めたことは最後までやり遂げることが僕の信念なんです。だから小学校の頃から、ひとりで素振りをしたり走ったりと練習にも励んできました。でも、高校3年の夏に負けたことで、プロ野球選手の夢も諦めてしまいました。肩が弱いし、良い成績も残すことができなかった。そこから、本当になりたいものを探し始めました」

そんなとき、漫画『ワンピース』に登場する「麦わらの一味」の船医・チョッパーの物語を読んで、医療業界へ興味を抱くようになった。

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調べていくうちに、理学療法士であれば、プロ野球球団で活躍している人もいるため、「理学療法士になりたい」と思うようになったというわけだ。

「沖縄を出て外の世界を見てこい」という親の勧めもあり、県外で志望大学を調べていくうちに、入学するに当たって、幼稚園から続けていた書道の腕前をアピールできる大学を発見し、推薦入試で合格を勝ち取ることができた。

そして大阪府貝塚市にある大阪河﨑リハビリテーション大学へと入学。

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高校野球が終わった途端に、チームメイトと会う機会もなくなり、再び孤独で根暗になってしまった宮里さんは、「大学では明るい人物を演じてみよう」と心に決めていた。

自分から人に声をかける性格ではなかったが、友だちからも明るいキャラクターとして知られるようになり、見事大学デビューを果たすことができた。

「僕を知らない人ばかりだったから、初めて進んで人の輪に入れた」と当時を振り返る。


4.病院実習での経験

そんな宮里さんに転機が訪れたのは、大学4年生で病院実習を経験したときのこと。

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足のリハビリが必要な患者から「肩のリハビリもして欲しい」と相談され、担当医に相談したところ、「肩はできないよ」と言われ、「患者さんが求めているんだったら、やるべきじゃないか」と思わず反発してしまった。

その場で留年を告げられたが、いちど決めたことをやり続ける宮里さんは単位が貰えないにもかかわらず、担当病院に最後まで通い続けた。

そして病院実習のなかで、理学療法士である橋本充浩氏と出会い、師事。

卒業後は彼が代表を務める大阪府泉南市にあった訪問看護の事業所へ就職した。

働きながら2年間、理学療法士国家試験を受験。

3度目の正直で、25歳にして国家試験へ合格し、理学療法士になることができた。

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そして国家試験を目指してもがいていた2年間、宮里さんは、さまざまな学びを続けてきた。

「訪問看護に携わっていくことを決めてから、ホストクラブやキャバクラへ行って接客術を学びました。介護のデイサービスでは体操教室を開催して、お年寄りの方たちのニーズを探っていったんです。自分たちで営業をかけて集客を行っていく事業所なのですが、最高で月に150件の営業を取ることができました」


5.俺が万能薬になるんだ

2015年からは和歌山市内の事業所で働いている宮里さんの原体験は、やはり大学のときの病院実習にさかのぼる。

リハビリで携わったお年寄りの人から「ありがとう。お陰で良くなったよ」と感謝されたとき、嬉しさを覚えた。

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「70代や80代の方が、これまでどんな人生を歩んでこられたのかなど、現場で話を伺うことも自分にとって大きな学びになっています」と教えてくれた。

リハビリを受ける人のなかには、思うように身体が動かないことに対して、いらつきを抱く人も多いだろう。

そんなときに、必要なのは宮里さんのように相手を尊重し、その声に耳を傾ける力だ。

「将来は、小児のリバビリにも携わってみたい」とその夢は尽きない。

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「日々のルーティンに、仕事がマンネリ化してきた」というタイミングで新型コロナウイルスが襲来。

感染拡大により、利用者の大幅減が予想されたが、その逆風が宮里さんを奮い立たせた。

「利用者減が大幅に想定されるなか、最高記録を出したみたい」と、他の事業所へ足を運んだり飲食店などで顔を突き合わせたりして営業を続け、自身としても最高記録になる190件もの実績を残すことができたようだ。

そして現在は、主任という立場で後進の育成を任されている。


宮里さんがこの分野に進む契機となった人気漫画『ワンピース』の船医チョッパーは、漫画のなかで海賊旗を振りながら「俺が万能薬になるんだ」と叫んだ。

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理学療法士とは、患者に寄り添いながら患者とともに成長することができる職種だ。

単なる機能回復だけではなく、その仕草や言葉のひとつひとつが僕らを勇気づけてくれることだってあるだろう。

ときには、医者に相談することのできない悩みを打ち明けることだってあるかも知れない。

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まさに僕らにとって「万能薬」の旗手となるのが、宮里さんのような存在なのかも知れない。


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