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連載小説 hGH:5



 柴田がGM室に進捗状況の報告にきた。先日獲得することで決めたふたりの選手との交渉の経緯についてだ。
「富樫のほうはもうほとんど決定です。関係者全員が合意しています。あとは、正式な書類のやりとりだけです」
 富樫は、柴田がどうしても獲っておきたいといった三十六歳の野手だった。富樫の所属球団との話し合いで、一対一のトレードが成立する。こちらからだすのは、うちではあまり戦力として考えていなかった選手で、それを踏まえると、とくに悪いトレードではなかった。年俸も、あるていど抑えられた金額で合意している。
「問題はクリス・ベンソンのほうです」
 球団としては、こちらが獲得の主軸になる。井本の引退で、戦力に大きな穴が空いた。その穴を埋めるための選手がクリス・ベンソンで、ベンソン獲得は現在球団業務の最優先事項となっている。それが、難航しているのだ。むこうは代理人を立てているので、長引くのはある意味当然ではあった。一流どころではないとはいえ、相手は現役のメジャーのロースターなのだ。
「やはり年俸です」
「まあ、そうだろうな」
 こちらとしては、井本の昨季の年俸の四億が基準になる。ベンソンの昨季の年俸は、日本円で約五億だ。一億の差額は、はじめから井本のhGHの事態収拾をはかる必要経費と考えていた。だから、うちとしては五億で話を進めるつもりだった。それを、ベンソン側はいきなり七億要求してきた。七億といえば、日本球界ではかなりの高額になる。うちの球団ではほぼ歴代最高年俸で、そうかんたんにだせる金額ではなかった。あくまで表むきの話だが。
「どこまで本気だと思う、その金額」
「代理人は大真面目でしょう。選手本人は分かりませんが」
 米球界では、年俸や出来高は契約書通り公表される。逆に日本は、正確な金額を公表することがない。表にでる金額のほとんどは推定だった。
 おおよそあたっている場合が多い。たいていは少なく見積もっていて、じっさいは推定より多くもらっている。
 メディアには表むきの金額を匂わせ、裏ではそれよりもはるかに高額の契約をしていることも、稀にだがあった。どうしてもほしい選手や、どうしても手放したくない選手に対して使う手法だった。球団上層部のほんの一部の人間のあいだだけで決め、けっして外に漏れないよう、必ず関係者全員に箝口令を敷く。
 ベンソンは、日本球界は未経験だった。まだ日本でなんの実績もないメジャーの控え選手に七億は、あまりにリスクが大きい。言葉の壁。生活文化のちがい。野球文化のちがい。野球の実力と他国球界への適応はべつもので、こればかりはじっさいにやってみないことにはわからないのだ。
 そのあたりの調査も、柴田は慎重に進めていた。
「おまえの率直な意見は」
「適応はできると思います。野球文化も生活文化もあるていどのところまでは。成績も日本の主力級の数字は残せるだろうと判断しています。本人性格が真面目な上に前むきで、妻も日本の文化にリスペクトがあるようです。現在子供はなく、妻との関係は良好で、夫婦ともにおかしな思想はありません。身内に社会的問題を抱えている人物はいませんし、病弱だったり、この三、四年以内に寿命を迎えそうな親族もいません。緊急帰国の可能性は低そうです。あとは、妻の妊娠ぐらいですが、それはもうそういった状況になってみないとわかりません」
「つまり」
「獲得はしたいし、できそうです。ただ、うちの都合を考えると、基本の年俸は四億、あるていど達成できそうな出来高を組みこんでもう一億。やはり、だせるのは五億くらいまででしょう」
「裏、では?」
 柴田は一瞬黙った。
「私は裏と表を使いわける契約をあまり好きではありません」
 かんたんにいえば裏金だった。この場合、道徳や倫理はともかく、違法性はない。あくまで表むきメディアにそれらしい「推定年俸」を匂わせるだけだ。当然経理上は正式に契約した額で処理する。利点は、年俸の基準を低く見せることで、他の選手の年俸を抑えることができる。
 昔からどの球団もやっている慣例で、じっさい日本球界で動いている契約金や年俸は、いま世間でいわれている額よりもはるかに多い。
 いかにも日本らしいやり方ではあった。
「好き嫌いでいえば、私も好きではない。ただ、きれいごとだけじゃ、球団運営がうまく立ちいかないのも事実だ。どの事案に対しても、総合的に考えて球団としてもっともいい形になるよう手を打っていきたい、と私は考えている」
 現地で直接交渉をしているのは大島だった。球団の意は汲んでいる。相手側の代理人とは、私も柴田も最初にリモートで顔を合わせただけだ。
 現状ベンソン獲得は必須事項といっていい。
 井本を突然引退させた。本人もまだ現役をつづける意向だったので、後釜などだれも考えていなかった。いまからあらたに探す時間はなく、ほかに井本の穴埋めができて獲得が可能な選手は国内外を問わず見あたらない。もしベンソンを獲得できなければ、戦力が大きく落ちるのは目に見えているのだ。
 私は、今回は「裏」の契約もやむを得ない、と考えていた。
 財政的にいえば、裏でも表でも五億より高額は正直厳しい。本件は球団としてもとくべつ枠だった。ただ、いくらメジャーのロースターとはいえ、日本でなにも実績のない外国人に、いきなり七億の契約はやはりバランスが悪い。チーム内での不満が多かれ少なかれでてくる。とくに、中心選手たちのモチベーションの低下が懸念される。最悪よそへの移籍を考える選手がでてきてもおかしくない。そうなれば、巡り巡ってチーム全体の戦力がダウンしていってしまうのだ。
 だから表にだせる金額は、昨年の井本の年俸と同じ四億、プラス出来高で一億。いろいろな意味でそのくらいが限度だった。
 すべて、われわれ球団側の都合だ。いくら大島でも、今回の契約を五億以内で成立させるのは難しいように思えた。
「大島はなんといってる?」
「まだはっきりとしたことはなにも」
「任せるしかないな」
「そうですね」
 交渉は大島。柴田も、いまの状況はわかっている。私にしろ柴田にしろ、契約の専門用語になるとどうしても通訳が必要になってくる。そして通訳を介すと、微妙なニュアンスの伝達や会話のテンポが悪くなり、ここぞというところで交渉の足かせになってしまう可能性があるのだ。
「しかし、七億ですか」
 柴田はつぶやくようにいった。
 私は、六億あたりが落としどころではないか、と考えていた。
 根拠はない。
 そして契約は、おそらく「裏」になるだろう。



 六億でも落とせなかった。



   続 hGH:6


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