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逆説的アクティブ

先日友達と暇について話していた。

私が暇を持て余しているという話から、彼は言った。私は好きな事や興味があることに躊躇なく飛び込んでいくイメージがあって、アクティブな印象があったから暇そうに見えなかった、というような内容を。

私は「なるほど外からはそう見えているのか」と不思議な気持ちになった。

というのは、私は根っからのインドア派で暇さえあれば嬉々として家に引きこもるタイプの人間たからだ。

友達も少ない。というよりかは「わざわざ外出をして、時間をかけて会うほどの人か?」と考えて、「その人と会うよりも家で一人でのんびりしてた方が幸せだ」という結論を出してしまうと、とてもカジュアルに縁を切ってしまうような薄情な人間なので、結果として友達がとても少なくなった。(ちなみに、友達が少ない今の方が私は幸せです)


世間一般的なイメージでのアクティブな人間では決してないと思ってる。

一方で、「やりたいこと興味ないことに躊躇なく飛び込んでいく」のもその通りであるのも事実。

ただその興味のあることが割と内省的なもののことが多い。多いんだけど、確かにその中身を知らない人からみたら確かに「外向的」に見えることも多いなと気づいた。

作業そのものは内に内に向かっていくのだけどそれをするために遠くまで出かけたり、とことん一人になって研究に没頭するためにわざわざ英語を習得してアメリカ留学までした。それは私からみたら、そこに行かないと出来ないことだったから行っただけで、目的はあくまで内省的なもので、外に向かって出て行くという気持ちではなかった。

私はアメリカにいて、それまでの中で一番「日本」や「日本人である自分自身」に向き合っていた。あの時が一番、自分は日本人だったと思う。


岡本太郎はこんなことを言っていた。


生きるということを真剣に考えれば、人間は内向的にならざるを得ない。また逆に、自分が内向的なために、かえって外に突きだしてくる人もいる。だから内向的であると同時に外向的であるわけだ。これが本当の人間的な人間なのだ。歴史的に見て、英雄とか大きな仕事をした人は、みんな内向性と外向性を強烈に活かしている。


私は時々自分を見失った時にこの言葉を思い出す。私がもともと興味関心を抱くことって、家族や家など本当に近しい身の回りの人たちや環境ばかりで、自分自身の内面を見つめることで、それ以外の事には本当に興味がない。

本当は、人に伝えるということすら興味を持たないでいる自分がいる。自分がとにかく味わいたい。そしてそれを家族や家族同然の親友と共有する。それだけで私は幸せなのです。

だけど世の中は「アピール」をしたり人から認められたり注目を浴びたり、あるいは外へ外へ出て行くことを欲してる人が多く見えるし、なんとなくそういう価値観を全体的に推奨しているようにも見える。少なくとも、超絶内向き人間の私にとっては。だから時々、疲れてたり余裕がなくなったりすると、自分もそとむきにならなければ!となるのです。そしてそんな時にやったことは大抵大した結果にはならない。

逆に、どこまでも自分本意で内向きな欲求のために動いた時ほどなぜか人が注目したり、外との世界が繋がり広がる結果がついてきたりする。

前述した友達が見たアクティブな私というのは、その「結果」なのだなということを思った。それを目指してやっていたわけではない。だから不思議だった。でも、カラクリが分かってくると「なるほどな」と分かってくる。


最近人への興味も薄くなって、仕事への興味も熱意もないし「社会を変えたい!」みたいなアツい想いもないな自分って思ってた。


でも多分それで良いし、それが良い。順調である。


おわり。



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