散文的文章

25を過ぎると自ずと将来に対する漠然とした不安がよぎり始める。このまま何のスキルもなく、何も成し遂げないまま、何の目標もないまま死を迎えるのかと考えると、何者かになりたい、なりたかった自分の記憶が呼び起こされる。そんな人生でいいのか。本当にいいのかと問いただしてくる。

しかし、本当に社会というのは残酷で、そんな自己探求に使う時間、余暇、思考、全てを奪い、社会的欲求、或いは安全の欲求の担保を最優先に考えさせる人間にスケールダウンさせてくる。

その結果自身の挑戦的思考や反逆的精神を削ぎ落とされ、社会の歯車として順応させられるのだろうと常々感じている。異性愛者は(前にも書いたことがあるが)その点、牙を抜かれ、社会の忠犬と化してもある程度の定型化された"幸せ"を得ることは出来る。ある意味人生における幸せのセーフティネットである。(ここでいう幸せとは結婚し、家族を持つことである程度の世間的な"幸せ"を得られるという意味。)

しかし、私はゲイに生まれてしまったため最低限担保された"幸せ"というレールに乗れない。だから自分としてどうありたいかを考え、ゲイとしての人生を選択するか否かで悩み、大学も休学して自分なりの結論を出して、社会に飛び込んだはずなのに今や牙を抜かれ、ただただ安全、安定を求めて仕事選びをしてしまっている現実がある。まさに"こんなはずじゃなかったのに"だ。

結論としては私よ。もっと足掻け。といいたいだけなのだが、怠惰な人間にとってこういう思考を抱ける時間は貴重なので、これを機に備忘録的に残す。散文的なこのnoteでも、読み返した時の変革のためのモチベーションの維持と、もし、このnoteを読まれている誰かが、やりようの無い感情を同じように抱いていたら何かの変革のきっかけになってくれたらと思う。

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