見出し画像

ラッパーたちのアイドル文化への貢献

大所帯グループではないアイドルグループにとって、メンバーの「声」はグループやひとりひとりの個性を印象づける重要な要素である。
ここでは、HIPHOPがもたらしたアイドルへの影響について考えたい。

楽器を持たないパンクバンド BiSH


2022年末の解散が発表された型破りなアイドルグループ、BiSH。
もはやアイドルというものはジャンルではなく、デュオとかツインギターとかカルテットのような、編成や構成を意味する言葉になった。
かつてのアイドルグループが持っていた、たくさんの女の子たちが合唱する、質より量的なサウンドとは性質が異なる。

メンバー全員を中距離から撮影したPV。ソロパートを歌うメンバーをアップにしなくても、それぞれの声に特徴があることがわかる。

極力コーラス部分を削り、サビも含めてソロパートが多いBiSH。その楽曲の指向はひとりひとりの歌手としての成長に大きく貢献しているだろう。

Pedroのヴォーカルとして活躍するアユニ・Dはそれが顕著に表れたメンバーのひとりだ。6人の中で最も新しいメンバーであり、当初はプレッシャーに押し潰されそうな可憐な少女だったが、パンキッシュでインパクトのある声を手に入れた。

ハスキーボイスと豊かな表現力が魅力のアイナ・ジ・エンドも様々なアーティストにフィーチャーされている。

この他、ゆるめるモやZOCなど、少人数ながらメンバーの個性やパフォーマンスで評価されているグループがいる。

新メンバーを加えて7人となったZOC

メンバーが、顔やキャラクターだけではなく、ひとりひとりの「声」を武器に戦っている現代のアイドル。そのルーツに、HIPHOPが影響していると私は考えている。

ラッパーにとっての「声」の重要性

その圧倒的なパフォーマンスやサウンドの多様性、広い人脈から成るコラボレーションなどで白人でありながら黒人発祥であるHIPHOPの歴史に名を刻んだグループがいる。
Beastie Boysである。

MCA / マイクD / アドロック

特徴的なスモーキーボイスのMCA(故人)を除く2人は、共にクリアなハイトーンの持ち主であり、初期のアルバムで彼らの声を聴き分けるのは容易ではなかった。

声でメッセージを伝え、言葉でグルーヴを生み出すラッパーにとって、自分の声の独自性を向上することは、ライムスキルを高めることと同じくらい重要課題だったのだろう。
マイクDはよりクリアに、アドロックは歪みやしゃくりと言ったノイズ的な要素を声にまとうことで、彼らの声は聴き分けられるようになった。彼らがそれを意識的にしたことは想像に難くない。

日本のメジャーシーンで活躍していたが突如表舞台から消えたリップスライム。MC4人体制ながらそれぞれの声の個性が明確にある。

日本のHIPHOPシーンにおいても、サウンドや哲学、ラップのスキル同様に「声」の独自性は重要なのだ。
あるテーマに基づいてグループがラップでメッセージを伝えている。その上で、誰がどんなことを伝えるのかが重要であり、ラッパーは声で自分が誰かを伝えなくてはいけない。

あえてHIPHOPとアイドルの中間として、chelmicoを紹介しよう。
ラップは「言葉」が高度に進化した「声」のパフォーマンス手法であり、ラッパーにとっての「言葉」は借り物ではない自身のメッセージだ。レコードを聴いた時にも「自分」が誰かを強烈に突きつけてくる。それがHIPHOPの流儀ではないかと思う。

これに対してアイドルの歌にはメロディがあり作詞者がいる場合が殆どである(BiSHはその点においても例外)。彼女たちは制作会社のイメージやファンの期待に沿って借り物の歌を歌っているのかも知れない。
しかし、そのソロパートをどのメンバーが歌っても楽曲のクオリティや与えるイメージは同じだろうか。

物語る少女たち

問題児集団、ZOC。トラブルが続き既に初代メンバーが4人も抜けている。デビュー曲「family name」を書く上で大森にインスピレーションを与えた戦慄かなのもそのひとりだ。
壮絶な子ども時代をフラッシュバックさせるようなこの歌に否定的な感情があったと脱退後に彼女は言った。

アイドルのソロパートを誰が歌うかについて、これ程物議を醸す事例も珍しいと思う。しかし、彼女たちひとりひとりにもそれぞれの半生や哲学がある。グループ内の担当カラーや「治安担当」のようなキャラクターだけでは到底収めきれない個々の物語があるのだ。物語る少女たちが私たちに「声」を届ける時、それが誰の「言葉」であるかによって、歌の意味は違ってくると思う。
そこにラッパーとアイドルとの親和性が見えてくる。

アイドルとHIPHOPの親和性と表裏一体

90年代の世界の音楽界に起こった様々なコラボレーション、ボーダーレスな化学変化の数々は、その後の日本のポップシーンにも影響を与えた。その中でも、HIPHOPは特に重要なジャンルだと考えられる。歌唱法としてのラップ、リズムとしてのHIPHOP、作曲手法としてのブレイクビーツ、楽器としてのスクラッチノイズやサンプリングなど。これらはHIPHOP以外のジャンルにも積極的に取り入れられた。

ポートランドのポップバンド、STRFKR(スターファッカー)の「Born」はその一例だ。単純にかっこいいから聴いてほしい。

アイドルの話に戻そう。
作曲や演奏を自ら行うことの少ないアイドルは、楽曲提供者やアレンジャーによって様々なジャンルの楽曲をリリースすることができる。ロックでもテクノでもサンバでもなんでもありだ。

ここに、HIPHOPとアイドルの、ジャンルとしての表裏一体があるのも面白い。
他ジャンルの再構築によって作られ、他ジャンルに還っていったHIPHOP。
柔軟に様々なジャンルに形を変えることができるアイドル。
そしてそれは自由な音楽表現としての親和性とも言い換えることができる。

プリキュアについて

筆者は元々アイドルに興味が無かったが、数年前にあるPVを観て度肝を抜かれた。でんぱ組.incの「ちゅるりちゅるりら」。

アイドルに関心の無い私が勝手に持っていたアイドルのイメージ。それは、顔面とプロポーションの良い妙齢の女性たちが揃いの衣装で個性を殺して大衆に迎合する性的消費スレスレのやばい文化。
このPVはその偏ったイメージをぶち壊した。

これはもはやプリキュアではないか!

筆者は娘が小さい頃にテレビアニメのプリキュアシリーズを一緒に観ていたし、劇場版も何度か観に行った。
誤解を恐れずに言うと、バトルモノとしてのプリキュアのクオリティはかなり高い。
地水火風の追加効果はあるものの、基本的にはステゴロ(徒手空拳)である。限界突破とエネルギー波頼りのドラゴンボールよりも余程格闘技してるし、悪魔の実や念のような能力バトルでもない。
パワータイプのブラックに対してサブミッションや多彩な足技を魅せるホワイトなど、プリキュア戦士たちのその戦闘スタイルは実に様々である。
プリキュアの魅力は、端正な顔ではなく、変身前後のキャラの個性なのだ。

カラーレンジャーばりに個性的ないでたちで少女たちが戦うでんぱ組のこのPVには、顔面至上主義的価値観を破壊し、人が本来持っている個々の魅力を最大限に開花させる、音楽表現の新たな可能性を感じたのだった。

楽器が弾けない、ルックスもいまいち、でもラップのスキルだけは誰にも負けない。でんぱ組の精神性はアイドルよりもむしろラッパー的なのかも知れない。
自分の「声」と「個性」に磨きをかけて下克上。
アイドルはそういう可能性のある世界になっていたのだ。

ラッパーたちのアイドル文化への貢献

サイボーグ009リメイク版と若きラッパーたちの競演。
街で仲間とサイファーし、クラブでバトルし、シノギを削りながらスキルを磨いてきた彼ら。
地下アイドルが武道館を目指すのにも似ている。

小沢健二がスチャダラパーとブギーバックを歌ったあの日、日本のポップシーンに携わる人々は、人の「声」が持つ可能性と魅力を再認識したと思う。歌う人によって変わる歌の可能性について夢見たと思う。歌う人が持つ魅力や背景によって歌が無限のイメージを持つことを心に刻んだと思う。

その時代の空気を吸った若者たちがやがてアイドルのプロデュースや作曲に携わる時、彼らは少女たちに託すのだろう。
その「声」の限界を破り、あなたの物語を語り出せ、と。

ラッパーたちのアイドル文化への貢献。
少女たちはその「声」を未来へ還す。
Call and response。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?