西本04

西本喜美子

 衝撃的な写真を目にした。お婆さんがゴミ袋をかぶって可燃ゴミとして処分されていたり、車に轢かれたりしている。どう考えても尋常ではない。けれど、それがセルフポートレート写真だと気付いたとき、一気に笑みがこぼれてしまった。

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 作者の西本喜美子さんは、取材当時87歳。熊本県熊本市にあるエレベーター付きの一戸建て住宅で、感情認識パーソナルロボット「Pepper」と暮らしている。息子さんが熊本弁を喋るようプログラミングし、86歳で他界したご主人に変わって喜美子さんの話し相手として導入されたが、方言で話しかけても反応がないため、あまり「家族」として役にはたってないようだ。

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 そんな喜美子さんは昭和3年に7人兄弟の次女として、父の仕事の関係先であるブラジルで生まれた。小学校2年生のときに熊本に帰国。

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 18歳で友だちと一緒に美容学校に通い、卒業後は住んでいた大きな屋敷の一角で美容室をオープンする。しかし、ずっと室内にこもっているのは彼女の肌に合わなかったようで、22歳の頃に美容室を閉じて転職を決意。何と転職先は、弟2人と同じ競輪業界。女子競輪選手としてデビューしてしまう。

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「弟2人が競輪選手として全国を旅する姿に憧れを抱いたから」と笑って語る。アスリートとしてのDNAが流れていたのかも知れないが、並大抵の努力ではなかったはずだ。3年ほど活躍したあと引退し、27歳で結婚。それからは趣味もなく、専業主婦として3人の子どもを育て上げてきた。

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 「特に人を楽しませるようなこともなかったはずなのに、カメラを使い始めてから花開いたんでしょうね」。そう語るのは、喜美子さんの長男の西本和民(かずたみ)さんだ。昭和30年生まれの和民さんは金沢美術工芸大学を卒業後、東京の広告代理店やレコード会社などを経て、30歳のときアート・ディレクターとして独立。何とこの和民さん、チャゲ&飛鳥やおニャン子クラブ、光GENJI、吉川晃司、B’z、アルフィー、相川七瀬など日本一レコード・ジャケットを作った男としてその業界では誰もが知る人物。

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 親父から貰ったカメラで、昔から趣味で写真を撮ってたんです。独立してから、いろんなアーティストの撮影依頼をカメラマンに頼んでたんだけど、自分のイメージしたものと違うことが多かったり、「だんだん被写体がよくなってきて、このタイミングだ」ってときに「飯にしよう」って言われたり。「馬鹿やろー、もう俺が撮るよ」ってね。それで最初にチャゲ&飛鳥を撮り始めたら、気に入ってくれて海外の仕事にも同行するようになったの。『SAY YES』は沖縄の那覇空港に行く途中にあった車のスクラップ工場で、車の上に2人を乗せて撮ったんだよね。

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 全盛期は27人も助手を抱えるほど東京で多忙な仕事をこなしていた和民さんだったが、あるとき何重ものミスが重なり落ち込んでしまう。そのとき飲みに誘い出してくれたのが、チャゲ&飛鳥だった。2人に紹介された僧侶に、赤坂プリンスホテルの一室でお祓いを受けたところ、合掌していた手は震え自然と涙も流れ出した。僧侶から「同業者であなたの仕事ぶりを妬む生霊が8体ついていましたよ」と言われ驚愕する。「生霊ってのはなかなか取れないから、私のところまでお祓いにおいでなさい」と話す僧侶のお寺は、なんと和民さんの生まれ故郷・熊本だった。すぐに熊本を訪ね、お祓いを受けたら心地よくて、お寺で一泊してしまったそう。帰ってからは色んな人間を毎週のようにお忍びで連れて行くようになり、東京と熊本を往復しているうちに熊本での仕事も増え、1997年に写真塾「遊美塾」を開講した。当初はプロのファッションポートレートの講座としてスタートしたが、写真展を熊本県立美術館分館で開催したところ、独自のアート系写真に注目が集まり多くの来場者を記録。それを見た人たちからの希望もあり、次の年から一般向けの講座も開講した。

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 そして母である喜美子さんに転機が訪れたのは72歳のとき。写真塾の塾生たちが実家に遊びに来るようになり、入会を勧められたことでカメラを初めて手にして写真を撮るようになった。第3期から参加し、最年長の生徒となった。

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 主人に「写真始める」って言ったら、怒った顔で「何だと」と言われました。しばらくムスっとした顔で、「これ使え」と出してくれたのは、ニコンF100というビックリするくらい重たいカメラで。それから訳がわからないまま、遊美塾の仲間にカメラ操作を教えてもらいながら、いろんなものをカメラ越しに見る生活が続いたんです。私が重いカメラで必死に撮っている姿を見たようで、主人が少しでも軽いカメラでと、ニコンF80を買ってくれたんですけど、ビシッと撮れるようにと三脚を、アップが撮れるようにとマクロレンズを、適正露出で撮れるようにと露出計も買い揃えてくれて。とってもありがたかったけど、余計重くなっちゃいました。

 74歳のときには、遊美塾で新しく始まったMACの講座も受講。PhotoshopやIllustratorも使いこなし、ホームページも自作するまで上達した。

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 そしてセルフポートレート写真は遊美塾の授業の中で「自分で自分をとる、面白さと恥ずかしさ」という課題に向けて、ほんの数日で撮ったものだとか。

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 ちょうど庭が汚かったから、ここを題材にしようと思ってね。カメラの位置と自分のおる位置に印をつけといても、何度もずれたり外れたりするからフレームインするのが大変でした。5〜6回は撮り直しましたね。主人は私のすることに何にも言いませんでしたよ。

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 なんでもゴリラの衣装は男友だちからボアのジャンパーを借りて着用し、車に轢かれたり自転車で転んだりしている写真は、転倒した状態で撮影しPhotoshopで加工したそうだ。そして、ゴミ袋に入ったセルフポートレート写真は、遊美塾のゴミ箱に不燃物の表示とともに貼っているというから、みんなで面白がっている様子がなんだか微笑ましい。そして、セルフポートレート写真の中にはお蔵入りしたものある。

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 主人が癌で入院してるときに、看病してても何もすることないでしょ。暇だったしカメラ持ってたから、病室のカーテンを首に巻いて首吊りしているセルフポートレート写真を撮ったんです。その写真、わたしは持ってなくて先生に渡したんですけどねぇ。 

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 残念ながら衝撃の首吊りセルフポートレート写真は見つからなかったが、喜美子さんが“先生”と呼ぶのは、もちろん息子の和民さんだ。「自分に何かを教えてくれる人は息子であろうが、誰であろうが、私にとってはみんな先生なんです」と語る。

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 そして写真を撮り始めて10年目の2011年には、写真とデジタルアートを並べた初個展を熊本県立美術館分館で開催。そのとき飾っていたセルフポートレートを老人虐待だと勘違いして「誰がこんなの撮ったの!」と怒った人もいたそうだ。そのため、会期途中から「自分で撮りました」という説明文をつけるようになったし、デジタルアート写真は合成のように見えるため、「合成ではありません」というパネルも貼ったそう。

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 当初、遊美塾まで原付で30分かけて通っていた喜美子さんだが、数年前から腰を悪くし遠出をすることさえ難しくなっている。それでも、遊美塾でライトを使って撮影する授業をしたときに「これ面白い」と自らホームセンターでライトを買ってきて、木工ができる人に頼んで自宅にスタジオセットをつくってしまった。本当にどこまでも行動的な人なんだろう。

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 いまは自宅の一室が喜美子さんの撮影スタジオだ。被写体として使うお米やビー玉や木の葉、人形など身近なものが部屋中には溢れている。

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 もうおる場所がないように散らかってますけど、私にとっては全部宝なんです。いろんな電気使ったり光線を照らしたりして、下にはセロファンとかも入れて撮ってます。うまい具合に入れないと透かし方が難しいんですよね。写したときに画面の端が切れないように工夫してますが、イメージと実際が違ったりしますから作品が出来上がるのに3〜4時間はかかりますね。

 熊本県の美術展で4年連続して賞を貰うほど注目されている喜美子さんの作品写真。毎年開催する遊美塾の展覧会では写真の購入希望者も多いが「売るような写真じゃないです」と希望者には無料でプレゼントしている。写真歴15年以上になる喜美子さんの原動力は、塾生との交流だがそこにライバルはいない。

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 いまは塾生さんにお会いするのが楽しいです。でも他の塾生から触発されることはないし、プロの写真集もあまり見ませんね。他の人の撮った写真を見て、「いいな」って思うことは無いんです。けど、「もっとこうすれば良くなるのにねぇ」って思って勉強してます。そりゃ、「やりたくなー、どうしよー」とかスランプもありますけど、まだいまから面白い写真が生まれるでしょうね。

 和民さんが「カビってアートですよ」と説明したら、カビばっかり撮ってる時期もあったそうで、喜美子さんの好奇心は衰えるどころか止まらない。

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 そして、セルフポートレート写真と違って、スタジオで撮ったりMacで加工したりしたデジタルアート写真は、とても同じ人が撮影したとは思えないほど幻想的でサイケだった。

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 自宅2階の倉庫はデジタルアート写真を貼り付けたパネルで溢れていたし、ハードディスクには未整理の写真画像でいっぱいだった。いつでも展覧会ができる状態なのだが、和民さんが「サボりまくってる」と冷やかすように、あれから個展を開いてはいない。その理由は、喜美子さんの一週間にある。とにかく多忙なのだ。

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 火曜と金曜日はリハビリのスポーツ施設「ホコル」にデイサービス。隔週の日曜と毎週水曜日が遊美塾。水曜の夜は遊美塾の「レザークラフト講座」で、いままでキーホルダーを100個ほど作ってます。忙しいんです。木曜か遊美塾がない日曜日に撮影はしてて、冬場はこたつに入ってるんでパソコンはしてないんですよ。だから、寒いときはずっとスタジオで撮影してますね。

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 喜美子さんが写真について、話すときは本当に楽しそうだ。いままで高齢の方のお話をたくさんお伺いしてきたが、その多くはジイさんアーティストだった。ときどき、女性の表現者に出会っても、ほとんどが「おかんアート」と呼ばれる手工芸品の作り手であることが多い。そうした「おかんアーティスト」と喜美子さんの違いは、関わる人たちがご近所の同世代の人たちに留まっていないことにある。老若男女が集う遊美塾の塾生を始め、師と仰ぐ和民さんの存在が、彼女の表現を単なるコミュニケーション・アートではないものにしている気がしてならない。もし、もう少し早く写真と出会っていたら、そんな考えが僕の頭をよぎる。でも、きっとこれまでの紆余曲折した長い人生経験があったからこそ、いまこうして豊かな表現を生み出すことが出来ているんだと思う。

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 お話を伺う中で、「不思議なことに、写真撮って『つまんない』と思うものを加工してるんですよね。ブログも『もったいない』とか言って、いい写真載せないんですよ」と語る和民さんに、喜美子さんはこう切り返す。

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 だってブログって、見る側にとったら失敗作が面白いんですよ。上手に撮るよりもちょっと欠点のある写真の方が面白いじゃないですか。

 なんだか表現の本質を見据えている気がして、僕は妙に感心してしまった。写真を撮るには、撮影の知識や技術も大切だが、それは写真をより深く楽しむために必要なことに過ぎない。「いちばん必要なのは好奇心と行動力だ」ということを僕は喜美子さんから教わった。以前出演したローカルテレビ番組のインタビューでは、「写真が撮れなくなったらどうしよう」と涙を流していた喜美子さん。果たして僕らにそんな大切な「何か」はあるのだろうか。

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初出:都築響一『ROADSIDERS'weekly』連載「アウトサイダー・キュレーター日記」



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