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連載小説 hGH:9


 ベンソンのほんとうの帰国理由がわかった。
 委託企業に調査を依頼して二週間ほどで報告が入った。調査員が直接球団事務所にやってきた。書面と口頭の両方で詳細に報告を受けた。
 私はその調査結果にすくなからずショックを受けた。予想していたものとは内容がかなりちがっていたからだ。帰国と退団の原因はベンソンにはまったくなかった。すべて、ベンソンの妻にあったのだ。
 ベンソン夫妻はもともと日本の文化にリスペクトを持っていた。だが、妻のほうにはリスペクト以上のものがあった。とくに、日本人の男性に対して。要するに性癖である。ベンソンの妻は、アジア人、とりわけ日本人男性に性的興奮を覚えるというのだ。そのことを夫のベンソンは知らなかった。シーズン中、プロ野球選手は家を空けがちだ。妻は毎晩のように繁華街を遊び歩いていたらしい。
 相手は日替わりで、正確な人数などは把握できていないが、かなりの数の相手と遊んでいたようだ。妻の夜遊びは来日当初からで、妻の性癖を知らなかったベンソンはしばらく気づかなかったらしく、気づいてからもあるていど我慢はしたが、あまりの不貞に業を煮やしたベンソンが母国に連れて帰ったというのが、どうやらことの真相のようだった。
《自国から遠く離れた、言葉も文化もまったくちがう国での生活と野球に、心身ともに疲れ果て、とても日本で野球をつづけていける状態ではなくなった》
 球団としては、代理人から聞かされたその文言を、そのまま退団理由としてすでに公式に発表していた。各所からの問い合わせには一切応じなかった。
 球団からの公式発表とはいえ、ベンソンの適応力や活躍の度合いを考えるとやはり理由は不自然で、しばらくのあいだメディアも世間も騒いだが、現時点ではそれもほぼおさまっていた。じっさい、ベンソン自身にはなにも瑕疵はなく、ただ妻にふり回されただけなのだ。
 ベンソンとちがって妻は一般人で世間に顔を知られておらず、幸い本件は表沙汰にはならなかった。週刊誌やゴシップ系のSNSでとり上げられるようなことも、いまのところ見られない。もしかすると、ネタをかぎつけた出版社に、ベンソンの代理人の会社が米国の法律を盾に圧力をかけたか、日本に駐在する米国の国家権力に力を借りて記事を潰した可能性はあった。
 なんにせよ、すでにベンソンは妻を連れて米国に帰ったのだ。日本にくることはもう二度とないだろう。今後ベンソンは、米国のどこかの球団と契約を交わして野球をつづけ、婚姻を継続するなら妻とともに米国に住む。そのさきのことはわからない。あとは、夫婦間の問題だった。
「で、うちとしてはどうしますか、GM」
 調査員が報告を終えて帰っていくと、柴田はいった。GM補佐の柴田とふたりで報告を受けた。私よりも柴田のほうが調査結果を淡々と受け止めていた。
「球団として本件はノータッチだ。ベンソンがらみのいかなる事案も今後球団で掘り返すことはない」
「ベンソンの年俸は」
「代理人の要求通り、日割りで計算して月末にふりこむ手つづきをとってくれ」
「うちの幹部連中には、なんと」
「明日、緊急で幹部ミーティングを開こうか。そこで私から説明する。それ以外では、一切本件を極秘とする」
「わかりました」
 柴田がGM室をでていくと、私はさきほど受けとったベンソンがらみの報告書をシュレッダーにかけ、途中で手が止まっていたルーティンの書類精査の作業にもどった。
 このときはとくに感じなかったが、ベンソンの調査結果を聞いて、柴田がやけに冷静だったと違和感を持ったのは、またしばらく経ってからの話だった。



 ペナントレースの後半戦がはじまって一ヶ月半が経った。
 ベンソンの穴埋めとして出場させている富樫の起用がものの見事にあたった。
 富樫は昨年まで所属していた球団ではもともとレギュラーを張っていて、一昨年あたりから世代交代で若手にレギュラーを譲って控えに回っていた。すでに三十代の後半を迎えるベテランだが、現在コンディションは最高の状態を維持している。これだけいい状態で試合に出場できるのは、残りすくない現役生活でもこれが最後のシーズンになるのではないか、と思えるほど調子がいい。そのあたりは、周りの人間よりも本人がいちばん自覚して試合に臨んでいるにちがいなかった。
 富樫はわれわれ上層部が考えていた以上に結果をだした。ベンソンと比較しても長打率が多少落ちるくらいで、それ以外のスタッツはほぼ変わらない。守備もふくめてチームの勝利に多大な貢献をしていた。じっさい、明確に富樫の働きで勝った試合が何試合もあった。
 後半戦に入っても勝率は落ちておらず、チームはペナントレースで首位を守っている。むしろベンソンがいなくなった危機感から、チームがよりまとまった印象があった。
 富樫の先発出場はとりあえず一ヶ月といったが、いまのいいチーム状態を変える必要はまったくない、と私は考えていた。
「よほど怪我でもしないかぎり、今シーズンの残り試合、ファーストのレギュラーは富樫でいこうか」
 私はいった。きょうの試合はホームのナイトゲームだった。私の直属の部下で球団幹部の五人を全員集め、球場の特別観覧室でミーティングも兼ねて試合を観戦していた。特別観覧室は十人ほどが入れる一室で、観客席の高い位置にあった。正面は全面ガラス張りでフィールド全体を見降ろすことができ、側面の壁一面がモニタとなっていて目の前の試合の映像を流すことができる。
 現状の富樫について、幹部がそれぞれの見解を口にした。発言の内容はおおむね私の考えと同じで、富樫を否定するようなものはない。ほかの選手を優先して使ったほうが、といった意見がでてくることもなかった。
「では、現状を維持するということでいいな」
 私はいながら、全員の顔を見た。首を横にふる者はいなかった。異論はないようだった。
 その後話は、怪我などのアクシデントで富樫が急遽離脱した場合の想定に移った。数人の選手の名前があがった。守備の入れ替え、打順の入れ替え。パターンAからDまでを想定し、詳細を詰めた。
「では、監督とヘッドコーチにはその旨を伝えます」
 意見がまとまると、GM補佐の柴田がいった。柴田は五人の幹部のなかの責任者になる。
「パターンAからDは書式にまとめて渡してやってくれ。あくまで、富樫にアクシデントがあった場合の保険だ」
 私はいった。 
 ミーティングはそこで終わり、スタッフに運ばせた軽食を口にしながら目の前の試合を観戦した。
 きょうの試合は二位のチームとの直接対決で、試合前から観客は超満員に入っていた。すでに二位とは八ゲーム差をつけていて、きょう勝てば優勝マジックが点灯する。大事な節目の試合でもあった。
 二点ビハインドのまま試合は淡々と進み、九回裏のうちの最後の攻撃を迎えた。
 このまま試合が終わればマジック点灯は明日以降の持ち越しとなる。われわれもふくめ、球場全体が諦めムードに包まれていた。あっさりとツーアウトになり、そこから連打で走者がふたりでた。ここでさっきまでミーティングの議題にあがっていた富樫が打席に入った。一発でればサヨナラの場面だ。富樫が好調なのはファンもむろんわかっている。きょう勝てばマジックが点灯することもわかっている。場内が一気に盛りあがった。われわれはしばし押し黙り、固唾を飲んでフィールドを見守った。
 決着はすぐについた。初球だった。富樫がフルスイングしたバットから放たれた打球が高々とあがった。芯を食った会心の打球音が場内に響き、打った瞬間それとわかった。相手チームの外野手は諦めてほとんど打球を追っていない。
 富樫はバッターボックスから一歩も動かず打球の行方を目で追っていた。白球がライトスタンドの中段に吸いこまれると、バットを軽く放り、ゆっくりと一塁にむかって走りだした。
 球場が、割れんばかりの歓声に包まれた。
 私は立ちあがって幹部全員と握手を交わした。

 ペナントレースの優勝マジックが一になった。


  続 hGH:10



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