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闘病記その17-8(第3章)

私のしてきたこと
4*夫婦として(最強のパートナーとして)
5*医療法人の事務長として

*最強のパートナーとして
この写真のサイン色紙は、私の応援隊の「ガッテンチーム」のメンバーにお礼をしたいと集まってもらった食事会で、最後に逆にサプライズを仕掛けられてしまいました。私に渡したい物があると持ってこられたのは、色紙4枚にびっしり書かれた応援メッセージでした。そして主人にも書いてもらおうと真ん中があけてありました。「ご主人が美穂子さんのそばを離れたときに書いてもらおうとずっと機会を狙ってたのに、全然離れられないんだもん。」と残念そうに言いながら、主人の目の前に置かれた色紙に全員の目が向けられる中、主人は意外にもすぐにすらすらっと書き始めた。そして書きあがったとたんに歓声と拍手が沸き上がった。【人生のパートナー、頑張ろう!】見たときの私の反応は言わずもがな、である。

たくさんの方から応援エールを頂きました。


2021年5月28日私が御礼する目的でお集まりいただいた会だったのに、サプライズを仕掛けられ感動しっぱなしの私。愛情のたっぷり詰まった色紙を手に幸せで胸キュンの私。

主人に何故魅かれたのか、はっきりとはわからなかったが、父と同じ、反骨精神のある人だと感じ取ったことは、はっきりと覚えている。
そして父亡き後を、主人は表立っては何もできない立場でしたが、診療所経営という、慣れない未知の世界に足を踏み入れて、右も左もわからないで立ち往生する私を、援護射撃してくれました、父の残した診療所の建物と土地を、孫の祐貴に残してやろうと、父の遺志を受け継いで、東奔西走してくれました。

以前、商工会議所青年部の納涼例会に、女性会の会長として出席した際に、壇上で話したことを思い出した。

2018年7月23日


青年部は、会員は45歳までだそうです。その年代の頃私は何をしていただろうとはたと考えてみた。

女性会の若手❔❔を引き連れて

父が亡くなって200坪の土地と診療所が、主を失って空虚と化していた。ただそこにあるだけでも、固定資産税はかかってくる。それを払っていた母の懐も寂しくなってきたため、何かに使うことを考え始めなければならなかった。いろんな方が見に来られた。(ローソンの本部に、専門学校の寮、老健etc.)
が、良い話にはならず、いよいよ自分たちで何かに活用することを考えなければならなくなった。私は、41歳の時だった。息子は、7歳だった。
ある日突然、「明日からこれをもって行って、自分で家の鍵を開けて入ってね。」って言われた息子は、いきなり鍵っ子になった。かわいそうだった。
案の定、自宅のすぐ隣の診療所の玄関の方から入ってきて、スニーカー片手にもち、ただいまーといって私のいる事務室に入ってくる。スタッフさんからも、祐貴くん、お帰りなさいと言ってもらって、はずかしそうにしながらも、嬉しそうでした。だって、昨日までは帰ると、おかえりーって、抱き着きそうな勢いで飛んで出てくるお母さんが迎えてくれて、直ぐにおやつと飲み物を出してくれて、今日は何したの?と質問攻めにされていたのだから、この環境の変化には戸惑ったと思う。
私ももちろん凄い環境の変化に、ついて行くので精一杯で、お母さん業は、休業状態でした。
そして、平成12年に有限会社アイオを立ち上げる。取締役になる。そこから平成13年4月2日に療養型病床を有する原田医院を再開するためにどんな苦難と戦ってきたか、今でも思い出すと悔し涙が流れてきそうです。
今思い起こすと、私はいつも締め切りぎりぎりで動かされてきたように思う。
この時も締切まで2~3カ月しか猶予がなかったような気がする。療養型のベッドを確保するために申請書を提出しなければならなかった。
早速建築士に図面を書いてもらい、基準に合うように改修工事に着手しなければいけなかった。廊下幅が10cm足りなかったために部屋のドアを10cm後退させないといけなかった。
そのため、部屋の中にショベルカーがあるのを始めて見ました。
父が開業していたのが、産婦人科医院だったので、手術室や産室、新生児室や沐浴室がありましたので、壊すのが大変でした。
そして私の役目は、申請に必要な書類一式をそろえて締め切りまでに提出することだったのだが、これがどうも要領が悪くて何回持って行っても、突き返されわけもわからぬまま、重たい足を引きずるようにして帰った。夜主人が帰ってくると話すうちに涙が流れ、私には無理、出来ない、やめたい、と泣き言のオンパレードでした。さすがに締め切りがせまってきても、一向に何のどこがダメなのか具体的に教えてもらえず、業を煮やした主人が上の方の役付の人に、、「指導する立場の者がこんな態度でいいのか」と苦言を呈したところ、直ぐに記入例の書いてある書類が山のように渡された。最初からこれ見せてくれたら良かったのに、っと。私が医師でなく普通のおばちゃんだから馬鹿にされたんじゃないか、と被害妄想までしたくらいだった。
そしてやっと開院までこぎつけることができたわけだが、新生原田医院のスタッフは、なんとハローワークの世話にならずに、知人友人が紹介して連れてきてくれた人ばかりでした。看護師3人、介護福祉士3人、事務2人、にパートの2人、そしてドクターだった。

昭和57年のくにびき国体の時に建設された原田医院。
ステンドグラス調のはめ込みは、宍道湖の夕日を表している。

本当に初めましての方たちばかりだったが、みんないいかたたちで、平成13年4月2日、療養型病床を有する原田医院として再開、そして普通のおばちゃんだった私が事務長としての新たな人生が始まった。開所に先立ち、お世話になった方々をお呼びして、見ていただき、お礼の会をした。その時に私はお礼の言葉でこんなあいさつをした。ちょうどNHKの朝ドラで「オードリー」というテレビ番組の最終回が放映されたところだった。この中の一場面に、主人公のオードリーが女性の映画監督として苦労してやっと出来上がった映画の試写会のシーンがある。映し終わった会場に拍手喝采に包まれながら、注目されて立ち上がるオードリー。その後ろには、居ても立っても居られなくて、天国から舞い降りてきたお父さんが、感動して涙を流しながら、拍手を娘に送っていた。「オードリー、よくやった。ここまでよく頑張ったなー。」と。このシーンが急に思い出され、挨拶の中で、「このオードリーのように、今日はそこに父が来ていて、美穂子よく頑張ったなー、とほめてくれていると思います。」と最後の方は言葉にならなかったが。すると、周りから鼻をすするが音が聞こえて、涙目で顔を上げてみてみると、設計士さん、現場監督やお世話になった方々の目にもうっすらと光るものが。この後当分の間、設計士さんに会うたびに、「原田さんの挨拶は人を泣かすからなー」、とからかわれました。(≧▽≦)
一番苦労したことはやはり人を雇うということ、面接なんてどうやってやればいいのか?何を基準にして選べばいいのか?とにかく初めてのことばかり。面接の時はいい感じの人だと思って雇ったら、まあ大変なトラブルメーカーで私は毎日スタッフの愚痴を聞き、慰め励まし、本来のやるべき仕事ができない日々が続いた。後に胃にポリープが二個出来たり、円形脱毛症に二度もなるなど私がいかにストレスに弱かったかがわかります。
またこんなことも。経営なんて初めての私。「見積書」?何それ?ってわけで、もらったら即それでお願いします、という始末。スタッフの方が心配して、もっと安いのがありますよってネットで調べて教えてくれる。まけてなんて、よう言えない私でした。今では何箇所からも見積もり取って競争させることや、最初に予算を言ってこれ以内でやって欲しいと言ったり、もうまかりませんといわれると、じゃあ端数を切ってください、と最後までねばる事もできるまでに成長した美穂子でした。
そしてこのあと。グループホームアンジュを平成18年(2006年)4月1日に開設する。3月29日ギリギリに完成し、検査を受けるという綱渡り的なことをやってのけたことを今でも思い出すと冷や汗が出ます。

3月中に建てて全ての検査に通らなければ、以後3年間は松江市にはグループホームを開設する計画はないとわかったのが前の年の年末だっただろうか。
既に立てる予定にして、設計図に取り掛かっていたし、銀行とも資金繰りの話になっていた。しかしこれは半年以上先の計画に基づいたものだった。当然3カ月で建つわけがなく、計画は暗礁に乗り上げた形になり、白紙に戻ってしまった。万事休すと思ったとき、米子から助けてくれる神様が舞い降りてきた。松江の業者は、こんな大博打のような危険な話に耳を貸すところはなくみんな去っていったが、救世主の設計士と建設会社がタッグを組んで現れたのだ。
しかも、「悪いことは言いませんから、やめとかれた方がいいんじゃないですか?」と資金提供に渋りだした銀行を相手にその建設会社は、何と言ったと思いますか?「期日までに間に合わなかった場合は、一切お金は頂きませんから。どうぞ安心して話を進めてください。」と言い切ったのです。
主人も私も度肝を抜かれ目が点になってしまった。そしてこんな人がいることも信じがたく、驚きとともに感謝感激で涙が出そうだった。
そして工事は、始まったのだが、1~3月といえば松江は大雪が降ることもあり、そうなったらアウトだった。
雪が舞い散る中、せめてものお礼に、暖かい缶コーヒーの差し入れに行って感謝の気持ちを伝えようと、主人と二人で、20本買っていく。しかし、工事現場についたとき、私たちの目の前に飛び込んできた光景は、驚くべきものだった。
想像を絶する人数の大工さんたちが、一階と二階に所狭しと張り付いておられた。その数は40人近いものだった。
思わずありがたくて手を合わせていた。
こうして見事に間に合ったのだった。
原田医院といい、アンジュといい、いつも滑り込みセーフでハラハラドキドキさせられるので本当に身が持たない。
ちなみにこの超特急で完成させた武勇伝は、銀行をはじめとする業界で、語り継がれていたようである。先にも後にもないだろう。

奇跡の完成を遂げたグループホームアンジュ

これで終わりではなかった。(>_<)また変更しなければいけないことに。
しかも国の都合で、梯子を上ったら、その梯子を外されてしまったのだ。
療養型病床の廃止に伴い、補助金を出すから転換せよ、との命令が来た。なんのこっちゃ?と思った私は、初めて県の保険医協会の開催した説明会に、医師でもないのに参加した。そしてそこで発言した私の言葉が、その後に来た会報誌の見出しになっていてびっくりした。
「何も悪いこともしていないのに、営業停止とは!?」
本当にこの時ほど、国の決めたことには何も抵抗できない、私たち一般庶民は、絶対服従するしかないのかー、ってしみじみ感じました。現場にいるスタッフや利用者さんとその家族、そして運営している事業者が途方に暮れることなどお構いなしに通達されるんだ。なんか腑に落ちない気持ちでしたが生き残るためには従うしかないのだと。
そしてグループホームならノウハウがあるので、それに転換することにする。半分ずつ一階と二階に分けて、移動してもらうのだが、この時に療養型だから入居できていた介護度4や5の方や胃ろうの方には、転居先を探して、移動してもらうしかなかった。そのためには、ご家族にご理解していただかなければならず、何度も頭を下げた。なかには、ご立腹される方や泣きついてこられる方もおられて、本当にうちの都合ではないのに、なんでこんな目に合わないといけないんだろうと腹が立つし、申し訳ないという気持ちから涙が出そうだった。
そんな思いを抱えて、平成21年12月にグループホームユーミーが原田医院併設で完成する。
3つの施設の事務長となる。
もちろん主人の後押しがあったからこそできたことである。
後に、母がこのユーミーに住むことになろうなんて、この時誰が予想できただろうか。
作っておいてよかったとあの時ほど思ったことはなかった。
これ以上書き続けると、どんなことになることやら、自分でも歯止めが効かなくなって来た。(≧▽≦)
これから後のことは、おいおい書くことにして、いったんここらで休憩することにします。(やれやれやっと終わったか、とほっとしたそこのあなた、ごめんなさいねー。長話にお付き合いいただきありがとうございました。)
一旦終了。(*'▽')
やっと17章を書き終わりました。18章ではまた現在の闘病生活に戻ります。 



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