自覚がない女たち

■優菜(27歳・初彼氏)

「思わせぶりな態度ばっかり取ってくる男って、いったい何考えてるんだろうね? 私は真剣に彼のために頑張ってたのに、彼は他の女にも迫ってたんだよ。信じられない! 」

 愛衣が切羽詰まった様子でそう捲し立ててきたのは、居酒屋の女子会プランで予約したコース料理も終盤に差し掛かかった頃だ。
 追加でデザートでも頼もうか、でもコース料理とは別料金になっちゃうから会計がめんどうだな、どうしようかな……と、呑気な葛藤を始めていた私は、愛衣が何の話を始めたのかわからず、ぽかんとする。

「え? なにそれ! どういう状況? 」

「詳しく聞かせてよ! 」

 愛衣の話にいち早く反応したのは佳奈恵で、続いて、咲希も身を乗り出す。彼女たちの甲高い声で一気に華やいだ雰囲気になった。
 どうやら恋バナが始まったらしいと気付いて、遅ればせながら私も身を乗り出して話の続きを待った。まさか愛衣にそんな相手がいたなんて。一言も聞いていない。きっと愛衣は、話すタイミングを伺っていたのだろう。全員から視線を浴びた愛衣は満足げだ。

「同じ職場の男の人なんだけどね、ひどいんだよ。好みのタイプとか、素敵だよとか、私のこと褒めまくって食事にも誘ってきてたのに、誘いを断ったら話しかけて来なくなって、今度は隣の課の女子社員と楽しそうに話してるの! ちょっと冷たい態度取っただけなのに他の女に行くなんてありえないんだけど! 」

「えー! ひどーい! それって、ただの女好きなんだよ」

「誰にでも同じこと言ってるんじゃない? たまにいるよね、そういう人」

 佳奈恵と咲希が口々に文句を言ったので、私も同調して「ひどーい」と言いかけたが、愛衣の言葉を頭の中でよくよく吟味した結果、ちょっと待て、と言いたくなってしまった。食事の誘いを断った上に冷たい態度を取ったら、話しかけてこなくなるのは当然じゃないか? これだけハラスメントが叫ばれてる世の中なんだから、女性社員をしつこく誘ったら訴えられる可能性すらあるのに。
 佳奈恵と咲希は愛衣の言葉にひどいひどいと相槌を打っている。愛衣の訴えに違和感を抱いているのは私だけのようだ。

 私たち4人は高校時代からの友人だ。愛衣、佳奈恵、咲希、私。漫画やアニメが好きで、共通の趣味というわかりやすい繋がりで友達になった。
 そして、高校を卒業してからも、こうして数ヶ月に一回のペースで、プチ同窓会だの近況報告会だの、なんやかんや理由をつけて定期的に食事をしている。たいして変化もない日常を報告し合って、くだらないお喋りで気分転換するだけの会ではあるが、高校を卒業してから約10年。27歳になった今でも同じメンバーで集まりが続いているのは奇跡に近い。
 ただ、前回の集まりから大きく変化したことがひとつだけある。私に彼氏ができたのだ。同僚に紹介された人と何度か食事に行き、付き合うことになった。私たちのグループは高校時代から恋愛とは無縁だった。恋愛よりも趣味を優先し続けているせいか、アラサーとなった今でも「彼氏いない歴=年齢」を更新し続けている面々ばかりだ。だから、彼氏ができたと私が報告した時は、グループ内でちょっとした事件扱いされた。
 それ以来、私たちの間では恋バナの頻度が増えたように思う。これまでは集まる度に好きな漫画やゲームの話ばかりしていたけれど、恋愛の話にも積極的になった。

 
「ひょっとして私、弄ばれただけなのかな? あんなに話しかけてくれてたのに、もう挨拶しかしてくれないんだよ」

 今もそうだ。以前の愛衣なら、こんな風に自分の恋愛観や経験を赤裸々に語らなかった。異性との接触を禁忌だとでも思っているかのような潔癖ぶりだったのに。
 恋愛に興味を持つこと自体は良い変化だと思うけれど、愛衣の話はどこかずれている気がする。
 悔しそうに愛衣は語っているが、弄ぶという表現は大袈裟だ。食事に誘われただけなのに。

「ひどすぎる! そんな男とはもう関わらない方がいいよ」

「愛衣、嫌な思いしたね。元気出して。ひどい男だって先にわかってよかった」

 佳奈恵と咲希は真剣な表情で愛衣を励まし続けている。愛衣は愛衣で、手酷くフラれて傷ついた被害者の悲痛な面持ちがすっかり板についていた。まるで、婚約者からDVでも受けたかのような反応だ。実際は婚約どころか食事にも行っていない、ただの同僚なのに。
 不思議でならない。食事にすら行っていない相手に対して、どうしてそこまで盛り上がれるのだろう。そんなに好きだったなら、どうして食事の誘いを断ったんだろう。疑問だらけだ。

「愛衣、その人のこと気になってたなら、食事行けばよかったじゃん。どうして断ったの? 」

 私が疑問をぶつけた途端、全員がぴたりと会話を止めた。驚きと戸惑いに満ちた視線が飛び交う。まるで私が突然見知らぬ宇宙の言語で話し始めたみたいな空気だ。そんなに変なことを言っただろうか。うまく言葉にできないけれど、彼女たちと私の間に見えない壁がある。

「だって……いきなり2人で食事は緊張するし、すぐその気になる軽い女って思われたくないじゃない? だからちょっと塩対応にしたの。優菜もそうするでしょ? 」

 私の名前を呼ぶ愛衣の口調は、どこか怯えたようだった。やっぱり覚えたての宇宙語で宇宙人に話しかけるみたいに、おずおずと。これであってるでしょ? 優菜もそう思うでしょ? と。
 私は同意できなかった。食事の誘いに乗っただけで軽い女? そんなわけあるか。ただの食事の誘いを重く考えすぎ。……と、答えたかったけれど、佳奈恵と咲希が私の返事を遮るように言葉を続けた。
 
「うんうん、愛衣の気持ち、すっごくわかる。2人きりの食事なんて、すぐには答えられないよね。本気で好きなら冷たくされても何回も誘ってくれるだろうし」

「そうそう。一度断られて諦めるなら、本気じゃなかったんだよ」

 佳奈恵と咲希は真剣な表情で何度も頷き、愛衣をフォローした。まさに「同意しすぎて首もげそう」をリアルで体現しているような動きだ。彼女たちは、どうやら本気で愛衣に共感しているようだ。愛衣の愚痴がめんどくさいからテキトーに共感しているわけでもなさそう。
 いきなり誘われて緊張するのは理解できる。私も最初はそうだった。だけど、軽い女と思われたくないから塩対応になるのはどうしても理解できない。嫌いな相手なら冷たくするのもわかるが、愛衣は相手の男性をかなり気に入っているようだ。それなのに冷たく接して、相手が離れていった途端に嘆く。意味がわからない。冷たくされれば誰だって傷つくし、傷つけば離れていく。恋愛に限らず、コミュニケーションの基本だ。
 私が戸惑っている間にも、愛衣は話を続ける。
 
「私ね、美容も頑張ったんだよ。メイクもちょっと変えたし、髪型もいつもと違う感じにして……。 佐伯くんとデートした時に恥ずかしくないように、ダイエットもしようって決意したのに。もう馬鹿みたい」

 どうやら愛衣を食事に誘った相手は佐伯くんというらしい。熱弁のあまり相手の名前を伏せることも忘れている。
 愛衣は佐伯くんとのデートをかなり具体的に思い描いていたようだ。そんなに行きたかったなら素直に「行きたい」と言えばよかったのに。
 愛衣のこれまでの話を要約すると「いきなり食事に誘われても照れるから塩対応しかできないし、軽い女と思われたくないから誘いも断っちゃうけど、内心は嬉しくてたまらないから美容もダイエットも密かに頑張ってる。そんな私の努力に気付いて、諦めずに何度も食事に誘ってほしい! 」ってことだ。……なんじゃそりゃ。恋愛シュミレーションゲームじゃないんだから。何度も根気強く話しかけているうちに好感度が上がってそのうち愛衣とデートができますよ、ってこと?

「聞いて、聞いて。私も似たようなことあったよ。あまりに出会いが無いから思い切って婚活パーティーに行ったんだけど、連絡先聞いてくれた相手がね、他の女にも声かけてたんだよ! 信じられないよね」

「うわー、何それ、ひどい」

「一気に冷めてアプリもブロックしちゃった」

 愛衣に便乗して佳奈恵も自分の恋愛話を披露していたが、佳奈恵の話も私はピンとこない。
 婚活パーティーなら複数人に連絡先を聞くのはよくあることじゃないの? 確かにそれを表に出すのはよくないかもしれないけど、付き合ってもない段階から他の女と話してるのが許せないって、どういうこと?

「チャラい男の人ばっかりで嫌になるよねー」

「わかる。遊び人ばっかり」

「一途な男の人ってやっぱりいないのかな」

 愛衣が言って、佳奈恵と咲希が同意する。そんな彼女たちの様子を眺め、やっと気が付く。彼女たちの恋バナは空想の世界なのだと。
 彼女たちが想像している「好き」は、とても重たい。好きなら一途でいてほしいし、追いかけてきてほしい。たとえ付き合っていなくても。
 でも、現実の「好き」は、もっと軽い。「あの人いいな〜」「好みのタイプかもしれないな〜」っていう、ふわふわした予感みたいなものだ。その予感が外れることもあるし、大当たりすることもある。大当たりなら「好き」はもっと深まって一途な愛に変貌する場合もあるが、ハズレなら「好き」は薄くなって消えてしまう。
 当たりかハズレかを確かめるには、交流するしかない。連絡先を交換し、食事に行ったり遠出したり、相性を確かめる。だけど、彼女たちは交流も相性の確認もすっ飛ばして、いきなり一途な愛を手に入れようとしている。空想の中で神格化された恋愛だ。
 嫌な男ばっかりだけど、いつか自分だけを愛してくれる一途な男性が現れるはず! まさに、白馬の王子を待っている状態。厄介なのは、彼女たちに自覚がないこと。白馬の王子様を待っている自覚が、彼女たちには本当に無いのだ。むしろ、積極的に恋活を頑張っているとすら思っているのかもしれない。
 愛衣にしても、素直に佐伯くんの誘いに応じていれば、大恋愛に発展した可能性もある。でも愛衣は「好きなら私を追いかけてよ! 」みたいな、少女漫画のヒロイン精神で冷たい態度を取っていた。自分が少女漫画のヒロインではないと気付かずに。
 
「もうやだ。しばらく佐伯くんのこと恨みそう。職場でも顔見たくない」

 妄想の中だけで恋愛を成就させていた愛衣は勝手に失恋して嘆いている。何故か佐伯くんを恨む展開。
 ここまで思考が突っ走っていると、本当にデートに誘われたのかどうかも怪しい。仕事の昼休憩ランチの誘いとかだったらどうしよう。いや、まさかね。流石にそれは無いか。
 ちょっと食事に誘っただけで恨まれるなんて、もはやホラーなんだけど。

「男ってこんな奴ばっかりなのかな。ろくな男いないね」
 
 咲希がわざとらしく頬杖をついて溜め息を漏らした。古いドラマに出てくるスナックのママとかがやってそうな仕草だったので、ちょっと笑いそうになる。
 恋愛はともかく、彼女たちはユーモアがあって頭の回転も早い。話していて楽しい。
 もったいない、と思った。彼女たちはとても魅力的だから、もう少し踏み出せばすぐにでも彼氏ができるに決まっているのに。
 せっかく食事に誘われたり、連絡先を聞かれたりしているにも関わらず、ちょっと他の女と話しただけで遊び人認定して相手を拒絶し、そこから踏み出せない。まだ恋愛の段階に辿り着いてもいないのに、「リアルの恋愛つかれた〜、もう2次元だけでいいや」みたいな雰囲気を醸し出して彼女たちは満足している。そんなの、本当にもったいない。
 
「本気で彼氏ほしいなら、もっと積極的になった方がいいよ。愛衣も、誘われたなら食事くらい行ってもよかったんじゃない? 」 

 焦れったくなって口に出した途端、全員の視線が私に向く。戸惑いと驚きが混じった眼差しだ。
 いきなり反対意見をぶちこまれたのだから、みんなが戸惑うのは理解できる。それでも、私の言葉が完全に否定されることは無いと信じていたし、誰か一人くらい「そうかもね」と同意してくれるだろうとも思っていた。けれど……、

「優菜は、彼氏いるからねー」

「そうだよね。さすが、彼氏いる人は余裕あるよね」

 彼女たちの口から実際に出てきた言葉に、今度は私が戸惑う。
 どういうこと? 今はそんな話してないのに。
 愛衣も咲希も佳奈恵も、私に視線を向けたあと、意味ありげに目配せし合っていた。一瞬で背筋が寒くなる。……なんなの、この疎外感。

「優菜ってば、そんな上から目線のアドバイスばっかりやめてよ〜。こっちは恋愛初心者なんだから、お手柔らかに」

 困ったように笑いながら、愛衣が言った。冗談混じりの軽い口調ではあったが、「上から目線」という言葉に私は衝撃を受ける。そんなつもりは無かった。
 
「ごめん! そんな風に感じたなら謝る。恋愛経験あるからって、偉いわけじゃないよ」

 慌てて付け加えた。偉そうに恋愛のアドバイスをしたかったわけじゃない。ただ、本当に、彼女たちが恋愛しないのはもったいないと思ったのだ。それに、私も恋バナに参加して盛り上がりたかった。
 「そんな慌てなくても」「なんとも思ってないよー」と、佳奈恵と咲希が口々に答えたが、口元には冷めた笑いが浮かんでいる。
 ショックだった。私は、他人の恋愛に偉そうにアドバイスする嫌な女に見えているのだろうか。
 ショックと同時に、理不尽だ、とも思った。彼氏がいる私が恋バナに参加しただけで「偉そう」と言われなければならないなんて。
 それに、この理不尽な疎外感を体験したのは、初めてではない。
 あれは、去年のお盆に行われた親戚の集まり。あの集まりでも、私は同じ疎外感を味わった。
 私の従姉妹はほとんどが既婚者で、もう子どももいる。昔は、親戚の集まりで従姉妹たちと会って遊ぶのが楽しみだったのに、今はもう、従姉妹たちと話が合わない。未婚だろうが既婚だろうが誰も悪くないんだけど、少数派の私は話題についていけなくなって、子育ての愚痴や旦那の文句を活発に言い合っている従姉妹たちの姿をぼんやり眺めるだけになる。
 私が悪いわけではないのに居場所がない、あの理不尽な疎外感。 
 彼氏ができたことであの疎外感から少しは脱出できるかもしれないと思っていたのに、私はよりによって、友人たちとの女子会で同じような疎外感を味わっている。
 この女子会では私だけ彼氏がいて、他の3人は彼氏がいない。だから、私はみんなと話題が合わない。
 結局、どんな場所でも多数派が強いのだと思い知った。彼氏がいるから偉いわけじゃないんだと、心の底から思う。
 恋愛をしたことがあるかないか。それは、車の免許を持っているかいないかくらいの違いでしかないと思う。免許を持っていないことは何の問題もない。免許を所持していないにも関わらずアドバイスをすることが問題なのだ。
 恋愛経験がないにも関わらず、わざわざ恋愛の話題に首を突っ込んで見当外れなアドバイスをする。しかも、実際に恋愛経験がある者がアドバイスをすると、コンプレックスをこじらせまくった受け取り方をされて「上から目線」とか「彼氏いるから」とか言われて仲間はずれ。
 こっちが偉そうにしているわけではない。彼女たちは、私を偉い存在にしたいのだ。その方が動かなくていいし、楽だから。

「あーあ。努力したのになぁ……」

 愛衣が再び嘆いた。努力の方向が明らかに間違ってるよ、と指摘したかったが、もう何も言わないことにした。

 
+++

■愛衣(27歳・彼氏いない歴=年齢)

 昼休み。特にやることもないのに休憩室の自分のロッカーを開けて中を覗き込む。ただでさえ狭苦しいロッカーの中には、防寒のためのカーディガンや、今朝購入したペットボトル飲料、残業になった時のための総合栄養食品、使いかけの付箋やボールペンが雑然と押し込まれている。自分にとって必要なものだけしか置いてないはずなのに散らかっている。どうして片付かないのだろう。
 ロッカーと睨み合っている私のすぐ後ろで、佐伯くんと中野さんの楽しそうな話し声が聞こえる。佐伯くんの低い声は何を言っているのか聞き取れないけれど、中野さんの甲高い声だけはハッキリ私の耳に届く。「えー、すごいですね」とか「ほんとですか? 」とか、大袈裟すぎる相槌だ。佐伯くんはそんなありきたりな相槌で笑顔になっているのだろうか。振り返る勇気は無い。
 先週まで佐伯くんの笑顔は私に向けられていたのに。今朝は挨拶しかしてくれなかった。
 その態度の違いに腹が立って、昨夜の女子会で佐伯くんの文句を友人たちにぶちまけたけど、ちっともすっきりしない。
 先週の佐伯くんとの時間を思い出す。佐伯くんは毎日私に話しかけてくれた。始業前の休憩室、昼休憩、帰宅前の僅かな時間にも。

「髪型変えた? 似合ってるよ。ボーイッシュでかっこいいし、ちょっとかわいいよね」

「ひょっとして私服もカッコイイ系だったりする? そういうの好きだな。けっこうタイプ」
 
 とても些細なことだ。でも、好みのタイプとか、かわいいとか、異性からそんなことを言われたのは初めてだった。
 もちろん、最初は警戒していた。だって、今まで男性に褒められたことなんて無かったし、女性扱いされたことすら無かったから。
 それに、すごく恥ずかしかった。褒められたことが恥ずかしかったんじゃない。同じ台詞を別の男の人に言われたら、私はセクハラだと騒ぐだろう。例えば、典型的な肥満体で最近は薄毛も目立ち始めている課長に髪型や服装について言及されたらと、考えるだけで寒気がする。気持ち悪いとまで思うかもしれない。ジロジロ見てたの? 信じられない、と。
 でも、佐伯くんに言われると嬉しい。その事実が、とてつもなく恥ずかしい。「それってセクハラだよ」と指摘しなければいけないのに、嬉しいからできない。指摘するどころか、曖昧に微笑むことしかできなかった。こんなにも露骨に贔屓してしまうなんて、自分自身が恥ずかしい。
 恥ずかしいのに、それ以来、佐伯くんのことばかり考えるようになってしまった。
 今日も佐伯くんと話せるかな。リップの色を変えたから、気が付いてくれるかな。これまで一度もそんなことはしなかったのに、誰かの目を意識して鏡を見ていた。
 そして、先週末の昼休みに、それは起きた。

「一緒にランチ行かない? 」

 佐伯くんが、私に向かってそう言ったのだ。衝撃だった。ついに、デートに誘われたのだ。もちろん、生まれて初めてだ。
 毎日話しかけてくるんだから、佐伯くんも私に好意を持ってるんだろうなということは薄っすら感じていた。でも、こんなに突然、誘われるなんて。
 飛び上がりたいほど嬉しかったけど、どう対応したらいいのか本気でわからない。気付いた時には、こう答えていた。

「えっと……機会があれば」

 今はまだ心の準備ができていない。それに、ちょっと褒められただけで喜んで付いていくような、簡単な女だと思われたくない。誰だってそうだろう。

「……そっか、ごめんね。また今度」

 少し間があったけど、佐伯くんはあっさり引き下がった。ちょっと拍子抜けしたが、「また今度」と言ってくれたし、彼の好意を確認できて良かった。彼は私とデートしたいと思ってくれている。
 佐伯くんが去っても、まだ心臓がドキドキしていた。そして、決意する。
 次に誘われたら、きちんと応えよう。
 人生初のデートに備えて、これからはダイエットも頑張ろう。メイクも最低限しかやってないから彼に失礼。もっと勉強しよう。
 だけど、その一件以来、佐伯くんは仕事以外では私に話しかけてこなくなった。私が髪型を変えても、生まれて初めてアイシャドウをつけても、何も言ってくれない。
 その代わり、佐伯くんは中野さんと楽しそうに話すようになってしまった。
 中野さんは別部署の後輩だからあまり話す機会は無いけど、とても人懐っこい子だ。相手が誰でも気後れせずに話しかけて、「そうなんですかー! 」とか「知らなかったです! 」とか、単純な言葉と大きなリアクションで盛り上げる。中野さんがいると賑やかだけど、周囲に媚びているように見える彼女の仕草が、私は少し苦手だ。
 その中野さんと、佐伯くんが楽しそうに話している。2人の笑い声が聞こえる度に、胸の奥がキリキリした。
 なんで中野さんとばっかり話してるの? また今度って言ってたのに。それとも、待ってればまたデートに誘ってくれるの?

「一緒にランチ行かない? 」

 佐伯くんの声がはっきり聞こえて、危うく振り返りそうになる。一瞬、心臓が弾んだけれど、佐伯くんは私に向かって言ったわけじゃないとすぐにわかった。

「はーい、行きたいです! 」

 中野さんが元気な声で答えたからだ。佐伯くんは、中野さんを誘ったのだ。先週、私に向かって投げかけたのとまったく同じ台詞で、中野さんをデートに誘っている。
 ……ひどい。ひどすぎる。
 私がここにいて、会話が聞こえてるかもしれないってわかってるのに。
 ひょっとして、わざと聞かせてるの? それとも、私なんか視界にも入らないくらい、もう中野さんに夢中なの?
 それに、中野さんも軽率だ。こんなに簡単に誘いに乗るなんて。
 これではっきりわかった。佳奈恵や咲希の言う通りだ。本気なら何度も誘ってくれるはずだし、私が頑張ってることにも気が付いてくれるはず。結局、佐伯くんは私に対して本気じゃなかったんだ。それに、よく考えたら、「かわいい」とか「好みのタイプ」なんて、軽々しく口にする言葉じゃない。
 もし、佐伯くんと中野さんが本格的に職場恋愛を始めて廊下の隅でいちゃついてたりしても、私は我慢しなければならないのだ。辛すぎる。私は佐伯くんのことをしばらく忘れられないと思うのに。
 落ち着かなくなって、ロッカーからスマホを取り出す。優菜、佳奈恵、咲希、私の4人で作ったグループチャットを開いた。昨夜の女子会の名残なのか、グループチャットでは恋バナが続いていた。優菜が主導権を握っている。というか、優菜の惚気話だ。

『やっぱり付き合うなら料理ができる男の方がいいよね。私の彼氏はしてくれるよ! 』

 恋バナと見せかけて、最後には自分の彼氏の話に持っていく手法。最初は微笑ましく聞いていたけれど、次第にうんざりしてきた。それに、昨夜の優菜の発言も、決定的だった。

 恋愛経験があるからって偉いわけじゃない。

 笑ってしまう。その台詞自体が偉そうだと、どうして気付かないのだろう。「偉いわけじゃない」なんて、優菜に恋愛経験があるから言えることだ。厄介なのは、優菜に自覚がないこと。自分が偉そうだという自覚が、本当に無いのだ。
 惚気にしてもそうだ。優菜には惚気話をしている自覚が無い。あくまで恋バナで「報告」をしているつもりだから厄介すぎる。
 佐伯くんが他の女に乗り換えた件をグループチャットで愚痴ろうと思ったけど、優菜が積極的に発言しているのを見て、気持ちが萎えてしまった。だいたい、恋バナなんて私たちには似合わない気がする。
 優菜に彼氏ができるまでは、私たちの会話の中心は恋バナなんかではなかった。漫画やアニメ、趣味の話をするために集まっていたはずだ。共通の趣味で盛り上がれる仲間は貴重だから楽しかった。でも、今は恋バナが中心になっている。確かに華やかな話題ではあるし少しは興味もあるけど、恋愛未経験の私には限界があるのだ。だから、結局は優菜の話が中心になる。
 恋愛を経験すると、未経験だった頃の気持ちは忘れてしまうものらしい。恋愛の右も左もわからずに失敗してしまった話を、同じ立場で聞いて慰めて共感してくれる友人たちの存在に、どれだけ救われるか。優菜だって、そういう時期があったはず。少なくとも、彼氏ができるまではそうだったでしょ?
 今の優菜の状態は、「初彼氏ができて浮かれまくっている女オタク」以外の何者でもない。
 優菜は、自分に彼氏ができたことをものすごい大事件だと思ってるかもしれないけど、絶対に違う。職場の飲み会で既婚者たちから旦那や奥さんの愚痴を聞かされて、最終的には「愛衣ちゃんにもいつか素敵な彼氏ができるといいねぇ〜」なんてお決まりの言葉で締め括られる日常を送っている私にはわかる。「彼氏ができた」を大事件だと思っているのは、恋愛真っ只中にいる本人だけだ。とても自己中心的で視野が狭い世界。それが恋愛。
 そして、そんな自己中心的な大事件を少し羨ましく感じてしまっている自分自身も憎い。私は恋愛になんて興味ないから! と心の底から割り切れればいいのに、それができないから悩む。中途半端に恋愛に興味がないフリをしている。

「愛衣先輩! 」 

 突然、名前を呼ばれて振り返る。驚いたことに中野さんが真後ろに立っていて、無邪気な笑顔で私を迎えた。
  
「今から佐伯先輩とランチ行くんですけど、愛衣先輩も一緒に行きませんか? 」

 一瞬、何を言われているのかわからなかった。中野さんは佐伯くんとランチに行く。だけど、私のことも誘っている。
 混乱した。デートなんだから中野さんは佐伯くんと2人きりで行くんじゃないの? 私が行ったら邪魔者でしょ? 彼女は何を言ってるの?

「い、行かない……」

「そっかー。残念です」

 かろうじて断りの返事をすると、中野さんは本気で残念そうに眉を下げた。「また今度行きましょう! 」と、能天気とも思える言葉を残して踵を返し、佐伯くんのもとへ戻っていく。その様子が待ち合わせしている恋人同士みたいだったので、目を背けたくなった。
 ただ、中野さんと連れ立って休憩室を出ていく佐伯くんが、私に向かって笑顔でひらひらと手を振ってくれた。その笑顔があまりにいつも通りで、ますます混乱する。私はこんなに気まずい想いをしているのに、佐伯くんは普段と変わらない。
 ひょっとして、私も一緒にランチに行ってもよかったのだろうか。デートだと思っていたけど、違うの? 異性と2人きりのランチに誘われたら、それはデートだと思うんだけど。
 私が何か思い違いをしているのだろうか。間違っているのだろうか。誰か教えてほしいけど、誰に聞いたら正解を得られるのかわからない。
 学校では教師が勉強を教えてくれる。職場では上司から仕事を教わる。でも、恋愛については、誰も何も教えてくれない。それなのに、知らないことが恥のように言われるし、何かを間違ったら容赦なく陰口をたたかれる。

 みんな、いったいどこで恋愛を学んでるの?

 誰も教えてくれないから、本当は、佐伯くんへの対応も正解なのかどうかわからない。もしかしたら、とんでもない勘違いや思い込みをしている可能性もあるけど、答え合わせはできない。
 やっぱり、彼氏を作るには中野さんみたいに男に媚びる態度を取らないといけないのだろうか。いや、違うはず。だって、少なくとも、優菜は男に媚びるような態度を取っていない。
 佐伯くんの笑顔が頭から離れてくれない。彼が誘ってくれるまで、もう少し待っててもいいのかな?


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