0/6 市川真人「拝復 笙野頼子様」(はじめに)

目次

0 はじめに
1 拝復 笙野頼子様 このたびは
2 一方、「教えるべきことは教える」という
3 学科も、執行部も
4 整理すると、以下のようになります
5 ここまでが、「妨害」があったかどうかについての
6 ずいぶん長くなってしまいました

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※本稿は、早稲田大学文化構想学部文芸・ジャーナリズム論系発行の機関誌「蒼生2019」内特集企画「文学とハラスメント」に寄稿された、笙野頼子氏の原稿「これ?二〇一九年蒼生の解説です」を受けてのものです。同誌の制作過程での「妨害」を告発するという枠組みの同原稿には、事実の未確認または誤認された記述が多く、人物の実名記載が行われる等、不適切と思われる箇所も多数ありました。また、同誌に掲載された他の学生たちによる特集について、あたかも「本当の特集ではない」と読めるように記載されています。
 にもかかわらず、同誌の発行責任を持つ論系の会議は、わずか数分の閲覧で同原稿を「作品として完成されている」と判定、「一字一句変えずに掲載する」ことを決定し、文学学術院執行部もその判断を「校閲はアカデミック・ハラスメントとなる」との理由で追認してしまいました。
 「蒼生2019」は学内配布誌であり、一般での流通・販売は行われませんが、寄稿者への献本等をはじめ、今日の情報環境下ではいくらでも拡散の余地があります。その結果、「蒼生」全体の制作を手がけた多数の学生たちはもとより、寄稿・登場いただいた方々など学内外の多くのひとたちに、不利益が生じる可能性は否めません。そのことを憂慮し、笙野氏の原稿の概略とともに、同原稿への反論・説明として書かれた本稿を公開します。

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笙野頼子「これ?二〇一九年蒼生の解説です」概略

 1月の下旬、「私」は早稲田大学の学生からインタビューを依頼された。授業で作られている雑誌で、昨年起こった渡部直己氏のセクシュアル・ハラスメント事件をきっかけとした「文学とハラスメント」特集があるそうだ。
 その特集を手がけた学生たちは、授業担当者である市川真人君とK先生(記事では実名)から、「ありとあらゆる妨害」を受けたという。彼らは、教師たちが告発のためのページ数を減らし、妨害していると考えていた。学生たちの日誌には、「させない」という形での邪魔が続いたことなどが記録されている。
 だから2019年の「蒼生」は、この解説なしに読んではならない。「蒼生」の本当の特集とは何だったのか。それは「文学とハラスメント」特集の学生達による、統制の陰で行われた戦いである。
 「私」は、過去「早稲田文学」で二度にわたって言論統制を受けたと思っている。もしこの原稿を市川君がボツにしたら、彼による生涯三度目の言論統制だと。最後に付記として、特集の元となった事件をめぐり、その反響や、渡部氏と「私」の関係、および渡部氏と懇意に見える福嶋亮大氏への批判を記す。

市川真人「拝復 笙野頼子さま」概略

 笙野さんが「ありとあらゆる妨害」と伝え聞いたものは、基本的にはすべて「授業」としての教育目的を持っている。学生が課せられた作業は原則「雑誌づくり」の本質を教えるためのものであった。同じ目的で、今年度は全体を構成を持った三部に分けたが、昨年と同様学生が「自由に作れる」部分として「自主企画」の枠を確保し、ページ数の上限もなく作らせている。
 特集のテーマや内容は、6つの班のプレゼンとコンペから過半数を得て選ばれ、他にふたつの自主企画が成立した。うち1つが「文学とハラスメント」企画であり、その進行にかんしては、スケジュールの再設定も含めて多くが学科主任の判断や、学科の会議、文学学術院執行部との協議や指示の下で行われている。
 「妨害」という残念な誤解が生じた理由はいくつか想定されるが、いずれも意図的なものではないばかりか、多くは企画の成立と学生の安全を図るためのものであり、それらも実質的に企画のなにかを妨げたことはない。
 他方、制作過程で「妨害」があったとするなら、原稿の校正校閲をめぐって行われた判断こそがそれである。わずか数分の流し読みで、「作品として完成している」から校正校閲不要と強弁したり、実名記載された人物に作品とは「異なる見解、争い」があるという事実を著者に確認・指摘する「校閲の初歩」すら、アカデミック・ハラスメントと呼ばれることを恐れて回避することは、それ自体が「文学と(いう名の)ハラスメント」ではないか。
 こうした混乱の背景には、2017-18年に生じた元教授のハラスメント問題と、その事後処理の不首尾があると思われる。結果として生じた不幸な誤解は、解消されることが望ましい。

つづく

※要約は、ときどき修正する場合があります。