秋臣が縁側で涼んでいると、寿美子と叶人が手をつないで入ってきた。
それまでシンと静かだった庭に風が立ち、夏草と地面の匂いが虫の声を乗せて部屋の中に飛び込んできた。
 スズムシ、アオマツムシ、ケラ、夏の虫達が一斉に鳴き始めた。リッリッリッリッ、カナカナカナカナ、ジージー、リーンリーン。
「あら、素敵! お庭のオーケストラね」
 息子の隣に座った寿美子は少女めいたうりざね顔で楽しそうに微笑んだ。
「智夏君、せっかくだから、ここで演奏を聴きましょうよ」
「いいね! おばあちゃんもお父さんも、ちょっと待ってて。飲み物持ってくる。お父さんは水割りでいい?」
 そう言って台所に入って行った叶人が、しばらくしてトレイを抱えて戻ってきた。ウイスキーのつまみには、枝豆、小松菜とジャコの和え物(あえもの)、トマトの薄切りにはシソを散らしてある。
 寿美子を真ん中に、三人は庭の方を向いて座った。欅(けやき)の木の上に、下弦の月がかかっている。
「母さん、この小松菜の和え物美味しいよ」
 勧められるままに寿美子は一口食べて「美味しい」と言い、「母さんも少し飲もうかな」と水割りに手を伸ばした。そしてグラスを揺らして氷がぶつかる透明な音を楽しみながら、こくりこくりと喉を鳴らした。
「美味しいわ。実はね、母さん結構いける口なのよ。でも父さんが死んだ時に絶対にお酒には手を出さないって決めたの。お酒に逃げたらおしまいだと思って。アル中になるかもしれないって怖かったのよ。でも、もういいわね」
 叶人が寿美子の肩を優しく抱き寄せた。
「今夜は酔っ払ってもいいよ。僕が介抱してあげるからね」
 いける口というのは嘘ではなく、琥珀色の液体が寿美子の喉にするすると落ちて行く。虫たちのオーケストラは演奏をやめず、音楽会は夜遅くまで続いた。
 常夜灯の淡い光に浮かぶ庭は昼間とは違う顔を見せている。何気ない光景だが、秋臣はなぜか感動して泣きそうになった。こんなにも美しい光景を見たことがないような気さえした。
 小首を傾げた寿美子は「夏が終わるのね」と小さくつぶやいた。
「ノウセンカズラの花も、あと何日花を咲かせてくれるかしら」
 夏の間中、家のフェンスをおおうように蔓を這わせたノウセンガズラは、まだオレンジ色の花で着飾っているが、驕(おご)りの夏ももうすぐ終わる。 母が最後の夏を、ひときわ目を引く燃えるような花と競い合っているような気がして、秋臣の胸はふさがった。
「代わりにもうすぐ母さんが大好きな金木犀が咲くよ」
 寿美子はそれには答えず、ただ身にしみるような微笑みを返した。
「ああ、僕もうアメリカに帰りたくないな。ずっとこの家で暮らしたいな。お父さん、ダメ?」
 叶人が秋臣の顔を覗き込んだ。
「う〜ん、どうだろう。母さん、どう思う?」
「いいと思うわ。大賛成。大好きなあなたたちがこの先もずっと支え合ってここで暮らしてる姿を想像するだけで幸せだわ」
「わーい! 秋になったらここでお月見しようよ。ススキ飾ってお団子食べて。おばあちゃん、月見団子作ってよ」
「ええ、ええ、作りましょうね」
「約束!」
 叶人は小指を差し出して寿美子の小指とからみ合わせた。おそらくは叶わないだろう約束は、それでも秋臣の心をしみじみと潤した。
 これは芝居だとわかっているのに、なぜか秋臣は今のこの世界が真実のような気がしてならなかった。母がいて叶人がいて自分がいる。この世界はずっと続くのだ。母は死なないし、叶人は出ていかない。三人家族はそのままで離れることはないのだ。少し酔いが回った頭の中で、それは事実も現実をも超えた真実なのだと、何かが誰かが優しく語りかけていた。
「酔っ払っちゃったわ。少し横になろうかしら」
 立ち上がろうとした寿美子の腕を、叶人がつかんだ。
「待って、おばあちゃん、蛍! あれ、蛍じゃないの?」
 ツユクサの根元あたりに、小さな光が点滅しながらゆらゆらと飛んでいる。
「まあ、蛍! 昔はこの辺りにはたくさんいたんだけど、この数年は見たことがないわ」
「きっとおばあちゃんに会いに来たんだよ」
「そうね。あなたにもね」
 寿美子は叶人の頭を愛しそうに撫でた。そしてゆっくり立ち上がると布団に横になった。
 秋臣はウイスキーのお代わりをし、叶人は麦茶を飲みながら枝豆を食べた。会話はなかったが、この沈黙は少しも邪魔にならずむしろ心地よく感じられた。
 少し風が出て来たので秋臣は音を立てずに立ち上がって母の足元にあるタオルケットをそっと着せ掛けた。
寿美子は世にも幸せそうに微笑んでいた。どんな楽しい夢を見ているのだろう。しかしその時秋臣は、何か違和感を感じて顔を近づけた。母はもう息をしていなかった。その顔にはありありと神の手が触れた痕跡が残っていた。不思議なことに、秋臣はショックも悲しみも感じなかった。
 庭に目をやると、いつの間にか蛍は二匹に増えていた。しばらくもつれ合うように舞い踊っていたが、やがて二匹連れ立って樹々の向こうに飛び去って行った。
 庭から吹いてくる涼しい風が蚊取り線香の煙を揺らしていた。ウイスキーの瓶の中にはまだ半分ウイスキーが残っている。
 秋臣は母の髪を優しく撫でた。ふと気づくと、いつの間にか虫達のコンサートは終わっている。寿美子が愛した庭は闇に溶けて、シンと静まり返っていた。

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